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【お山の大将理論】
先日、書いた【学生数わずか600人の朝鮮大学校からプロが輩出されるのは何故?!】という記事が、有難い事に多くの反響を受けました。
【記事はコチラ↓】
学生数わずか600人の朝鮮大学校からプロサッカー選手が輩出されるのは何故|SS@football📝 https://note.com/mago0521/n/nf83d0289a45e
↑ココから見れない方は、是非過去記事一覧から読んでみてください。内容が入りやすいかと。
この記事から多くの議論が生まれたみたいで、非常に嬉しい限りです。
そこでは、在日コリアンという様々なリソースが限られたコミュニティだからこそ、着目すべきポイントについて書かせてもらいました。
小さいコミュニティで育った優れ者、【お山の大将】を、日本サッカーや最近のトレンドサッカーに同化させるのではなく、お山の大将という原石をどんどん尖らせて、唯一無二の選手を育成した方が、在日コリアンというコミュニティの特性上、生産性が高いのでは?という話でした。
その後、自分なりに色々考えてみました。
自分が声高々にあげた、【お山の大将理論】は果たして、筋の通った理論なのか。
モノは言い様になっていないか。極論になっていないか。
そうこう考えているうちに、自分自身のサッカー人生を通して、そのアンサーを体験していた事に気が付いたので、今日はそんな自分のサッカー人生を振り返りながら、一緒に【お山の大将理論】について考察していきたいと思います。
【僕もかつてはお山の大将のうちの一人だった】
僕は小学1年生の頃から地域の在日コリアンのサッカークラブチームに入団し、サッカーを始めました。
2年生になる頃には、チーム内での力関係や、様々な対外試合を通して、「おや?もしや、俺はサッカーがうまいぞ?」と思い始めました。
4年生になると、トレセン制度(選抜)の対象選手になるのですが、区トレセン、市トレセン、県トレセン、、、
6年生になる頃にはナショナルトレセン(全国区選抜)に選出されるようにまでなり、
韓国や中国、国内の多方面に遠征で忙しくするようになりました。
当時の在日コリアンのサッカーチームの選手には、自分で言うのも恥ずかしいですが、そのような選手は当然いません。
学校の先生から保護者の方々、親戚のおばちゃんからチヤホヤされていました。(少し大袈裟ですが)
その当時の僕の心境はというと、「将来は最低でもJリーグ、あわよくばACミランでプレーする」と本気で信じていました。。
試合では思う通りのプレーを軽々に出来るし、どんなディフェンスでもドリブルで抜けると確信していました。
当時のその地域ではなかなか有名だったと思います。
その為の努力もしていました。厳密に言うと当時は努力とも思っていませんでした。
サッカースクールを2校掛け持ち、週末はクラブチームやトレセンの試合に参加する。平日のサッカースクールやクラブチームの練習が終わった後も、家に帰ってきては壁当てを毎日していました。
本当にサッカーが好きでした。
【これで立派なお山の大将に】
ナショナルトレセンに選出された時点から、僕は良くも悪くも自信を持ち始めました。
僕が所属していたクラブチームは非常に小さいチームでしたので、もちろん中心選手で、好きなようにプレーする事が出来ました。
週末はトレセン活動に参加し、たくさんの刺激を受けていました。
色んなコーチからも、「未来は明るい」と言われていたのを今でも覚えています。
【サッカー人生を左右させた中学時代】
Jクラブのジュニアユースに入団する事を考えていたのですが、同じタイミングで病気を患ってしまい、Jクラブには入団する事が出来ず、それでも拾ってくれた強豪街クラブに入団しました。
入団する前から、そのクラブでは僕の噂が広がっていました。そのクラブに所属していた選手の数は100人を越えていましたが、入団当初の注目度は物凄く高かったです。
僕は当時、完全な天狗でした。いや、【お山の大将】でした。
そんな僕を見兼ねたコーチの一人が、このままでは才能が潰されてしまう。と感じ、僕を年代キャプテンに任命し、キャプテンである僕に非常に厳しい指導を行いました。
小学生時代にやっていたような個人プレーは認められず、試合中に怒られる毎日でした。
また、チームが試合に負けたり、中学生らしい悪い行いをすると、キャプテンである僕が常に責任を取らされていました。
決して、この記事はその指導方針を批判している訳ではありませんし、本題はそこではありません。
そういう毎日が続くなかで、僕はサッカーが嫌いになり、グラウンドに行くのが嫌になりました。
その理由は、「コーチに怒られるのが嫌だから」。ただそれだけです。
もう、【お山の大将】の面影は何処にもありませんでした。
怒られたくない自分は常にコーチの目を伺っていました。試合中も日常生活でも常に。
コーチに怒られないように、コーチに怒られないように、行動してしまっていました。
試合中は、以前までは自分で突破したりチャンスメイクするのが好きだったのですが、チャレンジすると失敗する可能性が高くなり、コーチに怒られてしまう可能性が高くなるので、あくまでも引き立て役の役割を全うしていました。
試合には出場しない、「チームキャプテン」とやらをやっていた時期もありました。理由は、チームメイトが直接指名してくれたという事と、周りへの気配りが出来ているという事でした。
「周りへの気配りが出来ている」という言葉は、中学生のサッカープレイヤーにとって、誉め言葉なのでしょうか?
