【雑記】作品の世界と視聴者の世界、登場人物の気持ちとあなたの気持ち【蓮ノ空と虹ヶ咲】
※本記事は2024年3月31日、2024年10月18日に一部追記しています。
※本記事には私が作った用語なども含まれているため、本記事以前に投稿した私の記事を参考にしながら読んでいただけると幸いです。
作品の世界と視聴者の世界
私の記事を読んでいる配信のポストが引用されているので一応言及しておきますが、
『作中で花帆が「できる」って言ってるんだから(視聴者も)できると捉えるべき』
という意味なのであれば、私はそのような主張はしていません。
むしろ、
『どう捉えるかは、制作者の意図や登場人物の気持ちにかかわらず(自分の心の中で思うだけなら)視聴者の自由であり、視聴者それぞれの心に抱いた感情は(自分の心の中で思うだけなら)誰にも否定できるものではない』
と視聴者の気持ちを肯定しており、正反対の主張をしています。
また、私は「作中で花帆が「できる」って言ってるんだから(視聴者も蓮ノ空の世界では)できると捉えるべきであり、そんな事技術的にできるわけないだろっていうのはあなた達の主観です」とは主張していません。
まず、人物の対応関係が私の意図しているものとは違います。
しずくミュージカルの制作者(創造主)である「しずく」と対応しているのは「花帆」ではなく「蓮ノ空の制作者」です。
蓮ノ空の世界の住人(登場人物)である「花帆」と対応しているのは「しずく」ではなく「野獣」です。
そして、
花帆の「できる」という発言は、(蓮ノ空の世界での登場人物のひとりに過ぎない)花帆だけでは100%コントロールできるわけではないテザリング(通信量を送る?)という「蓮ノ空の世界(のルール)」について干渉している発言で、
しずくの「恐ろしい姿である」という発言は、(創造主である)しずく本人だけで100%コントロールできる「しずくの気持ち(意図)」についての発言
であるため、そもそも引用ポストで提示されている内容は、しずくの例としてあまり適切ではないように思います。
私は、
『客観的な描写よりも主観的な感想を優先して根拠にし、「そんな事技術的にできるわけないだろ」と主張するのは、妥当な解釈ではなくあなたの妄想の域を出ない主観です』
と主張しています。
つまり、たとえ「そんな事技術的にできるわけないだろ」という主張が同じであったとしても、何を根拠にしているのかで、
主観的な主張なのか、
客観的な主張なのか
が変わってくるということですね。
蓮ノ空【14話】の場合、テザリング(通信量を送る?)という技術は作中で描写されている客観的な事実です。
そして、作中で描写されているテザリングという事実(客観的な描写)を根拠にして、「(テザリングでは)技術的にできるわけないだろ」と主張した場合は、主観だと私は判断しません。
もちろん、なぜテザリングでは技術的にできないのかを説明する必要がありますが。
※一応、「蓮ノ空の世界のテザリングは視聴者の世界のテザリングと同じものではない」という考え方もできるのですが、それをすると、「花帆が話している日本語は視聴者の世界の日本語と同じものではない」という考え方もできることになるので、事実上無限の解釈ができることになってしまいますね。
反対に、作中で描写されているテザリングという事実(客観的な描写)があるのに、「蓮ノ空の世界にテザリングという技術なんてあるわけがない」というあなたの気持ち(主観的な感想)を優先して根拠にし、「(テザリングがないから)技術的にできるわけないだろ」と主張した場合は、妥当な解釈ではなくあなたの妄想の域を出ない主観であると私は判断します。
ただし、主観であっても結果的にその主張が作品の世界で正しい場合もありますが。
ちなみに、虹ヶ咲【2期5話】の場合、しずくが野獣の姿を「恐ろしい姿である」と発言したのは作中で描写されている客観的な事実です。
そして、しずくが野獣の姿を「恐ろしい姿である」と発言したという事実(客観的な描写)があるのに、「恐ろしい姿に見えない」というあなたの気持ち(主観的な感想)を優先して根拠にし、しずくも恐ろしい姿に見えないと思っている(≒しずくミュージカルは美少女同士の物語である)と主張した場合は、妥当な解釈ではなくあなたの妄想の域を出ない主観であると私は判断します。
ここまでをまとめると、私は、
作品の世界のルール(客観的な描写)を根拠にしている場合は客観的な主張、
作品の世界のルール(客観的な描写)があるのに(視聴者の主観的な感想を含む)視聴者の世界のルールを根拠にしている場合は主観的な主張
であると判断しているということです。
また、作品の世界のルール(客観的な描写)が作中で提示されていない場合は、視聴者の世界のルール(≒主観的な感想)を根拠にせざるを得ないと考えています。
このパターンは、(この記事で扱っている部分の)蓮ノ空【14話】と虹ヶ咲【2期5話】のどちらにも当てはまっていませんが、せっかくなので、ここからはこのパターンでの納得感の話をしましょう。
私は、この「作品の世界のルール(客観的な描写)が提示されていないために視聴者の世界のルール(≒主観的な感想)を根拠にせざるを得ない」パターンが非常に厄介だと思っています。
なぜなら、いくら視聴者の世界のルールを根拠にして「整合性がとれていないからこの作品には納得感(現実味)がない」と訴えたところで、作品の世界は視聴者の世界と比べて、
物理法則が全く同じではないから
科学技術が全く同じではないから
美的感覚が全く同じではないから
視聴者が住んでいる宇宙とは全く同じではない宇宙だから
などと言われてしまうとそこまでだからです。
※蓮ノ空【14話】は、作中にテザリングという客観的な描写がありますが、ここでの話は、作中にテザリングという客観的な描写がないために、視聴者が推測(妄想)で蓮ノ空の世界にはテザリングがあるだろうと視聴者の世界のルールを当てはめて解釈した場合ということですね。
私は「そこは常識的に考えたらわかるじゃん!」と言いたくなる側の人間なのですが、
『じゃあそのあなたの常識が作品の世界の常識と全く同じであるという根拠はあるの?』
と言われてしまうとどうしようもありません。
蓮ノ空【14話】のように、作中にテザリングという客観的な描写がある場合は、その客観的な事実を根拠として提示すればいいだけなのでシンプルなんですけどね。
そして反対に、作品の世界は視聴者の世界と比べて、
スクールアイドルが歌い始めたら急に周りの景色が変わるのはなぜ?あなたは視聴者の世界では現実味のない現象を受け入れてるよね?
