【虹ヶ咲】桜坂しずくを好きになりたい【伊藤睦美を信じろ】
2023年7月、更に過疎ってナンボ!!氏によって『桜坂しずく虚無問題』という動画が投稿されました。
拝見したところ、【2期】のしずくに関する解釈が私とは違っていたので、今回は更に過疎ってナンボ!!氏の動画内容をもとに、しずくに関する私見を述べさせていただけたらと思います。
個人的な解釈としては、
『桜坂しずくは虚無ではない』
という結論になりました。
まずは、その理由を簡単にまとめたのでご覧ください。
①:しずくが執筆した脚本の内容は、歩夢とせつ菜のために書かれたものであることから、しずくは自分の夢を叶えるために百合の妄想をしたわけではない(【2期5話】の私見)
②:しずくは【2期13話】のライブシーンで、悩みの原因となる要素を取り入れた自己表現もしているため、成長描写が描かれている(【2期13話】の私見)
まだまだ語りたいことはあるのですが、今回はしずくや虹ヶ咲という作品全体を通して語るうえで特に重要な2つの私見に絞りました。
それでは、以下より詳しく説明していきます。
補足
この記事では、作中で登場する人物と楽曲の"オードリー"を区別するために、人物名を『Audrey』、楽曲名を『オードリー』と表記しています。
また、作中で描写されているAudreyは、現実世界で存在していた『Audrey Hepburn』のことであるとは明言されていません。
そのため作中のAudreyは、現実世界に存在していた『Audrey Hepburn』とは一切関係のない人物であるという解釈もできますが、この記事では現実世界で存在していた『Audrey Hepburn』のことであるとしています。
そしてAudreyと同様に、作中で描写されている【2期5話】でしずくが執筆した脚本は、現実世界で存在している『美女と野獣』を題材にしたものであるとは明言されていません。
そのため作中のしずくが執筆した脚本は、現実世界に存在している『美女と野獣』とは一切関係のない作品である(虹ヶ咲の世界には『美女と野獣』という作品は存在しておらず、しずくが執筆した脚本は『美女と野獣』を題材にしていないしずくの完全オリジナル作品である等)という解釈もできますが、この記事では現実世界で存在している『美女と野獣』を題材にしたものであり、百合というジャンルに分類される作品であるとしています。
①:しずくは自分の夢を叶えるために百合の妄想をしたわけではない
厳密に言えば「百合の妄想」を細分化する必要がありますが、わかりやすく言うと、「歩夢とせつ菜で『美女と野獣』を題材にした百合の妄想をしたことは、しずくのやりたいことではない」と私は解釈しているということですね。
それでは以下より、「しずくが執筆した脚本の内容は、歩夢とせつ菜のために書かれたものであることから、しずくは自分の夢を叶えるために百合の妄想をしたわけではない」ことを説明します。
①-1:【2期5話】のしずくは侑と同じように「自分の夢」があるのに「他者への応援」をしている
まず、【2期1話】の侑と嵐珠の会話では、
やりたいことがあるのなら、「他者への応援」よりも「自分の夢」を叶えることを優先すべきだと考える(ことにしている)嵐珠と、
「他者への応援」をすることが、「自分の夢」を叶えることに繋がると確信している侑
と、それぞれ「他者への応援」に対して考え方が違っていることが描写されています。
また、【2期5話】の侑と嵐珠の会話でも、
「他者への応援」は何も生み出さないと考える(ことにしている)嵐珠と、
「他者への応援」が何かを生み出すことを確信している侑
と、再度「他者への応援」について違う考えを持っていることが描写されており、ここでの嵐珠は、「自分の夢」があるのに何も生み出さないと考える(ことにしている)「他者への応援」をやり続けている侑に対して、
『たとえ侑の応援している人が夢を叶えたとしても、それはその応援している人の夢が叶っただけであって、侑自身の夢が叶ったわけでない。たしかに応援している人の夢が叶ったら侑も嬉しいかもしれないけれど、それは「応援している人の夢が叶ったことを自分の夢が叶ったことにしている」だけで、侑自身の夢は何ひとつ前進していない』
と忠告しています。
そしてその嵐珠の忠告は、侑に対してのものだったにもかかわらず、しずくに刺さりました。
上図は、ここまでの内容を表したものです。
【2期1話】で、侑と嵐珠は「他者への応援」について考え方が対立しており、
【2期5話】で、侑は音楽という「自分の夢」があるのにスクールアイドルへの応援という「他者への応援」をやり続けていることを嵐珠に忠告され、
その嵐珠の忠告がしずくに刺さった
という構図です。
※この構図は、物語を展開するためのギミックとしてかなりおもしろいと個人的には思います。
それではなぜ、侑に対してのものだったはずの嵐珠の忠告が、しずくに刺さったのでしょうか?
