【悪木盗泉】を考える
【悪木盗泉】あくぼくとうせん
どんなに困窮しても、わずかな悪事にも手を染めないこと。悪事に染まることを戒めていうことば。
こんにちは。異羽です。
清廉潔白である、と自白できるほど僕は確立されてないので多分この四字熟語には見合わない気がしますね。
と、スタンスを曝け出したところで。
まぁ言うなれば「ズルすんな」ってことなんすけど、ただ出典元では少々違う様子。
「悪木」とは役に立たない木、「盗泉」とは存在する泉の名前だそう。
昔、孔子(よく聞く名!)が盗泉を通りかかった時喉が異常に渇いていたものの、名前が悪いからってことで飲まなかったらしい。悪い名を持つなんら普通のものにも身を汚す何かがあるんだってさ。
おやおや。現在の意味である戒めとはなんか軸が違う様子。
これって言わば「このタイトル不快だから読まない」みたいなことの延長な気がしますね。
決めつけの刃ってやつですね。
この世、実は悪いコンテンツなんてものはなくて、波長が自分に合うかどうかなんですよね。合えば快、合わなければ不快、ただそれだけのこと。だけど不快を穢れだと思う人からすればそれを予期させる悪い名前はとっても悪なんでしょう。
かくいう僕にも毛嫌いしているものはいっぱいあるのでまぁ、あんま多弁にはなれないんですけど。
名前から印象を決めつけ忌避する姿は、違う視点を持った他人からすれば滑稽なものです。
なるべく食わず嫌いはせず生きたいですが、これまで積み重ねてきた時間がそれを許さない時だってありますよ。人の食わず嫌いを嗤わず、笑みを浮かべるぐらいの余裕を持った人間でいたいですね。
で、どうしてこれが戒めに転じることがあるのでしょう。人を嗤うのを悪だとするなら、「そういうことすんなよ! 悪事ぞ!」が転じまくったってことでしょうか。
いや、むず過ぎるですよ。