【虹ヶ咲】桜坂しずくと他者への応援でもある自己表現【ユニット回の役割】
『桜坂しずくを好きになりたい』の記事では、【2期5話】内の「侑と嵐珠の会話」というピンポイントでの観点、
『桜坂しずくと悩みと気づきと解決法』の記事では、【2期5話】単体を通しての観点
から、
『しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%しずく自身のやりたいことではなかった(型にはまって目いっぱい自分を表現できていなかった)』
という私見を述べさせていただきました。
今回は、虹ヶ咲という作品全体を通して考えてみても、上記と同じ結論に至るという私見を述べさせていただければと思います。
※この記事では、上図の紫色の領域に分類される"他者への応援でなおかつ100%しずく自身のやりたいことも表現できているもの"を「他者への応援でもある自己表現」としています。
①:しずくは【2期5話】以前に「他者への応援でもある自己表現」の良さを実感している
しずくは、【2期5話】以前に「他者への応援でもある自己表現」の良さを実感しています。
具体的には、【1期13話】で『夢がここからはじまるよ』を披露したシーンです。
『夢がここからはじまるよ』とは、今までみんなに支えてもらった分、次はしずくたちがみんなの夢を応援する「あなたのための歌」(ここでの特定の受け手=侑)であり、しずくはスクールアイドルとして舞台上でこの歌を表現しています。
そして、『夢がここからはじまるよ』を表現したことによってしずくに悩みは生まれていないため、しずくにとってこの表現は良いと思えた(完成されたものだと思えた)と考えられるでしょう。
つまりしずくは、
あなたへの応援ソングである『夢がここからはじまるよ』(=他者への応援)を、
スクールアイドルとして歌っており(=100%の自己表現)、
この自己表現で悩みが生まれていない
ため、しずくは【2期5話】以前の【1期13話】で「他者への応援でもある自己表現」の良さを実感していると私は解釈しています。
ちなみに、
「夢がここからはじまるよの舞台」と【2期5話】内で良いとは思えなかった「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」には違いがあり、
「夢がここからはじまるよの舞台」と【2期5話】内で良いと思えた「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」は同じである
ということになり、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」との違いとは、【2期5話】でしずくが得た気づきである『型にはまらず目いっぱい自分を表現すること』だということになりますね。
※詳細は『桜坂しずくと悩みと気づきと解決法』の記事を参考にしてください。
ここまでをまとめると、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は"他者への応援でもある自己表現"ではないが、
「夢がここからはじまるよの舞台」(と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」)は"他者への応援でもある自己表現"であり、
しずくは【2期5話】以前に"他者への応援でもある自己表現"の良さを実感している
ということですね。
②:歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本を「他者への応援でもある自己表現」とした場合、【2期5話】の物語をうまく説明できなくなる
それでは、仮に歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本が"他者への応援でもある自己表現"であった場合を考えてみましょう。
そうすると、しずくは、
「夢がここからはじまるよの舞台」で既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを実感したことがあるのに、
"他者への応援でもある自己表現"である「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」で悩みが生まれた
ということになります。
"他者への応援でもある自己表現"の良さを知らないがために「他者への応援でもある(≒自分の夢を周りに重ねている)」という部分に対して不安になるならまだしも、既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを知っているしずくは、一体「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の何に悩むことがあるのでしょうか?
そのままその"他者への応援でもある自己表現"の「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」を執筆し続けていればいいのではないでしょうか?
さらに、しずくは既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを知っていて、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は"他者への応援でもある自己表現"なのに、
信頼している人から、
面と向かって、
理由とその理由を裏付ける根拠を提示して懇切丁寧に「しずくは自分の夢を周りに重ねているだけ」と説得されて悩んだ
ならまだしも、
【2期5話】時点ではまだ友人と呼べるかどうかすら怪しい間柄である嵐珠の、
しずくに対してではない侑に対する「自分の夢を周りに重ねているだけ」という(結果としてしずくにとっては的外れとなる)言葉を、
勝手にただただ額面通りに受け取って悩んだ
ということになります。
しずくは既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを知っていて、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は"他者への応援でもある自己表現"なのに、です。
もちろん、悩みが生まれるのにはどんな間柄の人がどんな熱量で言ったかは直接関係ないので別に問題はないのですが、私としては、この部分でもシンプルに違和感を覚えてしまいますね。
とはいえ、しずくは既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを知っているからといって、この先もずっと"他者への応援でもある自己表現"に関して悩まないというわけではありません。
そのため、仮にしずくはそんな嵐珠からの言葉を勝手にただただ額面通りに受け取って(都合よく)何かに悩んだとしましょう。
それではなぜ、(メタ的に見た場合)しずくはわざわざ「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」をしたのでしょうか?