その理由は、
『しずくも侑と同じようなことをしていたから』
でしょう。
つまり、
侑が「自分の夢」があるのに「他者への応援」をしていたように、
しずくも「自分の夢」があるのに「他者への応援」をしていた
からこそ、嵐珠の忠告は侑に対してのものだったにもかかわらず、しずくに刺さったと私は解釈しています。
※しずくが嵐珠の忠告は侑のことではなく"しずくだけ"のことだと思った理由(=嵐珠の忠告が侑には刺さらずしずくだけに刺さった理由)について、私なりの解釈がありますが、ここでは省略します。
①-2:しずくがした「他者への応援」とは、歩夢とせつ菜への当て書きである
それでは、
しずくにとっての「自分の夢」と、
しずくにとっての「他者への応援」
とは何なのでしょうか?
まず、しずくにとっての「自分の夢」は、ここで詳しく説明するまでもなく、
『演劇やスクールアイドル等で自己表現をすること』
だと考えていいでしょう。
重要なのは、【2期5話】におけるしずくにとっての「他者への応援」です。
嵐珠は、侑がしているスクールアイドルへの応援という「他者への応援」に対して、それは自分のやりたいことを周りに重ねているだけだと忠告しています。
そして、上記【2期5話】のしずくの台詞から、その侑の「他者への応援」に対応しているしずくの「他者への応援」は、
『勝手に妄想して、勝手にユニットを考えたこと(=歩夢とせつ菜を主役にした百合の妄想)』
だと判断できます。
ただし、上記【2期5話】のシーンでしずくと演劇部部長は、前夜祭の総合演出でどんな企画をやるのかも演劇部で決めていいということに対して、お互いの顔を見合わせて喜んでいることから、
『脚本の執筆(前夜祭の企画を考えること)自体は、しずくのやりたいことである』
と考えるのが妥当でしょう。
※しずくは元々妄想をすることが好きだとは思いますが、このシーンはしずくが演劇やスクールアイドル、PV監督などといった自分のやりたいことに挑戦することで見つかったまた新たな夢(=脚本の執筆)を確立しているという夢の広がりを描写していると私は解釈しています。
また、上記【2期5話】のしずくの台詞から、しずくは歩夢とせつ菜のユニットを考えた"後"で、執筆する脚本の内容を妄想しているため、
『しずくが執筆した脚本の内容(妄想した内容)は、歩夢とせつ菜への当て書きである』
と判断できます。
これらより、脚本の執筆(妄想すること)自体はしずくのやりたいことですが、その執筆した脚本の内容(妄想した内容)が、
しずく自身が主役のものではなく、
歩夢とせつ菜が主役のものだった
という「歩夢とせつ菜への当て書き」であったことが、【2期5話】のしずくにとっての「他者への応援」であると私は解釈しています。
①-3:しずくは執筆した脚本の内容を「自分の夢」のためではなく「他者への応援」のためであると認識したから嵐珠の忠告が刺さった
もちろん、「誰かのために脚本を執筆すること」を自分の夢としてもいいわけですから、「歩夢とせつ菜への当て書き(歩夢とせつ菜で百合の妄想をすること)こそが、しずくのやりたいことだった可能性もあるじゃん」と考える人もいると思います。
むしろ動画主を含め、そう考えている人の方が大多数だろうなと私は推測しています。