登場人物は視聴者の世界に存在している人間と比べると目が大きすぎるし鼻や唇がほぼないのに人間だと思っているのはなぜ?あなたは視聴者の世界では現実味のない現象を受け入れてるよね?
などと問われると、「それはそれで、これはこれじゃん。フィクションならではの演出じゃん!」と言いたくなるのですが、この言葉は「視聴者の世界のルールを根拠にしたら整合性がとれず納得感(現実味)がない」という自分の主張にもブーメランとして返ってきます。
そうすると、「これは納得できるけどあれは納得できない」という自分のさじ加減(主観的な感想)で、許容できる納得感(現実味)を視聴者それぞれで勝手に決めているだけということ以外の説明ができないように思います。
そして、「私の納得感」と「あなたの納得感」で許容できる内容やレベルが違っていても別に問題はありません。
むしろ違っていて当然です。
つまり、
『(視聴者の主観的な感想を含む)視聴者の世界のルールを根拠にした納得感というのは、自分の気に入っている部分は作品にとって都合の良いように解釈できて(=善意の解釈)、自分の気に入っていない部分は作品にとって都合の悪いように解釈できる(=悪意の解釈)というかなり曖昧な基準で判断されている(≒主観的な感想)』
という結論になるわけです。
※念のためもう一度言っておきますが、(この記事で扱っている部分の)蓮ノ空【14話】と虹ヶ咲【2期5話】は、「作品の世界のルール(客観的な描写)が提示されていないために視聴者の世界のルール(≒主観的な感想)を根拠にせざるを得ない」というパターンではありません。
ここまでをまとめると、作品の世界ではなく視聴者の世界のルールから根拠を持ってきた時点で、
『作品の世界と視聴者の世界ではルールが違うから』
と言われるだけで相手にのらりくらりと逃げられてしまいます。
そのような相手には、どれだけ自分に納得感(現実味)がないことを主張したとしても、永遠に納得してもらえることはないでしょう。
なぜなら、その主張は作中の客観的な描写(作品の世界のルール)を根拠にしていない(≒公式の見解ではない)ので、客観的な説得力がないからです。
逆に言えば、自分もこの方法を使えば相手からのらりくらりと逃げることができるというわけですね。
そうすると、ここから先は話が前に進みません。
つまり、私が何を言いたいのかというと、
『建設的な議論をしたいのであれば、視聴者の世界ではなく作品の世界(作中)から根拠を提示しなければいけない』
ということです。
そのため、蓮ノ空【14話】で言うと、作中で描写されているテザリングという事実を根拠にして主張を展開していくというのは、非常に有効な方法だと私は考えているということですね。
一方、虹ヶ咲【2期5話】で言うと、(物語の展開やしずくの発言(≒作品の世界のルール)を考慮せず)作中で描写されているわけではないあなたの美的感覚(≒視聴者の主観的な感想を含む視聴者の世界のルール)だけを根拠にして、「作品の世界の登場人物であるしずくも(あなたと同じように)野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であるとは思っていない」という主張を展開していくのは、(あなたの中だけでは正しいと言えるのですが)客観的な説得力がないため、「必ずしもしずくがあなたと同じ美的感覚を持っているとは限らないけどね」と言われるだけで、相手にのらりくらりと逃げられてしまうだろうということであり、実際にしずくは野獣を「恐ろしい姿である」と発言しているという作中の客観的な描写を根拠にした反証があります。
「しずくも(あなたと同じように)野獣役のせつ菜の姿を恐ろしい姿であるとは思っていない」と主張する人は、作中にある「しずくは野獣を恐ろしい姿であると発言している」という描写についてはどのような見解を持っているのでしょうか…。(しずくは嘘をついていたと解釈しているということ…?)
