Decade

※この記事は東日本大震災についての記事です。当時のことを書き連ねるため、苦手な方は読むのをご遠慮ください。

2021年3月11日。忘れもしないあの地震から10年が経ちました。
甚大な被害が出てしまった東北3県ほどではないものの、自分は海沿いの地域に住んでいたため、生活に支障が出るレベルで被災しました。その日の自分の状況を、備忘録としてネットの海に残しておきます。

当時自分は中学1年生。音楽の授業を受けていたときでした。立っている先生が地震に気づかないというよくあるネタで収まるかと思いきや、今までに経験したことがない横揺れが襲いました。周りに机などがなく隠れる場所がなかったため、僕は音楽室を飛び出して近くの昇降口から外へ出ました。ここまで1分ほど時間があったはずなのに、まだ横揺れは終わらない。普段動かないはずの地面が揺れて見え、電線が波打っている。凄まじい景色を目に焼き付けながら避難場所の広場に逃げました。
実はあの日の3日前ぐらいに、避難訓練を行っていたんです。その時は「ダルいなあ」と思いながら参加していたのですが、まさか現実になるとは…。

避難後、携帯を持っている周りの友人がワンセグを通して「日本でなにが起こったのか」という情報をパンク寸前の電波と戦いながらかき集めてました。「宮城とか岩手がヤバい」「千葉のガスタンクが大炎上」等々…。さらには、避難場所の目の前の建物にヒビが入っていることが発覚。余震で倒壊してしまう危険性があったため、すぐさま校庭に移動することになりました。

ある程度の落ち着きが見え、親と連絡が取れた方から帰宅という流れになりました。自分はバス通学だったため直接帰宅はできなかったものの、幸いにも近くに父親の職場があったため同僚の方が引き取りに来てくれました。職場に着いてやっと家族と合流できると思ってましたが、父親はいわゆる管理職という立場であり周りの職員や外への連絡でメチャクチャ忙しそうにしてたので、あまり邪魔しないようにしました。

職場は非常用電源でなんとか停電を免れていたため、ストーブで暖まりながらテレビを見ていました。そこでやっと自分も外部の状況を知ることができたのですが、正直散々たるものでした。瓦礫の山、屋上で救助を求める人達、津波の瞬間…なにより一番驚いたのが、近くの神社の鳥居が崩壊したことでした。そしてだんだんと襲ってくる空腹をもらったアメで紛らわしながら、父の仕事が終わるのを待っていました。

父の仕事が終わったのが夜11時ごろ。やっと父親と会話を交わし、車で合流先である祖父母の家に向かいました。夜11時にも関わらず道路は大渋滞。信号も停電で止まってしまったため、到着するのに2時間かかりました。深夜になって家族と合流後、車内でラジオから流れ続ける「楽しい仲間がポポポポーン」というCMを聞きながら仮眠をとりました。このタイミングで両親が自宅の状況を確認し、最終的に自分たちが帰宅できたのは午前3時ごろのことでした。この1日以内で帰宅することができたのを今でも「奇跡」であると思っています。本当に周りの人に感謝をしてもしきれません。

この日以降も停電や断水、食料確保に関してメチャクチャ苦労して被災生活を1ヶ月送ったのですが、長いので割愛します。


ただ、たった1日で、大災害に対する認識が一変しました。この地球(日本)に生まれてきた以上、地震や台風で被災する可能性が誰にでもあります。そして、地震で失ってしまったものは数え切れないほど沢山あるけれど、地震から学び、未来に活かせることもたくさんあります。これから起こりうる災害に向けて、節目であるこのタイミングで、今一度向き合ってほしいです。

真面目な話をしすぎたので懐かしい動画を貼って終わりにします。
ここまで読んでくれて本当にありがとうございました。


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