それでは、もし百合の妄想が100%しずくのやりたいことであった場合、つまりしずく自身が「歩夢とせつ菜で百合の妄想をすること」を自分の夢だと認識している場合はどうなるか考えてみましょう。
この場合、しずく自身は「歩夢とせつ菜で百合の妄想をすること」を、
100%しずく自身のやりたいこと(=自分の夢)であると認識しているので、
歩夢とせつ菜のため(=他者への応援)であるとは認識していない
ことになります。
そうすると、
『しずくは、侑とは違って他者への応援はしておらず、嵐珠の忠告通りに100%自分の夢に向き合えていることになる』
ため、そもそも侑に対しての「他者への応援をしているヒマがあるなら自分の夢に向き合ったら?」という嵐珠の忠告が、しずくに刺さることはありません。
しずくは、侑に対する嵐珠の忠告を聞いても、「(もしかしたら嵐珠には百合の妄想が他者への応援に見えるかもしれないけれど)しずく自身はこれが自分のやりたいことだと認識しているので、他者への応援をしている侑とは違って、しずく自身は嵐珠の忠告通り自分の夢に向き合えている」と受け取ることになるので刺さらないということですね。
このことから、しずく自身が「歩夢とせつ菜で百合の妄想をすること」を、
「自分の夢」であるとは認識せず、
「他者への応援」であると認識した(100%自分の夢に向き合えているとは思えなかった)
からこそ、嵐珠の忠告がしずくに刺さったと私は解釈しています。
※虹ヶ咲のテーマと反するという観点からも、しずくが執筆した脚本の内容はしずくのやりたいことではない(=他者への応援である)と私は解釈していますが、ここでは省略します。
①-4:まとめ
ここまでをまとめると、【2期5話】のしずくは、
百合の妄想がしたくて、しずく自身のために、百合の妄想をしたのではなく、
脚本の執筆がしたくて、歩夢とせつ菜のために、脚本の構想(妄想)をした
結果、出来上がったものが百合の物語だったということになります。
もう少し丁寧に説明すると、脚本の執筆自体はしずくのやりたいことであり、歩夢とせつ菜のために脚本の当て書きをするという「他者への応援」、つまり、
自分が主役で、100%自分が書きたい脚本の内容ではなく、
歩夢とせつ菜が主役で、歩夢とせつ菜の魅力を一番引き出せる脚本の内容
を妄想した結果、歩夢とせつ菜が主演の『美女と野獣』を題材にした百合の物語になったということですね。
そして、どう考えてもしずくが自分の好きなものをさらけ出す絶好のチャンスだったのに、しずくは、
自分の好きなものをさらけ出さず、つまり自分が主役で100%自分が書きたい脚本の執筆(≒しずく自身への当て書き)をせずに(=自分の夢に向き合わず)、
歩夢とせつ菜が主役で二人の魅力を一番引き出せる脚本を当て書きした(=他者への応援をした)
からこそ、嵐珠の忠告は侑に対してのものだったにもかかわらず、しずくに刺さったというのが【2期5話】の構図です。
そのためしずくが、執筆した脚本の内容で100%しずくの好きなものをさらけ出せていた場合(=百合の妄想が100%しずくのやりたいことである場合)、嵐珠の忠告がしずくに刺さることはないので、【2期5話】の物語がうまく説明できないと私は考えます。
動画主は、【2期5話】の侑に対する嵐珠の忠告がしずくだけに刺さった理由を、どのように解釈しているのでしょうか?