作中の客観的な描写から根拠を提示できない場合、たとえば、
自分の美的感覚(主観)だけを根拠に、自分は野獣役のせつ菜を「恐ろしい姿だと思っている」からしずくも「恐ろしい姿だと思っている」と主張している人
自分の美的感覚(主観)だけを根拠に、自分は野獣役のせつ菜を「恐ろしい姿だと思っていない」からしずくも「恐ろしい姿だと思っていない」と主張している人
両者はどちらも客観的な説得力がなく、お互い本人の中だけでは自分の主張が正しいことになっているので、「あなたの中だけではあなたの主張は正しいのかもね。私はあなたの主張が正しいとは思わないけど」と言い合うことになり、永遠に平行線のままでこれ以上話が前に進まないということですね。
このことから私は、
『建設的な議論をしたい場合、(視聴者の主観的な感想を含む)視聴者の世界のルールを根拠にして作品の世界を指摘することは、非常に分の悪い主張である』
と考えています。
個人的には、(視聴者の主観的な感想を含む)視聴者の世界のルールを根拠にして「納得感がない」と主張することは、
論文ではなく、
感想文
に近い主張だと思ってしまいますね。
これは、論文と感想文にはそれぞれ特徴があるよという話で、どちらの方が優れているかという話ではありません。
私としては、個人が(自分の心の中で思うだけなら)視聴者の世界のルールを根拠にして感情を抱くことは全く問題ない(むしろ正しい)と思っていますし、それを公に主張することは自己責任のもとで自由だと思っています。
あくまでも、建設的な議論をする場合はあまり向かないのではないかというニュアンスですね。
※上記の通り私としては、作品の世界のルール(客観的な描写)が作中で提示されていない場合は、視聴者の世界のルール(≒主観的な感想)を根拠にせざるを得ない(≒視聴者の世界のルールを根拠にすべき)と考えています。ここで言いたいことは、視聴者の世界のルールを根拠にした場合、「作品の世界と視聴者の世界ではルールが違うから」という相手の主張を否定することはできない(≒論破することはできない)だろうということです。
登場人物の気持ちとあなたの気持ち
ここからは、納得感の話ではなく私がしたかった話です。
ここまでの記事の内容で伝わっているとは思いますが、私は配信主が「しずくミュージカルには納得感がない」と思っていることに疑問はありません。
配信主は、
『(しずくではなく配信主が)しずくミュージカルを「美少女と野獣の物語である」と見ようと思えば見られるけど、そもそも頑張って見ようと思わなくても見えるような表現にすればいいじゃん。大人の事情でせつ菜を誰が見ても恐ろしい姿にできないんだったらそもそも『美女と野獣』を題材にしなきゃいいじゃん。』
と主張していると私は受け取っており、(私の主張とは異なりますが)その通りで一理あるなと思っています。
※ではなぜ虹ヶ咲のアニメ制作陣はそうしなかったのかという私見があるのですがここでは省略します。
疑問に思っているのは、配信主はしずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈しているのかという点です。
重要な部分なので丁寧に言いますが、しずくミュージカルについて、
配信主がどう思っているのかではなく、
配信主は「しずくがどう思っている(意図している)」だろうと解釈しているのか
ということです。
『配信主は、しずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈していますか?』
ぜひ、「はい」か「いいえ」で教えていただきたいですね。
また私は、
「しずくが恐ろしい姿だと言っているんだから、視聴者も恐ろしい姿だと捉えるべき」とは主張しておらず、
「しずくが恐ろしい姿だと言っているんだから、しずくは恐ろしい姿だと思っている(意図している)と捉えるべき」
と主張しています。
そして、
「納得感がない」というあなたの気持ちを否定しているわけではなく(むしろあなたの気持ちというのは誰にも否定できるものではなく、自分の心の中で思うだけなら自由だと肯定しています)、
「あなたに納得感がないから」ということだけを根拠に、客観的な描写よりもあなたの気持ち(主観的な感想)を優先して、「登場人物もあなたと同じ気持ちである」と結論付けるのは、
妥当な解釈ではなくあなたの妄想の域を出ない主観的な感想である
と私は主張しています。
しずくに当てはめると、
「恐ろしい姿に見えない(納得感がない)」という配信主の気持ちを否定しているわけではなく、
「配信主が恐ろしい姿に見えない(納得感がない)から」ということだけを根拠に、「恐ろしい姿である」というしずくの発言(客観的な描写)よりも「配信主が恐ろしい姿に見えない」という配信主の気持ち(主観的な感想)を優先して、「しずくも配信主と同じように美少女同士の物語である」と思っていると結論付けるのは、
妥当な解釈ではなく配信主の妄想の域を出ない主観的な感想である
と主張しているということです。
もう少し具体的に説明します。
上記引用の通り、しずくは野獣役のせつ菜の姿を「恐ろしい姿である」と発言しています。
この発言は事実(客観的な描写)であり、しずく本人が「恐ろしい姿である」と発言している以上、たとえ視聴者全員が「恐ろしい姿に見えない」と思っていたとしても、少なくともしずくだけは「恐ろしい姿である」と思っていると解釈せざるを得ないと私は判断します。
そして、野獣を「恐ろしい姿である」と思っていることから、しずくはしずくミュージカルを「美少女と野獣の物語である」と考えていることになります。
