イサドラの子どもたち
踊りを、同じように捉えている人に出会えた、という映画だった。身体とか、動くとか、踊るということがその人にとってどういうものか、という意味において。そしてそれは、3部構成の後ろに行くに従って、私にとっての踊りと近しいものになっていく。
1章では、型の輪郭がまだ際立つけれど、それを目的としていないことが伝わる映像から。
2章では、表現を考えている時間が描かれているけれど、思考を超えた身体が生み出す空間を映す映像から。
3章冒頭では、上演を見つめる客席の一人一人の様子から。この人たちの気配は、一緒に舞台上の「母」を踊っている。
ただこの時、人々は動いていない。それが映画の最後、一観客だった女性が、ひとり部屋で日常の動きに続くように、ささやかに動く。それがどう見ても踊りである、その映像から。
この終わりの踊りに向けて、映し出される映像の、踊りの純度が増していき、最後は漆黒に輝く原石のような力強い踊りになる。
表面的には映画冒頭の方が、いわゆるダンスらしいシーンである。けれど、踊りの純度はそれに逆行していく。
舞台に乗せる踊りだけが踊りじゃない。鍛錬していない身体も踊る。存在から滲み出てくる踊り。身体。
美しい映画でした。
映画予告編動画はこちら。
https://youtu.be/MbzDKmeEtSM
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