ちなみに、嵐珠の忠告を意訳するならば、侑に対しては、
『たしかに、スクールアイドルのファンとして「スクールアイドルへの応援」をすることも、広い意味では侑のやりたいことのひとつなのかもしれないけれど、
侑には侑自身が主役にならないと叶えられない「音楽」という自分の夢を持っているんだから、
「スクールアイドルへの応援」という他者への応援をしているヒマがあるのなら、その時間を侑自身が主役となる「音楽」で自己表現ができるように使うべきなんじゃないの?』
と忠告していて、その忠告をしずくは、
『たしかに、歩夢とせつ菜のファンとして「歩夢とせつ菜への当て書き」をすることも、広い意味ではしずくのやりたいことのひとつなのかもしれないけれど、
しずくにはしずく自身が主役にならないと叶えられない「演劇やスクールアイドル」という自分の夢を持っているんだから、
「歩夢とせつ菜への当て書き」という他者への応援(+ライバルに塩を送るような行為)をしているヒマがあるのなら、その時間をしずく自身が主役となる「100%しずくが書きたい脚本を執筆してしずくが主演の演劇(やスクールアイドル)」で自己表現ができるように使うべきなんじゃないの?』
と受け取ったから刺さったということであり、詳しくは省略しますが、
侑の"スクールアイドルへの応援"は、スクールアイドル(や侑自身の夢)にとって必要不可欠なものであることをお互い認識している(=侑の「他者への応援」は"夢"を生み出している)けれど、
しずくの"歩夢とせつ菜への当て書き"は、歩夢とせつ菜が必要としていないかもしれない(≒しずくの「他者への応援」は"何も"生み出せていない)
という侑としずくに違いがあることが、しずくは嵐珠の忠告が侑のことではなく"しずくだけ"のことだと思った理由(嵐珠の忠告が侑には刺さらずしずくだけに刺さった理由)であると私は解釈しています。
そして、しずくの「他者への応援」も、歩夢とせつ菜(としずく)にとって必要不可欠なものであることを証明するために、せつ菜が「やってみないとわからない」と言って、その言葉が歩夢とせつ菜としずくのやりたいことを100%表現できる3人での即興劇(≒A・ZU・NAというユニット)に繋がっていきます。
その結果、しずくの「他者への応援」も"びっくりするほど楽しいもの"を生み出せたというのが【2期5話】の物語であり、
嵐珠の「何も"生み出してない"」という台詞と、
しずくの「びっくりするほど楽しいものが"生まれる"」という台詞
がきれいな対比になっています。
これらのことから、しずくが執筆した脚本の内容は、
しずく自身の私利私欲を満たすためのものではなく、
歩夢とせつ菜の魅力を一番引き出すためのものであった
というわけなので、
『最終的に出来上がったものが、しずくのやりたかったことである必要はない』
と私は解釈しています。
もう少し丁寧に説明すると、今回しずくが執筆した脚本の内容は、
しずくが百合の妄想をするのが好きだからではなく、
歩夢とせつ菜の魅力を一番引き出すため
という理由で書かれたものであることから、
『(結果的にしずくは百合の妄想をするのが好きであってもいいが)しずくが個人的に百合の妄想をするのが好きかどうかは、作品の出来(=今回しずくが執筆した百合の物語)とは何も関係がない』
ということですね。
逆に言えば、歩夢とせつ菜の魅力を一番引き出せるジャンルであると判断したのであれば、たとえそれがしずくの大嫌いなジャンルであったとしても、しずくは脚本家として歩夢とせつ菜のためにその大嫌いなジャンルの脚本を執筆しているだろうということです。
※【2期5話】でしずくが、自分のためではなく企画の脚本家として「歩夢とせつ菜の魅力が一番引き出せる物語」を執筆したことと、【OVA】で河村智之氏が、自分のためではなく作品の監督として「あなたのがんばったこと&がんばりたいこと発表会」を描写したことは、かなり構図が似ていると私は解釈していますが、ここでは省略します。
もちろん私のこの解釈は、しずくが百合の妄想をすることが好きである場合でも問題ありません。
そのため、(話がややこしくなりますが)【2期5話】の描写を見る限り、しずくは百合の妄想をすることが少なくとも嫌いではないだろうと私自身も思っています。
そもそも、【1期8話】で気づきを得る前から、しずくは演劇部とスクールアイドル同好会を兼部するという行動力を持っており、
【1期10話】のお化けのメイク
【1期13話】のヒーローショー
【2期1話】のPV監督
【2期5話】の脚本の執筆
など、元々しずくはやってみたいこと(≒好きなこと)が増えやすく、嫌いなこと自体かなり少ない人物で、特に演劇においてはたとえ興味がなくても(演技という好きなことのために)やってみようと思える性格(≒妄想という好きなことができるのであれば百合でも異世界ファンタジー等でもジャンルを問わない雑食的な考え)だろうと考えています。
そんなやってみたいこと(≒好きなこと)が増えやすい好奇心旺盛なしずくだからこそ、小さい頃に周りの子たちが好きになっていない(存在を知らないので好きかどうかまだ判断できない)「昔の映画や小説≒Audrey」を、いち早くしずくだけが好きになってしまったという解釈もできるでしょう。