真の【お山の大将】でしたら、怒られようが、何をされようが、自分が思う理想のプレーを貫くのではないのか。他人の言うことなんて関係ない。自分が思ったことをやる。
そんな気がします。
ちなみに言うと、その頃には既に自分は特別な存在ではなく、プロになる。なれるなんて自信は、何処かへキレイさっぱり消えてしまっていました。
【時は流れ、大学へ入学】
高校サッカーでもう一度やり直したいという気持ちがあったので、サッカーを3年間続けました。それなりの努力を担保し、少しではありますが、自信を取り戻しました。
そして、大学でもサッカーをして、最後の挑戦をしてみよう。そう思い、大学に入学しました。
一年生の頃からずっとAチームにはいた(時々Bチーム)のですが、2年間、トップチームの試合に出場する事はありませんでした。
このままではいけないと思った僕は、高校から貫いてきた自分の好きな攻撃型のプレー(ドリブルとかパスとか)から、
チェイシングやプレスバックで、チームに貢献する、守備型のプレーへのシフトチェンジを決行しました。
チーム全体的なスタイルが、堅守速攻だったので、まずは守備が出来るようにならないと駄目だと分析した結果です。
その戦略が功を奏し、トップチームの試合にスタメンで出場できるようになり、僕としてはとても嬉しかったのを覚えています。
そんな、ある日。
当時、試合に出るか出ないかの位置にいて、苦しんでいたとある選手がいたのですが、
その選手についての話を、何気なく、同級生のチームメイト(現プロ)としていた時です。
僕は、自分が攻撃型のプレー(理想)から、守備型のプレー(妥協)へのシフトチェンジが成功していたのもあって、
「アイツも、潔く開き直って、チームに迎合すればいいのにな。そうすれば試合に出れるはずなのに」
それでもかと自分のスタイルを崩さないその選手に対しての、批判を僕は口にしました。
するとチームメイトが、
「開き直り過ぎるのも良くないよ。試合に出ようが出れまいが、自分のスタイルを貫く事は良いことだし、後にその過程が自分に必ず返ってくる」
こう言いました。
本人は覚えているかどうか分かりませんが、僕はその言葉を今でも覚えています。その一言で様々な事に気付かされ、中学時代を振り替えるキッカケにもなりました。
タラレバであるが、自分も中学時代に、、、
【真のお山の大将】
プロを目指す長いサッカー人生の間に、「挫折」というものは必ずや現れる。
そのタイミングはそれぞれ違ったとしても、必ず。
そして、その「挫折」に対して、どう向き合い、どのように認識し、どちらの方向に次の「一歩」を踏み出すかによって、
【真のお山の大将】
に、なれるのか、もしくは、なれないのかという運命が決まるのではないか。
開き直らない。妥協しない。迎合しない。
うまく言葉が見つからないが、強いメンタリティを持って、自分の現状をどのように分析するのか。
少なくとも、僕の元チームメイトは、いくつもの挫折があっただろうと思うが、その度に自分のスタイルを貫き勝負するという、道を選択していたのだろう。と僕はそう思います。
まだ、完璧な答えが出た訳ではありませんが、
これからも【お山の大将理論】について、議論していければいいなと思います。
自分のサッカー人生も悪くないなぁ~
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