一方、配信主は野獣役のせつ菜の姿を「この世の中で一番尊い見た目をしている(≒恐ろしい姿に見えない)」と発言しています。
この発言は事実(客観的な描写)であり、配信主本人が「この世の中で一番尊い見た目をしている(≒恐ろしい姿に見えない)」と発言している以上、たとえ他の視聴者全員が「この世の中で一番尊い見た目をしているようには見えない」と思っていたとしても、少なくとも配信主だけは「この世の中で一番尊い見た目をしている(≒恐ろしい姿に見えない)」と思っていると解釈せざるを得ないと私は判断します。
そして、野獣を「この世の中で一番尊い見た目をしている(≒恐ろしい姿に見えない)」と思っていることから、配信主はしずくミュージカルを「美少女同士の物語である」と考えていることになります。
大事なことなので何度も言いますが、ここで私は「しずくが恐ろしい姿だと言っているんだから、配信主も恐ろしい姿だと思うべき」とは主張していません。
むしろ、「配信主がどう思うかは(自分の心の中で思うだけなら)配信主の自由であり、しずくと同じである必要はない」と主張しています。
ここまでをまとめると、
しずくは、野獣役のせつ菜の姿を「恐ろしい姿である」と思っていることから、しずくミュージカルを「美少女と野獣の物語である」と考えている
配信主は、野獣役のせつ菜の姿を「恐ろしい姿に見えない」と思っていることから、しずくミュージカルを「美少女同士の物語である」と考えている
しずくと配信主の考えが違っていても問題ない
ということになります。
ちなみに、私が「野獣役のせつ菜の姿」をどのように思っているのかは『桜坂しずくとケモ耳』の記事を参考にしてください。
※念のために言っておきますが、上記の記事はあくまでも「私はこう思える」というだけであり、「あなたも私と同じように思うべき」と強制しているわけではありません。
本題はここからです。
私は、上記引用の配信主の発言に引っかかっています。
前述の通り、たとえ視聴者全員が「美少女同士の物語である」と思っていたとしても、しずくだけはどうしようもなく「美少女と野獣の物語である」と思ってしまっていると解釈せざるを得ないと私は考えます。
つまり、作品とか物語に興味の矢印が向いていないのは、
「美少女と野獣の物語である」と思っているしずくではなく、
「美少女同士の物語である」と思っている配信主
なのではないかということですね。
もし、しずくは演劇が好きだと言っているのに、作品とか物語に興味の矢印が向いていない場合は、「これって本当にしずくのやりたいことなの?」と配信主が疑問に思うのも理解できます。
しかし、上記引用のように考えているのは、
野獣を「恐ろしい姿である」と思っていて「美少女と野獣の物語である」と思っているしずくではなく、
野獣を「恐ろしい姿に見えない」と思っていて「美少女同士の物語である」と思っている配信主
なのではないでしょうか?
そして仮に、しずくミュージカルについて「しずくも美男美女が出てきて恋愛すれば何でもいいと考えているだろう」と配信主が解釈しているのであれば、
『配信主は、しずくが「恐ろしい姿である」と発言したという事実(客観的な描写)を蔑ろにしていることになる』
と私は考えます。
つまりその行為は、
しずくが「恐ろしい姿である」と発言したという事実(客観的な描写)よりも、
配信主が「恐ろしい姿に見えない」という配信主の気持ち(主観的な感想)を優先して、
しずくも配信主と同じように「美少女同士の物語である」と思っているだろうと配信主の気持ち(主観的な感想)をしずくに押し付けて解釈している
と私は判断するということです。
別の言い方をすれば、そのような解釈は、
『お話の内容(客観)と自分の願望(主観)を切り分けられていない』
と私は判断するということですね。
※そのように解釈することを否定しているわけではありません。
そして、客観的な描写よりも主観的な感想を優先して根拠にし、しずくの気持ちも自分の気持ちと同じだと押し付けて解釈することは「妥当な解釈」だと私は思えないので、
『「しずくも配信主と同じように美少女同士の物語である」と思っていると結論付けるのは、妥当な解釈ではなく配信主の妄想の域を出ない主観である』
と私は主張しています。
大事なことなので何度も言いますが、「恐ろしい姿に見えない」という配信主の気持ちを否定しているわけではありません。
『配信主は、しずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈していますか?』
配信主が、しずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈している場合は、上記引用の主張との整合性がとれないと私は考えます。
配信主は「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」と解釈しているのに、
動画内で配信主は「しずくは作品とか物語に興味の矢印が向いていない(≒しずくは美少女同士の物語であると思っている)」と発言している
ことになるからです。
私はここにすごく引っかかっています。
たとえばですが、もし、
配信主は「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」と解釈していて、
動画内で配信主は「視聴者があのせつ菜の姿を見て恐ろしい姿に見えるわけないだろ!しずくは「恐ろしい姿である」と発言しているから、しずくだけはどうしようもなく作品とか物語に興味の矢印が向いているかもしれないけれど、視聴者は全員作品とか物語じゃなくて美少女同士の百合に矢印が向いちゃってるんだよ!」と発言して、