そして、(演技という好きなことのために)何でも挑戦してみるという性格のしずくが、演劇部部長に「それじゃあ(演技という好きなことのために)しずくらしさを出してみようよ」と、自分の目指している正解(≒Audreyらしさの表現)と相反する正解(=桜坂しずくらしさの表現)を提示されて葛藤するのが【1期8話】の物語ですね。
話が逸れましたが、以上より、
『しずくが執筆した脚本の内容は、歩夢とせつ菜のために書かれた当て書き(=他者への応援)であるため、百合の妄想(脚本の内容)がしずくの好きなことである必要はなく、しずくは自分の夢を叶えるために百合の妄想をしたわけではない(≒百合の妄想はしずくのやりたいことではない)』
と私は解釈しています。
そのため、歩夢とせつ菜で百合の妄想をすることがしずくのやりたいことであるという前提で見解を述べている人や、そう結論付けている人とは解釈違いになりますね。
また、「しずくが他者への応援をしているという理屈はわかったけど、百合の妄想をしているしずくの姿は他者への応援をしているようには見えない」と思う人がいるだろうなと想像できます。
おそらく、しずくが楽しそうに(≒あたかも100%自分のやりたいことであるかのように)百合の妄想をしている理由について、
私は、"内容を問わず"妄想ができていることそのもの(=脚本を執筆することそのもの)に対して喜びを感じているからだと解釈していて(=しずくが百合を好きかどうかは関係ない)、
百合の妄想をすることがしずくのやりたいことであると考えている人は、"百合"という妄想ができていること(=脚本の内容)に対して喜びを感じているからだと解釈している(=しずくが百合を好きかどうかは関係ある)
という部分が分岐点となって、最終的な見解が分かれることになっているのだろうなと推測しています。
私としては、
【1期10話】のホラー系
【1期13話】のヒーロー系
【2期1話】の異能バトル系
【2期5話】の古典文学系、恋愛(百合)系
【2期6話】の異世界ファンタジー(≒現代文学、ライトノベル)系
【2期10話】のスポーツ系
などという【1期】【2期】を通して描写された「しずくが表現している内容」の多様さから、しずくは、
"ある特定ジャンル"の妄想や演技をすることだけが好きというわけではなく、
"ジャンルを問わず"妄想や演技をすることそのものが好きである
と解釈しており、百合だけが特別に好きというわけではないため、百合ではなくどんなジャンルであったとしても楽しそうに妄想をするだろうと考えています。
つまり、【2期5話】で百合の妄想をしているしずくが楽しんでいるのは、
百合ではなく、
妄想
なので、たとえその妄想の内容が自分のためではなく他者へのためであったとしても、(妄想という好きなことができているため)しずくは楽しそうに妄想をする(≒あたかも100%自分のやりたいことであるかのように見える)だろうということですね。
また、【2期5話】の物語というのは、
人物で感情的に盛り上がりたい視聴者を楽しませる要素(≒百合の妄想をするしずくや3人での即興劇など)と、
脚本で論理的に盛り上がりたい視聴者を楽しませる要素(≒侑としずくと嵐珠の「他者への応援」に対する考え方の違い)
の両方を兼ね備えており、挿入歌がない(≒前者の要素がない)というディスアドバンテージがありながらも、前者の視聴者でも楽しめる要素をうまく作っている回であると個人的には思います。
※【2期5話】以外の挿入歌がない回も、前者の視聴者でも楽しめる要素をうまく作っていると思っています。
※話数別の挿入歌は以下の通りです。(エンディングクレジット準拠のため、【2期11話】の『未来ハーモニー』などは記載していません)
【1期1話】:『CHASE!』、『Dream with You』
【1期2話】:『Poppin' Up!』
【1期3話】:『DIVE!』
【1期4話】:『サイコーハート』
【1期5話】:『La Bella Patria』
【1期6話】:『ツナガルコネクト』
【1期7話】:『Butterfly』
【1期8話】:『Solitude Rain』
【1期9話】:『VIVID WORLD』
【1期10話】:なし
【1期11話】:なし
【1期12話】:『Awakening Promise』
【1期13話】:『夢がここからはじまるよ』
【2期1話】:『Eutopia』
【2期2話】:なし
【2期3話】:『ENJOY IT!』
【2期4話】:『Eternal Light』
【2期5話】:なし
【2期6話】:『Infinity!Our wings!!』
【2期7話】:『EMOTION』
【2期8話】:『Queendom』、『TOKIMEKI Runners』
【2期9話】:『stars we chase』
【2期10話】:『Love U my friends』
【2期11話】:なし
【2期12話】:なし
【2期13話】:『Future Parade』
②:しずくの成長描写は【2期13話】のライブシーンで描かれている
たしかに、「昔の映画や小説が好きなこと」がしずくの悩み始めた原因ではありますが、私としても動画主と同様に、
『悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現をすることだけが、その人物の成長描写ではない(=成長描写に悩みの原因となった要素を取り入れる必要はない)』
と考えています。
そのため、