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が"他者への応援でもある自己表現"なのであれば、
自分の夢を周りに重ねているだけで何も生み出せていないという嵐珠の言葉はしずくの誤解であり、
真実は「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の時点で"他者への応援でもある自己表現"を生み出せていた(歩夢とせつ菜を応援しながら100%しずく自身のやりたいことができていた)
わけです。
そうであれば、
『わざわざ「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」という新しい行為を生み出す必要はなく、誤解が解けた後もしずくは今まで通り「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の続きを執筆することで"他者への応援でもある自己表現"をし続けていればいい』
のではないでしょうか?
むしろ、しずくは新しい行為を生み出さずに、今まで通り「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の執筆だけをすることで、
自分の夢を周りに重ねているだけで何も生み出していないという嵐珠の言葉はしずくの誤解(≒嵐珠の言葉は間違い)であり、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は自分の夢を周りに重ねているだけではなく何かを生み出せる"他者への応援でもある自己表現"だ(≒しずくの行為は正しい)
ということを証明するべきでしょう。
逆に言えば、【2期5話】の結末で「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」という新しい行為を生み出してしまったら、本当に「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」そのものが"他者への応援でもある自己表現"であったかどうかはわからないままです。
そうすると、
『やっぱり「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」では何かが足りなかったから、しずくはわざわざ「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」という新しい行為を生み出す必要があったんじゃないの?』
という指摘を否定できなくなってしまいます。
つまり、【2期5話】の結末としてふさわしいのは(メタ的に見た場合アニメ制作陣が描写すべきなのは)、
新しい行為である「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を生み出すことで"他者への応援でもある自己表現"ができたという描写ではなく、
今まで通り「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の続きだけを執筆することでも"他者への応援でもある自己表現"ができているという描写
なのではないかということですね。
私としては、この段階で物語の整合性がとれなくなってしまうと判断するので、この解釈では【2期5話】の物語をうまく説明できなくなると考えます。
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が"他者への応援でもある自己表現"であると解釈している人は、なぜしずくは「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」で"他者への応援でもある自己表現"をし続けず、わざわざ「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を生み出したと考えているのでしょうか?
ちなみに私の解釈では、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」には足りない「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」を補うために「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を生み出す必要があり、しずくは既に"他者への応援でもある自己表現"の良さを知っていて、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」そのものは"他者への応援でもある自己表現"ではなかった(≒嵐珠の言葉は正しい)ことに気づいたからこそ、上記の間柄や状況でも嵐珠の言葉が刺さったということになります。
※「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」そのものは"他者への応援でもある自己表現"ではありませんが、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」(=他者への応援)があったからこそ「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」(="他者への応援でもある自己表現")が生まれたということです。