「『美女と野獣』の代わりに『ローマの休日』を題材にすればよかったのに!」と代案を提示する
という構成の展開だったとしたら、「配信主は恐ろしい姿に見えない」という主観的な感想(≒視聴者の世界のルール)を根拠にしている感情論だと判断するとは思うのですが、(細かい部分の解釈は違えど)私は「なるほどな」と思えたでしょう。
ただし、「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」と配信主が解釈している場合、虚無動画④で立てている仮説が虚無になると私は考えます。
なぜなら、虚無動画④の内容は、虚無動画①~③にかけて配信主が主張しているように「しずくは美少女同士の物語であると思っている」ということが前提で話が進められているからです。
「しずくは美少女同士の物語であると思っている」と配信主が解釈しているからこそ、虚無動画④では「仮にあの脳内イメージのシーンがしずくのものではなかったとしたらこの解釈は覆せるよね?」という仮説を立てているわけですね。
逆に言えば、もし「恐ろしい姿である」というしずくの発言を根拠に「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」と配信主が解釈しているのであれば、脳内イメージのシーンがしずくのものであったとしても、しずく以外のものであったとしても、「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」という結論は変わりません。
つまり、配信主が「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」と解釈している場合、虚無動画④の内容は前提が成立しておらず、脳内イメージのシーンが誰のものであったとしても別に問題はないため、虚無動画④の内容はそもそも仮説を立てる必要など全くない虚無の仮説になると私は思ってしまいますね。
一方、配信主がしずくミュージカルについて「しずくは美少女同士の物語であると思っている(意図している)」と解釈している場合は、上記引用の主張との整合性はとれるのですが、しずくが「恐ろしい姿である」と発言したという事実(客観的な描写)を蔑ろにしていることになると私は考えます。
この場合、配信主は物語の展開(前後の文脈)や人物の言動などから読解せずに、上記引用の画像①のシーンだけを見て「しずくは美少女同士の物語を妄想している」と解釈したことになると私は判断します。
そして、そのように解釈することは、物語の展開(前後の文脈)や人物の言動などから読解せずに、上記引用の画像②のシーンだけを見て「侑と歩夢は百合である」と解釈している人と同じ行為をしていることになるのではないでしょうか?
つまり、物語の展開(前後の文脈)や人物の言動、感情の機微などから読解せずに、ピンポイントの描写だけで判断していることになり、
画像①のシーンだけを見て「しずくは美少女同士の物語を妄想している」と配信主が解釈しているのであれば、
画像②のシーンだけを見て「侑と歩夢は百合である」と解釈している人、つまり配信主が嫌だと思っていた人と同じことをしている
わけなので、配信主にブーメランが刺さっていませんか?と私は思ってしまいますね。
私がしたかった話はこれです。
物語の展開(前後の文脈)や人物の言動などから読解せずに、
虹ヶ咲【2期5話】の画像①のシーンだけを見て「これは美少女同士の百合だ」と主張する人
虹ヶ咲【1期11話】の画像②のシーンだけを見て「これは美少女同士の百合だ」と主張する人
両者は、文字通り一言一句やっていることが同じであるように私は見えてしまいますね。
また、仮に配信主が嫌だと思っていた人に皮肉を効かせたかったのであれば、しずくが美少女同士の百合の妄想をしていたということにして、
「おかしいだろ!!!!!」と否定するのではなく、
「やっぱりしずくはこうでなくっちゃね」と肯定
しなければいけないように思います。
ここまでをまとめると、せっかく作中で「しずくは恐ろしい姿であると発言している」という公式お墨付きの印籠があるのに、配信主はそれをドブに捨てて、わざわざ配信主が嫌だと思っていた「(短絡的に)しずくは美少女同士の物語であると思っている」陣営に仲間入りしているように私は見えてしまいますね。
そして、古巣の「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」陣営と戦うならまだしも、虚無動画④で配信主は、まさかの乗り換え先で味方になったはずの「(短絡的に)しずくは美少女同士の物語であると思っている」陣営と素手で内紛を始めるという…。
そして負けてしまったという…。
だったら、そもそも公式お墨付きの印籠を捨てるなよっていう…。
せめて今すぐ「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」陣営に帰ってきなよっていう…。
「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている」陣営には公式お墨付きの印籠があるので、素手で戦うまでもなくこの印籠を掲げるだけでゲームセットですよっていう…。
それでは最後にもう一度だけ聞きます。
『配信主は、しずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈していますか?』
最後になりましたが、私の記事を読んでいただきありがとうございます!