上記引用の"1個目"に相当する【1期13話】のヒーローショーや、
上記引用の"2個目"に相当する【2期1話】のPV監督
なども、動画主とは違って、しずくの成長描写として十分であると私は解釈しているのですが、ここでの本題ではないためその理由は省略します。
ここで私が言いたいことは、仮に「悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現こそが"本当の"成長である」という動画主の主張を受け入れたとしても、
『作中でしずくは悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現もしている』
ため、動画主の考える"本当の"成長が描写されているということです。
それでは以下より、「しずくは【2期13話】のライブシーンで、悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現もしているため、成長描写が描かれている」ことを説明します。
※以降より、(個人的にはあまり使いたくない表現なのですが)便宜上、悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現のことを「"本当の"成長描写」であるとしています。
②-1:しずくの成長描写とは、しずくが好きなことを好きだと周りの人に伝えることができている描写である
まず、上記【1期8話】のシーンで、しずくが気づいたことというのは、
『白しずく(=良い子のフリをしている私)ではなく、黒しずく(=周りに隠している私)も好きだと肯定・応援してくれる人がいること』
です。
そしてしずくは、
今までの白しずくとしてではなく、
黒しずくもさらけ出す、白と黒の両方をあわせ持ったしずく(≒本当の私)として
活動していくことを選択しました。
これが、白しずくであり続けることをやめたしずくに対して、幻滅したり否定する人がいるかもしれないけれど、それでも新しくやってみたいこと(=黒しずくをさらけ出すこと)がある私がいて、それを応援してくれるあなた(かすみたち)がいる、私たちにはそれだけで十分であり、
『応援してくれるあなたがいるから私は不安もある新しくやってみたいことに挑戦できて自己表現ができるんだ』
という作品全体のテーマに繋がっていくわけですね。
ここで重要なポイントは、しずくの「悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現」("本当の"成長描写)とは、
「昔の映画や小説(≒Audrey)」の作品をしずく自身が主演となって演じること(だけ)ではなく、
「昔の映画や小説(≒Audrey)」を好きだとさらけ出すこと
であるということです。
つまりしずくは、
「Audreyが好きだ」と言いたいだけであって、
別に「Audreyの役を演じたい」と思っている必要はない
ということであり、具体的に例えると、
『ローマの休日』を題材にした演劇の舞台をわざわざ用意して、その主演(Audrey役)をしずくが務める必要はなく、
友人との雑談で「私って『ローマの休日』で主演をやってたAudreyが好きなんだよね」と言えるようになった
という描写でも、「"本当の"成長描写」になるというわけです。
もちろん、Audreyの役を演じることも、Audreyのことが好きだと伝える方法のひとつではあるかもしれませんが、わざわざAudreyの役を演じなくても、周りの人にAudreyが好きだと伝える方法はあるということですね。
※細かいことを言えば、好きだからという理由で良い子のフリをしていたわけではない(嫌いでも好きなフリをした演技ができる)白しずくのように、周りの人からしてみると、演劇の舞台でAudreyの役を演じているからという理由だけでは「しずくはAudreyが好きである」とは断定できません。つまり、演劇の舞台でAudreyの役を演じることだけでは「必ずしもしずくがAudreyを好きなことを周りに伝えられたとは言えない」ということになります。
ここまでをまとめると、しずくの成長描写とは、「しずくが好きなことを好きだと周りの人に伝えることができている描写」であり、悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現("本当の"成長描写)とは、
『しずくが「昔の映画や小説(≒Audrey)」を好きだと周りの人に伝えることができている描写である』
と私は解釈しています。
②-2:【2期13話】でしずくが披露した『オードリー』は、しずくが悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現である
そして、【1期8話】で気づきを得た後のしずく、つまり【1期9話】以降で、しずくが悩み始めた原因となる要素=「昔の映画や小説(≒Audrey)」を取り入れた自己表現をしている描写はあります。
結論から言うと、
『【2期13話】のライブシーンが、しずくが悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現("本当の"成長描写)である』
と私は解釈しています。
それでは、【2期13話】のしずくのライブシーンとは一体どんな内容だったのでしょうか?