③:【2期】のユニット回は「夢がここからはじまるよの舞台」を再現しようとする物語である
また、上記引用の通り、【1期】【2期】を通して同好会のメンバーは、
『"自分のための自己表現"から"他者への応援でもある自己表現"へと、自己表現が変化している』
と私は解釈しています。
そして、上記引用はQU4RTZの4人での会話ですが、メタ的に見ると【2期】のユニット回は【1期13話】の「夢がここからはじまるよの舞台」(=他者への応援でもある自己表現)を再現しようとする物語であり、
『ユニットやグループでの「他者への応援でもある自己表現」を成立させるために必要な条件』
を、それぞれのユニット回で伝えていると私は考えています。
その条件とは、上記引用の通り、
『みんなの気持ちが揃っていること』
になるのですが、これを細分化すると、「他者への応援でもある自己表現」をしようとする行為について、
条件①:自分が良いと思っている(自分が自己表現だと思っている)
条件②:仲間が良いと思っている(仲間が自己表現だと思っている)
条件③:受け手(ファン)が良いと思っている(受け手が応援だと思っている)
という3つが揃っていること(=三者みんなが良いと思っていること)になります。
具体的に言えば、
QU4RTZ回では、仲間が良いと思えるかの大切さ(条件②)
DiverDiva回では、受け手が良いと思えるかの大切さ(条件③)
A・ZU・NA回では、自分が良いと思えるかの大切さ(条件①)
を伝えているということであり、これは裏を返せば、
QU4RTZ回には、仲間が良いと思っていない描写があり、それを解決する物語
DiverDiva回には、受け手が良いと思っていない描写があり、それを解決する物語
A・ZU・NA回には、自分が良いと思っていない描写があり、それを解決する物語
だということです。
つまり、A・ZU・NA回である【2期5話】の物語とは、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」はしずく(自分)が良いと思えず(100%の自己表現だとは思えず)、
しずく(自分)が良いと思える(100%の自己表現だと思える)「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を生み出すことで解決した物語
であり、虹ヶ咲という作品全体を通して見た場合、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、自分が良いと思えないものとして、
『"他者への応援でもある自己表現"を成立させるために必要な条件のひとつである「自分が良いと思えるかの大切さ」を伝えるための重要な役割を担っている』
と私は解釈しているということですね。
それでは、物語の時系列順に簡単に説明していきます。
③-1:QU4RTZ回(仲間が良いと思えるかの大切さ)
QU4RTZ回の仲間が良いと思っていない描写は、複数あるので全ては挙げませんが、たとえば上記引用のシーンです。
このシーンは、嵐珠のために披露するライブについて、かすみ(自分)は良いと思っているけど、
『エマと彼方と璃奈(仲間)は良いと思っていない』
という描写であり、4人でのユニットでどのようなパフォーマンスをするかなかなか決まりません。
そして、仲間から見た新しい自分という解決法を見つけることで、自分も良いと思えて仲間も良いと思えるパフォーマンスを生み出します。
その結果QU4RTZの4人は、
自分(上記例の場合ではかすみ)が良いと思えて、
仲間(上記例の場合ではエマと彼方と璃奈)も良いと思えて、
受け手(ここでの特定の受け手=嵐珠)も良いと思える
"他者への応援でもある自己表現"ができています。
③-2:DiverDiva回(受け手が良いと思えるかの大切さ)
DiverDiva回の受け手が良いと思っていない描写は、上記引用のシーンです。
このシーンは、美里のために開いた退院祝いの遊びについて、愛(自分)は良いと思っているけど、
『美里(受け手)は良いと思っていない』
という描写であり、愛は一緒に遊ぶことで美里を励ましているつもりだったけど、美里にとってはそれがかえって重荷になっていました。
他者へ手を差し伸べるという行為は、悪く言えば「上の立場から施しを与える」と捉えられてしまうこともあるわけで、美里は愛の悪気のない行為を受け取るたびに、自分は「下の立場から施しを受ける」だけの人間である(≒対等な関係ではない)ことを思い知らされていたのかもしれませんね。
※もちろん、愛は美里を下に見ているわけではなく、むしろ愛の方がお世話になっていたと思っているからこそ、小さい頃に美里からもらった「楽しい」の恩返しをしよう(≒対等な関係になろう)としています。
そして、(一緒に遊ぶことではなく)競い合う対等なライバルという解決法を見つけることで、自分も良いと思えて受け手も良いと思えるパフォーマンスを生み出します。
その結果DiverDivaの2人は、
自分(愛)が良いと思えて、
仲間(果林)も良いと思えて、
受け手(ここでの特定の受け手=美里)も良いと思える
"他者への応援でもある自己表現"ができています。
③-3:A・ZU・NA回(自分が良いと思えるかの大切さ)
A・ZU・NA回の自分が良いと思っていない描写は、上記引用シーンです。