配信主は、虹ヶ咲【2期5話】のしずくの悩みについて、
『歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本そのものでは、スクールアイドルや演劇(女優)としての自分の夢は前進していない』
という点は考慮していない(だろう)ということがわかり、非常に気づきのある配信でした。
配信主が、上記引用の二択を提示して悩まれていたことにはとても驚きましたね。
この二択であれば、私の解釈に近いのは②です。
自分の気持ちや考えを相手に伝えるって難しいですね。
まず、しずくは「本当は歩夢とせつ菜への当て書きよりもやりたいことがある」や「本当はもっと書きたい脚本があるけど無難な当て書きをしよう」といった不満や悩みがありながら、歩夢とせつ菜への当て書きをしていたわけではないと私は解釈しています。
つまり、しずくは嵐珠の忠告を聞く前まではまだ何も悩んでおらず(脚本の続きについては悩んでいますが)、嵐珠の忠告を聞いた後で初めて悩みが生まれたということです。
そして、「歩夢とせつ菜への当て書き」とは、他者への当て書きという性質上、少なからず"他者への応援"の要素が含まれているという意味で、私は「歩夢とせつ菜への当て書きは100%しずく自身のやりたいことというわけではない」と表現しています。
なぜなら、しずくは「歩夢とせつ菜を利用して自分だけ良い思いをしよう」や「歩夢とせつ菜にとって不利益な当て書きをして恥をかかせてやろう」等とは思っておらず、「歩夢とせつ菜には並々ならぬスター性(≒演劇の才能)もあると思っていて、きっと歩夢とせつ菜(としずく自身と受け手)のためにもなるだろう(≒他者への応援でもある自己表現)」と、歩夢とせつ菜の魅力を最大限引き出そうと思いながら(≒他者への応援)、歩夢とせつ菜への当て書きをしている(脚本の内容やジャンルを考えている)からです。
※しずくが、明確に「歩夢とせつ菜への当て書き」が"他者への応援でもある自己表現"だと確信したうえで当て書きをしているというよりかは、メタ的に視聴者目線から見るとそういう構図になっているということです。
そして、歩夢とせつ菜の魅力を最大限引き出そうと思いながら歩夢とせつ菜への当て書きをしているのであれば、その当て書きの内容やジャンルというのは、
しずくの好きな内容やジャンルであるかどうかは二の次であり、
歩夢とせつ菜の魅力を最大限引き出せる内容やジャンルであるかどうかが一番重要視されている
だろうと私は判断するので、
『歩夢とせつ菜への当て書きの内容やジャンルだけを見て、「これがしずくの好きな内容やジャンルである」とは結論付けられないのでは?』
と主張しています。
たとえば、しずく自身は「脚本の執筆」という行為を楽しんでいることは大前提として、脚本の内容については、演劇に関しては初心者である歩夢とせつ菜でも演じやすいように、(しずく自身が好きな内容やジャンルを優先せず)歩夢とせつ菜のために誰もが知っていて演じやすいであろう『美女と野獣』をベースにした当て書きをしたという解釈をしても問題はないでしょう。
※『美女と野獣』は誰もが知っていて演じやすい作品であると思えるかどうかは視聴者それぞれの考え方や感性次第であり、あなたが「この解釈は納得感がないなぁ」と思うのは自由ですが、少なくとも作中には「しずくは『美女と野獣』を演じやすい作品であると思っている」という解釈を否定できるだけの客観的な根拠はないはずです。
つまり、たとえしずくの大嫌いな内容やジャンルであったとしても、それが歩夢とせつ菜の魅力を最大限引き出せる内容やジャンルであるとしずくが判断したのであれば、しずくは脚本家として歩夢とせつ菜のためにその大嫌いな内容やジャンルの脚本を執筆しているだろうということですね。
逆に言えば、もし「かすみへの当て書き」でも「愛への当て書き」でも「エマへの当て書き」でも「璃奈への当て書き」でも「彼方への当て書き」でも「しずく自身への当て書き」でも「果林への当て書き」でも「栞子への当て書き」でも「ミアへの当て書き」でも「嵐珠への当て書き」でも、全ての当て書きが「歩夢とせつ菜への当て書き」と同じ内容やジャンルの脚本になるのであれば、それは、
しずく自身の好きな内容やジャンルは二の次にして、当て書き相手それぞれの魅力を最大限引き出すために多種多様な内容やジャンルの脚本を執筆しているのではなく、
それぞれの当て書き相手を利用して、しずく自身の私利私欲のためだけにしずく自身の好きな内容やジャンルを一番重要視して脚本を執筆しているだろう
と私は判断し、脚本家という立場を利用して当て書き相手のことなど何も考えずにしずく自身の好きなことを他者に押し付けているだけであると考えるので、その場合は「"他者への応援"なんて含まれていないただの自己満足じゃん(≒100%しずく自身のやりたいこと)」と私は思うことになるでしょう。(私はそれを「当て書き」とは呼ばないと思いますが…)
具体的には、【映画第1章】でしずくが彼方のステージを提案する際に、もし「キラキラとか場所とかはどうでもいいので今すぐ遥さんを沖縄に呼んで、二人でステージに立って百合のパフォーマンスをすればいいと思います」というような提案をしていたとしたら、私は「別々の場所でスクールアイドルグランプリに参加するという近江姉妹の意向を無視したしずくの私利私欲のためだけの提案なのでは?」と考えることになり、「じゃあ【2期5話】の歩夢とせつ菜への当て書きも、しずくは百合が好きで自分の私利私欲を優先した結果あのような脚本の内容になったのでは?」という解釈にも一考の余地があるなと思っていたかもしれませんね。
しかし、実際にはしずくはそんな提案をしなかったわけで、やはり私としては、しずくは他者のためにも行動できる人物であり、他者それぞれの魅力を最大限引き出そうと尽力(妄想)するのが好きで得意な人物として描かれているなという解釈になります。