まず、【2期13話】のライブで、しずくは『オードリー』というタイトルの楽曲を披露しています。
この『オードリー』とは、しずくが好きなものであり、かつしずくが悩み始めた原因でもある「昔の映画や小説(≒Audrey)」の要素を取り入れたものであると考えられるでしょう。
そして、上記引用の通り『オードリー』の歌詞から、『オードリー』という楽曲は、
"Audrey"の内面を描いた楽曲ではなく、
憧れのAudreyのような理想の存在(≒理想の私)になるために苦悩している"桜坂しずく"の内面を描いた楽曲
であると判断できます。
もう少し丁寧に説明すると、『オードリー』という楽曲は、
『憧れのAudrey(≒理想の私)に少しでも近づくために苦悩している(≒黒しずくを隠している)けれど、大女優(≒理想の私)であり続けるためには、その苦悩している姿(≒黒しずく)を隠し続けなければいけないという孤独な戦い。「でも私にならそれができるはず。そうよ私は大女優なんだから」と自分に言い聞かせて葛藤している【1期8話】で気づきを得る前の"桜坂しずく"の内面を描いた楽曲』
であり、その楽曲をしずく自身がスクールアイドルの舞台で披露できたということは、
『「実は私はAudreyを好きであるが故に苦悩しているけれど、そんな内面なんてさらけ出してはいけないよね」という考えを持っていた過去の自分を舞台上でさらけ出せた』
ということになります。
つまり、
『舞台上で『オードリー』という楽曲を披露できたことそのものが、しずくの内面(=黒しずく)を周りにさらけ出せたことになる』
ということですね。
そして、しずく自身の内面をさらけ出すことは、【1期8話】で気づきを得る前のしずくにはできなかったことであるため、
『しずくがスクールアイドルの舞台で『オードリー』を披露できたことは、しずくの成長描写である』
と言えるのではないでしょうか?
ちなみに、【2期13話】のライブでしずくが披露した『オードリー』とは、
Audrey(≒理想の私)ではなく、
黒しずく(=周りに隠していた私)
を表現しているわけなので、シンプルにAudreyが好きで憧れていることをさらけ出せている(=黒しずく)という解釈もできますが、
"周りに隠していた自分"(=黒しずくの要素)と、
(自分以外の役ではなく)過去の自分自身を"演じている"(=白しずくの要素)
という白と黒をあわせ持ったしずく(≒本当の私)を、スクールアイドルの舞台上で表現できているという解釈もできますね。
これらのことから、
『オードリー』というしずくが好きなもの、かつしずくが悩み始めた原因となる要素である「昔の映画や小説(≒Audrey)」をタイトルにしていて、
しずくはAudreyのことを憧れるほど好きであるということを、スクールアイドルの舞台上で周りにさらけ出せている
ため、【2期13話】でしずくが披露した『オードリー』は、しずくの「悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現」("本当の"成長描写)であると私は解釈しています。
②-3:まとめ
ここまでをまとめると、しずくの成長描写とは、
『しずくが好きなことを好きだと周りの人に伝えることができている描写』
であり、しずくが【2期13話】のライブで披露した『オードリー』は、
しずくが悩み始めた原因となる要素=「昔の映画や小説(≒Audrey)」を取り入れながら、
しずくが好きなもの=「昔の映画や小説(≒Audrey)」を周りに伝えることができている
ため、しずくが悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現であると私は解釈しています。
つまり、仮に「悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現こそが"本当の"成長である」という動画主の主張を受け入れたとしても、
『作中でしずくは悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現もしている』
ことになるので、動画主の考える"本当の"成長が描写されているということですね。
そして、しずくは、
【1期8話】で気づきを得て、
【2期13話】で"本当の"成長をしている
ことになり、「虹ヶ咲という作品は気づきから成長までに時間をかける」という動画主が主張しているキャラクター描写のサイクルが、しずくにも当てはまっていると考えられるのではないでしょうか?
