
【超短編小説】 歯が抜ける
疲れていたせいかいつもより熟睡していたように思う。
目を覚ますと、教室には誰もいなかった。教室の時計を見て、時間割を確認する。次は体育の時間だった。
僕は慌てた。体育の先生・通称ラオウは、保護者のうるさい今の時代にへいきで生徒を殴るのだ。ビンタの後に膝蹴りまでくらった奴もいたし、足が地面から浮くほど胸ぐらを掴まれた奴もいたし、剣道場で背負い投げの受身を取らされた奴もいた。そんな訳でとにかく皆恐れていた。
窓際の席だったので、すぐに窓から校庭の様子を確認すると、外は雨だった。と、いうことは、合同で体育を受けている隣のクラスでの座学授業のはずだ! 僕は急いで教科書と筆記用具を用意した。この時ようやく自分の口の中の異変に気付いた。口の中に妙な異物感を覚えたのだ。僕は日本庭園なんかに敷き詰めてある白い小石を想像した。そのような大きさのものを数十個、口の中に感じるのだ。
いったい誰が何の目的でそのようなものを僕の口に入れるのだ? そして、そのような物を口に詰め込まれて目を覚まさないなんていうことがあるだろうか? 僕の頭は混乱した。
再び時計を見る。今にも授業が開始される時間だった。授業に遅れれば、ラオウに殴られるのは火を見るよりも明らかだ。とにかく今は隣の教室に移動することが何より先決だった。
僕は急いで教室を出ようと立ち上がった。だが、不自然な格好で長時間眠っていたせいで、しびれた足がもつれ、転びそうになった。ふんばってなんとか転倒は免れたが、その拍子に口の中の異物がひとつ、僕の口の中から勢いよく飛び出した。それは乾いた音を立てて床の上を二、三メートル転がって止まった。
床に転がったその物質は小指の先くらいの大きさで、少し黄ばんだ白色をしていた。僕はしばらくその物質を見つめた。まるで仔犬が生まれて初めて目にしたものを不思議そうな目つきで見つめるように。
その場所からでは正確な判断がつかなかったので、僕はその物質の側まで近付いてしゃがんで覗き見た。僕の目の前にあるそれはまぎれもなく歯だった。形からしてきっと下の前歯だ。毎日歯を磨く時に鏡で見ている僕の下の前歯。と、いうことは口の中に感じる残りの数十個も僕の歯と考えるのが自然だろう。僕は手のひらに全てを吐き出してみようかと考えた。しかし、それらが全て僕の歯だったとしたら、僕の歯は殆ど全て(或は全て)が抜け落ちてしまったということになる。そう考えると底知れぬ恐怖心が沸き上がってきて、僕は吐き出すことをためらった。
階段を登る乾いた足音が廊下の向こうから響いてくる。あの足音はラオウの足音に違いがない。不思議に思うかも知れないがわかるのだ。他のどの足音とも違う音とリズム。それはラオウの足音に間違いがない。
僕は目をつむった。ラオウの大きな体と整髪料でオールバックに整えた艶のある髪に口髭を生やした色黒の顔とが容易に想像できた。
僕は口の中に残る数十個の歯を吐き出すことを諦め、床に転がった歯を拾って、ポケットにしまい、隣の教室に走った。
教室は静まりかえっていた。扉を開けると教壇に向いていた皆の視線が一斉に僕の顔に集中した。きっとラオウが来たのだと思ったのだろう。ラオウでないとわかると、また一斉に皆の視線は正面の教壇に戻った。
僕は急いで自分の席に着く。その直後、ラオウが教室に入ってきた。日直が号令を掛ける。挨拶をすると、ラオウはチョークで黒板に「質問コーナー、何でもOK!」と書いて、教卓の上の名簿を開いた。僕は心の中でどうか当たらないでくれ、と祈った。もし当たったら僕はどうすればいいのだ? 口一杯に歯を詰め込んで、何を質問すればいい? いや、口を開かずにどう質問するのだ! 今まで誰も証明できない数学の難問のようなこの問題を僕に解ける訳がない!
口を開いたらいったいどんな事態に陥るか、想像しただけで手のひらと額に汗が滲み出す。そんな僕の心中を知るはずもなく、ラオウは名簿を見ながら「今日は五日か……」と言った。そんな馬鹿な! 僕は五組の五番だ! もうダメだ! 全てが終わった。これで、ジ・エンドだ……。
僕は自然と目をつむっていた。続けてラオウが言う。「今日は二月五日だから、五組二十五番の渡辺」と言った。助かった。しかし安心は出来ない。この流れで行けば、次に僕が呼ばれても何の不思議もない。
渡辺の質問はラオウの気分を損ねる。教室の空気は益々張り詰める。そして、その時がきた。
「五組五番、小山。面白い質問頼むぞ」
僕は黙っている。
「小山! 黙っとらんで、はよ質問せい!」
それでも僕は黙っている。
「小僧! 俺の言うことが聞こえんのか?」
やはり僕は黙っている。
皆の視線が僕に集中する。
ラオウは立ち上がって拳を握り締める。
「貴様! 俺をおちょくっとるのか! 歯を食い縛れ!」
僕に歯を食い縛れだって? と、拳が飛ぶ。歯が舞い飛び、次々に溢れ、床一面を白く埋め尽くす。美しい。それが唯一の救いだった。
(終)