また百歩譲って、歩夢とせつ菜への当て書きがしずくの私利私欲のためだけに執筆されたものであり、なおかつしずくの好きな内容やジャンルであったとしても、前述の通り「恐ろしい姿である」というしずくの発言を根拠に「しずく本人は歩夢とせつ菜への当て書きを(美少女同士ではなく)美少女と野獣の物語であると思っている」と解釈するのが妥当であると私は考えるので、
『(配信主目線では蔑ろにしているように見えるのかもしれませんが)しずく目線では、歩夢とせつ菜への当て書きは『美女と野獣』の根幹を蔑ろにしているわけではないのでは?』
と主張しています。
そして個人的には、(しずくは演劇が好きなだけで造詣が深いかどうかはわかりませんが)演劇について造詣が深いからといって、誰もが知っているメジャーな作品を一番好きになってはいけないわけではないと思っています。
たとえば、メジャー作品とは作品として過不足なく美しく完成されているからこそ、長年にわたって語り継がれて多くの人に知られるメジャー作品となっており、むしろメジャー作品やマイナー作品にたくさん触れている演劇が好きな人ほどメジャー作品の完成度の高さを実感できているとも考えられるため、「演劇が好きと公言しているからには一般的に知られていないマイナー作品を好きだと言わなくちゃ」や「しずくは演劇が好きだと言っているからみんなが知らないマイナー作品をベースにした脚本を執筆するはずだ」という発想になる方が浅いのでは?という考え方もできてしまいますね…。
※「あなたもこの考え方をするべきだ」と強制しているわけではなく、「あなたはこの考え方をしなくてもいいけど、この考え方を否定することもできないよね」と主張しています。
他には、そもそも作中で「美女と野獣」というワードが出ていないことから、歩夢とせつ菜への当て書きは視聴者の世界に存在している『美女と野獣』をモチーフにしているわけではない(虹ヶ咲の世界には『美女と野獣』という作品は存在していない)という解釈もナシではない(少なくとも否定はできない)でしょう。
……というように、作中でなぜしずくが『美女と野獣』という結論に至ったのかについての経緯(しずくの気持ち)が詳細には描写されていない以上、視聴者が主観的な感想で脳内補完する余地があり、視聴者がそれぞれ納得感があると思える、あるいは納得感がないと思える妄想ができてしまうわけで、最終的にどの妄想を自分の解釈として採用するのかは視聴者それぞれで異なっていても問題ありません。
実際に、歩夢とせつ菜への当て書きについて、配信主は納得感がないと思っているのかもしれませんが私は納得感がないとは思っておらず、私はこの違いについて疑問を持っているわけではありません。
いくつか例を挙げましたが、私の解釈としては、前述の通りしずくは歩夢とせつ菜への当て書きについて『美女と野獣』の根幹を蔑ろにしているわけではなく、歩夢とせつ菜の魅力を最大限引き出そうとしていると思っていて、演劇が好きな人(造詣が深い人)がメジャー作品に分類されるであろう『美女と野獣』を提案しても別にいいよねと思っていることから、【2期5話】の物語やしずくの描写に納得できているので、これ以上このシーンについて細かい妄想(≒深読みやこじつけ)をする必要はないよね、という感じです。
細かい妄想(≒深読みやこじつけ)をする必要がある(せざるを得ない)のは、【2期5話】の物語やしずくの描写に納得できていない人でしょう。
※【2期5話】の物語やしずくの描写について、私は納得できているというだけであり、納得感がないと思っている人を否定しているわけではありません。
一方、野獣役のせつ菜の姿については、作中で「恐ろしい姿である」というしずくの発言(しずくの気持ち)が明確に描写されている以上、視聴者の主観的な感想で脳内補完する必要はなく、むしろ視聴者が勝手に「しずくは恐ろしい姿であるとは思っていない」と脳内補完してしまうと不思議なことになると私は思ってしまいますね…。
また、ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会TVアニメオフィシャルBOOK2を参考にメタ的な考えも含めると、しずくミュージカルは、アニメ制作陣が視聴者に対して、視聴者の世界に存在している『美女と野獣』を想起させたり、意図的に「百合だ」と思わせる描写を入れることによって、気楽にアニメを見ていたりなんとなく見ているだけの人たちでもインパクトを感じて楽しんでもらうための"遊び"のシーンでしかないと解釈しています。
もちろん、カジュアルに楽しみたい人向けの"遊び"のシーンだからといって、虹ヶ咲という作品の根幹や登場人物の設定を壊してしまっては本末転倒でしょう。
そのため、「しずくは演劇が好きなのに興味の矢印が作品や物語に向いていない人物である」という解釈をしてしまう人が出ないように、"遊び"のシーンでありつつも、アニメ制作陣はしずくに「恐ろしい姿である」と発言させることによって「いやいや決してしずくは美男美女が出てきて恋愛すれば何でもいい恋愛リアリティーショーみたいな脚本を執筆しているわけではないですよ」と釘を刺しているわけですね。
個人的には、この"遊び"の部分でSNSのトレンド入りなどを狙っているであろうアニメ制作陣はなかなか強かで、視聴者が知らないマイナー作品ではなく『美女と野獣』をモチーフにしたのはいい塩梅だなと微笑ましく思いながら素直に受け入れられたのですが、この"遊び"の振り幅に耐えられずに振り落とされてしまう(≒納得感がないと思う)人がいることも理解できます。
これはどちらが良いか悪いかの話ではなく、許容度の違いの話なのでしょう。
虹ヶ咲には他にも"遊び"のシーンがあるはずで、「この"遊び"は許容できるけどあの"遊び"は許容できない」という許容度は視聴者それぞれで違っており、違っていて当然ですね。