このシーンは、歩夢とせつ菜のために執筆した脚本について、歩夢とせつ菜(受け手)は良いと思っているけど、
『しずく(自分)は良いと思っていない(良いと思えなくなった)』
という描写であり、嵐珠の言葉通りしずくは何も生み出せていないと悩んでいます。
そして、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」に、型にはまらず目いっぱい自分を表現する自由さを付け加えた「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」という解決法を見つけることで、受け手も良いと思えて自分も良いと思えるパフォーマンスを生み出します。
その結果A・ZU・NAの3人は、
自分(しずく)が良いと思えて、
仲間(歩夢とせつ菜)も良いと思えて、
受け手(ここでの特定の受け手≒歩夢とせつ菜)も良いと思える
"他者への応援でもある自己表現"ができています。
ちなみに【2期6話】は、スクールアイドルフェスティバルを諦める(せつ菜の大好きを隠す)のではなく、文化祭との合同開催(菜々の大好きとの両立)ができるように、型にはまらず目いっぱい全部の大好き(どちらかを選択するのではなくどちらも選ぶ第三の選択肢)を実現しようとすれば、限りない未来が待っているという物語になっています。
これは、【2期5話】で描写された「型にはまらず目いっぱい自分を表現すれば楽しいものが生まれる」(=自由)というA・ZU・NAのコンセプトに通じており、
自分(せつ菜)が良いと思えて、
仲間(スクールアイドルや生徒会)も良いと思えて、
受け手(ここでの特定の受け手=スクールアイドルフェスティバルや文化祭を楽しみにしている人たち)も良いと思える
"他者への応援でもある自己表現"ができています。
③-4:まとめ
ここまでをまとめると、【2期】のユニット回は「夢がここからはじまるよの舞台」(=他者への応援でもある自己表現)を再現しようとする物語であり、【2期5話】は"他者への応援でもある自己表現"を成立させるために必要な条件のひとつである、
『自分が良いと思えるかの大切さ』
を伝えていると私は考えています。
そして、しずく(自分)が良いと思えないものとして「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は重要な役割を担っていると考えるため、虹ヶ咲という作品全体を通して考えてみても、
『しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は"他者への応援でもある自己表現"ではない』
と私は解釈しています。
番外編:【1期】【2期】【OVA】を通した自己表現の変化
自分用のメモも兼ねて、【1期】【2期】【OVA】を通して、同好会のメンバーたちの自己表現がどのように変化していったのかを大まかに整理しておきたいと思います。
まず、自己表現の段階を、
段階①:夢がなく自己表現をしていない
段階②:夢はあるが自己表現をしていない
段階③:自分のための自己表現をしている
段階④:他者への応援でもある自己表現をしている
という4つに分類しており、メンバーによって差はあるのですが、
歩夢、かすみ、せつ菜、愛、エマ、璃奈、彼方、しずく、果林の9人を「歩夢たち」
栞子、ミア、嵐珠の3人を「栞子たち」
とまとめています。
また、個人的には、自分のための自己表現をすることは結果として誰かの応援にもなっているわけであり、段階③と段階④にそこまで優劣はない(≒自分がその行為を他者への応援だと認識しているかどうかの違いだけ)と考えているため、段階③から段階④になることを昇華ではなく変化としています。
※段階③から段階④になることには、自己表現の実現がより他者依存になる(受け手が良いと思えるかも重要になってくる)という条件(≒デメリット)もあり、上記の通り、受け手が良いと思えるかの大切さは【2期4話】で描写されています。
ただし、おそらくアニメ制作陣は、
『自分のための自己表現から他者への応援でもある自己表現になること≒夢の広がりのひとつ』
であると描写しているのだろうなと私は解釈しています。
※私自身も、段階③を実現できたら必然的に段階④を実現したいと思うようになるもの(≒マズローの欲求段階説のようなもの)だと考えており、実現できるのであれば、段階③よりも段階④の方が好ましいと思っています。
それでは、以下より整理していきます。
【1期】序盤は、夢があり自分のための自己表現をしたいけど一歩踏み出せない歩夢たちが、まだ夢を持っていない侑などに応援してもらうことによって自分のための自己表現ができるようになります。
※エマは、【1期1話】の時点で既に段階④に近い状態であり、これに加えて夢の目的と手段が明確である(≒【1期1話】の時点で既に人として成熟している)ことがエマの成長を描写しづらい要因になっていると私は考えていますが、ここでは省略します。
ちなみに、【1期1話】でせつ菜の『CHASE!』を見て、
歩夢はスクールアイドルになりたいと思って、
侑はスクールアイドルを応援したいと思った
という違いは「夢の有無」であると私は解釈しています。
つまり、
歩夢には夢があり、自己表現をしたいけど一歩踏み出せない段階②の状態だったからこそ、せつ菜のパフォーマンスを見て「私もあんな風に自己表現ができたら素敵だ」と思えたけど、