そして、実際には「歩夢とせつ菜への当て書き」だけでは"他者への応援でもある自己表現"にはならず、それを元にした「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」となって初めて"他者への応援でもある自己表現"として完成したというのが、虹ヶ咲【2期5話】の物語だと私は解釈しています。
今回の気づきをふまえた虹ヶ咲【2期5話】の私見を簡単にまとめると以下の通りです。
しずくの昔からある夢:スクールアイドルや演劇
しずくの新しく見つかった夢:脚本の執筆
嵐珠の忠告を聞く前:しずくは不満や悩みを持たず「歩夢とせつ菜への当て書き」を執筆している(視聴者目線では、しずくは"他者への応援でもある自己表現"をしているように見えるが、実際にはそうならず、虹ヶ咲【2期5話】はしずくの行動力の高さ(≒早合点)がかえって悩みのタネになってしまったというお話)
嵐珠の忠告を聞いた後:しずくに2つの悩みが生まれ、しずく(自分)は「歩夢とせつ菜への当て書き」を良いと思えなくなる(視聴者目線でも、「歩夢とせつ菜への当て書き」が"他者への応援でもある自己表現"ではないことがわかる)
しずくの悩み①:「歩夢とせつ菜への当て書き」は、歩夢とせつ菜の気持ちを確認せず、しずくの新しく見つかった夢(=脚本の執筆)を勝手に歩夢とせつ菜へ押し付けた独りよがりな行為であり、(結果的に歩夢とせつ菜は余計なお世話だとは思っていなかったが)他者への応援どころか余計なお世話になっていたかもしれなかったこと
しずくの悩み②:「歩夢とせつ菜への当て書き」を優先すると、しずくの昔からある夢(=スクールアイドルや演劇)が前進しないこと
せつ菜が即興劇の提案をする前:しずくは新旧どちらの夢も中途半端で前進しておらず(しずく自身が「歩夢とせつ菜への当て書き」を良いと思えなくなり、脚本の執筆を優先したためにスクールアイドルや演劇の夢が前進しておらずどちらも上手くいっていない)、結局何も生み出せていないままだと悩んでいる(これがしずくの悩み①としずくの悩み②のまとめであり、侑と同じ構図になっているが、このことで侑は悩んでおらず、侑は他者への応援(スクールアイドルへの応援)が自分の夢の実現に必要不可欠であることを確信している=侑は嵐珠のやり方(忠告)ではなく侑のやり方だからこそ自分の夢が実現できることを虹ヶ咲【1期】で実感している)※しずくは「歩夢とせつ菜への当て書き」を良いと思えなくなった(≒他者への応援と思えなくなった)ために確信できず、しずくのやり方(≒侑のやり方)ではなく嵐珠のやり方(忠告)が正しかったのではないかと悩んでいる。
歩夢とせつ菜2人での即興劇:「歩夢とせつ菜への当て書き」の実践であり、これだけではしずくの悩み②が解決していないため、しずくの脚本を元にした「歩夢とせつ菜2人での即興劇」は上手くいかない(=メタ的に「歩夢とせつ菜2人での即興劇」≒「歩夢とせつ菜への当て書き」は未完成であることの描写)
歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇:しずくが舞台に上がって演じ始めたことでしずくの悩み②が解決し、同時に歩夢とせつ菜を助ける形にもなっており(=しずくが舞台に上がって演じることは歩夢とせつ菜にとっても必要不可欠であったということの描写)、「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」は、しずく(自分)と歩夢とせつ菜(仲間かつ受け手)の三者全員が良いと思っている"他者への応援でもある自己表現"となっている(=しずくの悩み①が解決していることの描写)ため上手くいく(=メタ的に「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」は完成されたものであることの描写)
上記の気づきに関する詳しい私見や、虹ヶ咲のアニメ制作陣は「納得感」よりも優先していることがあるだろうという私見についてもいつか記事にできればいいなと思っています。
ちなみに、配信主の主観的な部分と面白さを優先して作っていて、配信主がやりたかった虚無動画④について、
私は、しずくミュージカルについて「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」と解釈しており、
画像①のシーン(脳内イメージ)が、しずくのものであったとしてもしずくのものでなかったとしても、「しずくは美少女と野獣の物語であると思っている(意図している)」という結論は変わりません。
しかし、虚無動画④で配信主は「しずくは美少女同士の物語であると思っている(意図している)」という前提で、
「画像①のシーン(脳内イメージ)はしずくのものなのかしずく以外のものなのか」について20分以上語っていたので、
私は「そもそもしずくは美少女同士の物語であると思っている(意図している)わけではないと思うし、しずくのものであったとしてもしずく以外のものであったとしても私の結論は変わらないんだけどなぁ」と思いながら、
その20分以上の虚無動画④を視聴したのですが、
虹ヶ咲【1期11話】で例えるなら、
私は、侑と歩夢について「侑と歩夢は百合ではない」と解釈しており、
画像②のシーンが、尊かったとしても尊くなかったとしても、「侑と歩夢は百合ではない」という結論は変わりません。
しかし、とある動画でその動画主は「侑と歩夢は百合である」という前提で、
「画像②のシーンは尊いのか尊くないのか」について20分以上語っており、
私は「そもそも侑と歩夢は百合ではないと思うし、尊かったとしても尊くなかったとしても私の結論は変わらないんだけどなぁ」と思いながら、
その20分以上の動画を視聴するくらいの納得感がある感想文でしたよ^^
というわけで、コメントはもちろん、SNSのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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