まだ表現したい夢が見つかっていない段階①の侑は、せつ菜のパフォーマンスを見ても「私もあんな風に自己表現ができたら素敵だ」とは思えない
ということです。
そのため、侑は決して歩夢の言葉を聞いていなかったわけではなく、歩夢の言葉を聞いたうえで、表現したい夢が見つかっていない侑には「私もあんな風に自己表現ができたら素敵だ」という言葉に共感できなかったということですね。
その代わりに侑は、せつ菜のパフォーマンスを見て「夢を追いかけている人を応援したら何かが始まる(≒表現したい夢が見つかる)」という予感をしているわけです。
そして、応援することで歩夢に遅れて音楽という自分の夢を見つけた侑は、歩夢に遅れて【1期1話】でのせつ菜の『CHASE!』と同様に自分を目いっぱい伝えようと自己表現しているみんなの姿が素敵だということに気づきます。
そんな自分の夢を見つけるのが遅くても、目いっぱいの自己表現をすることの素敵さに気づくのが遅くても、応援をすることで自分の夢を見つけ、その夢を叶えることで幸せになれた侑だからこそ、上記引用の言葉に説得力が生まれてくるということですね。
第1話での歩夢と侑の対比が最終話で活きてきて(≒最後の最後に侑は歩夢に追いついて)、
最初に自己表現をしていた歩夢が最後には応援もしていて、
最初に応援をしていた侑が最後には自己表現もしている
という虹ヶ咲のテーマを描写した「自己表現と応援が表裏一体」(=他者への応援でもある自己表現)となっている展開は、本当に素晴らしいと思います。
【1期】中盤は、自分のための自己表現をしている歩夢たちを見て侑に夢が見つかり、歩夢たちはスクールアイドルフェスティバルでそれぞれソロで自分のための自己表現をする準備をしています。
【1期】終盤は、歩夢たちはスクールアイドルフェスティバルの最後のステージで、あなたのための歌である『夢がここからはじまるよ』を披露(=他者への応援でもある自己表現)して、その姿を見た侑は音楽という夢を実現しようと決意しています。
※厳密に言えば、侑は音楽での自己表現はまだ実現していませんが、スクールアイドルフェスティバルの開催というひとつの自己表現をしています。
【2期】序盤は、歩夢たちはユニットを通じて「夢がここからはじまるよの舞台」(=他者への応援でもある自己表現)の再現をしようとして、侑は『NEO SKY, NEO MAP!』で自分のための自己表現をしながら、より自分を表現できる自己表現とはどのようなものなのかを模索しています。
一方で、栞子たちはそれぞれ自分の得意なことで自己表現はできていますが、自分のやってみたい夢での自己表現については一歩踏み出せないままです。
※大まかに、栞子のやってみたいことはスクールアイドル、ミアのやってみたいことは歌手、嵐珠のやってみたいことはライバルだけど仲間であると私は解釈しています。
【2期】中盤は、侑が自分にとっての自己表現を確立して、歩夢たちと一緒に、かつて自分たちがそうであった夢があり自分のための自己表現をしたいけど一歩踏み出せない栞子たちの背中を押すことで、栞子たちは自分のための自己表現ができるようになります。
※ミアは【2期9話】で嵐珠への応援でもある自己表現ができており、嵐珠は【2期10話】でライバルだけど仲間という自分の夢が実現しています。
【2期】終盤は、栞子たちが歩夢たちや侑と一緒に『Future Parade』を披露(=他者への応援でもある自己表現)することで、かつて自分たちがそうであった夢があり自分のための自己表現をしたいけど一歩踏み出せない"あなた"やアイラ、夢がなくて自己表現をしていない"あなた"を応援しています。
【OVA】は、夢があり自分のための自己表現をしたいけど一歩踏み出せないアイラに対して、栞子たちが歩夢たちと一緒に『Go Our Way!』を披露(=他者への応援でもある自己表現)することで、アイラは自分のための自己表現ができるようになります。
そして、「次はあなたの番!あなたのがんばったこと&がんばりたいこと発表会」を含めたOVA全体の描写で、夢があり自分のための自己表現をしたいけど一歩踏み出せない"あなた"や、夢がなく自己表現をしていない"あなた"も応援しています。
まとめ
今回は、虹ヶ咲の作品全体という観点から、【2期5話】のしずくに対する私見を述べさせていただきました。
やはり私の結論としては、
『しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%しずく自身のやりたいことではなかった(型にはまって目いっぱい自分を表現できていなかった)』
ということになります。
また、「他者への応援でもある自己表現」という観点から、【1期】【2期】【OVA】を通した自己表現の変化を整理してみると、【劇場上映シリーズ3部作】はどのような物語になるのかますます気になりますね。
ちなみに、【劇場上映シリーズ3部作】がどのような物語になるのか、予想というほどではない私が注目しているポイントについての記事もあるので、ぜひ読んでいただけると幸いです。
というわけで、コメントはもちろん、SNSのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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