また、『オードリー』はしずくのソロ楽曲なので、おそらくしずくから歩夢とせつ菜に「私のソロ楽曲を一緒に歌ってくれませんか」と誘ったのだろうと考えられます。
この「周りの人を誘って自分のやりたいことをする」という行為は、自分の気持ちを抑えて周りの顔色をうかがいながら良い子のフリを演じていた【1期8話】で気づきを得る前のしずくにはできなかったことでしょう。
そして、歩夢とせつ菜は【1期8話】で気づきを得た後のしずく(≒本当の私)を肯定・応援しているため、しずくのソロ楽曲である『オードリー』を一緒に歌っています。
そのため、【2期13話】でしずくが、ユニットとして夢を叶えているR3BIRTHに対抗心を燃やしながら、
ソロではなく、
A・ZU・NAというユニット
で、しずくのソロ楽曲である『オードリー』を披露できたことにも大きな意味があると私は解釈しています。
このほかにも、
【1期8話】では、
演劇の舞台で、
歌手(≒アイドル)の役(『Solitude Rain』)を披露して、
【1期8話】で気づきを得た"後"のしずく(=気づきを得た時点よりも未来のしずく=しずくの意志未来)を表現
していて、
【2期13話】では、
スクールアイドルの舞台で、
女優の楽曲(『オードリー』)を披露して、
【1期8話】で気づきを得る"前"のしずく(=気づきを得た時点よりも過去のしずく)を表現
しているという非常にきれいな対比構造になっており、これらのシーンが演劇部部長の描写に繋がっていると私は解釈しています。
まず、(メタ的に)【1期8話】で演劇部部長は、憧れの大女優(=Audrey)の背中を追っているだけではその大女優と肩を並べることはできず、大女優になるためには、
AudreyがAudreyらしさを表現していたように、
しずくがしずくらしさを表現する
ことも重要なのではないか、ということを示唆しています。
そしてしずくは、大女優になる方法というのは、
大女優(≒Audreyらしさ)をトレースすること(だけ)ではなく、
大女優とは全く違うスタイル(=しずくらしさ)であったとしても大女優になれる
と気づき、白と黒をあわせ持ったしずく(≒本当の私)をさらけ出す決意をしました。
※大女優を完璧にトレースすることも大女優になる方法のひとつ(自己表現のひとつ)であるかもしれませんが、しずくが選んだのはしずくらしさをさらけ出す方法だったということです。
※詳しくは確認できていませんが、おそらくスクスタのしずくは"本当の私"ではなく"理想の私(≒理想のヒロイン)"を選択したことに近い決意をしているのだろうと推測しています。
このことから、演劇部部長は、
【1期8話】では、演劇の舞台でしずくらしさをさらけ出せたしずくを見て、しずくが大女優に一歩近づいたなと笑みを浮かべており、
【2期13話】では、スクールアイドルの舞台でもしずくらしさをさらけ出せているしずくを見て、しずくが大女優にまた一歩近づいたなと頷いている
ということであり、しずくの成長を感じ取っているわけですね。
個人的には、(自分以外の役を演じている【1期8話】のしずくはともかく)【2期13話】のしずくが、スクールアイドルの舞台なのに、
「私はスーパーアイドルだ(スーパーアイドルになりたい)」という楽曲ではなく、
「私は大女優だ(大女優になりたい)」という楽曲を披露している
のはかなりユニークで、演劇部とスクールアイドル同好会を兼部していて両方やりたいと思っているしずくならではの自己表現だと思っています。
話が逸れましたが、以上より、しずくが【2期13話】のライブで披露した『オードリー』は、
しずくが悩み始めた原因となる要素=「昔の映画や小説(≒Audrey)」を取り入れながら、
しずくが好きなもの=「昔の映画や小説(≒Audrey)」を周りに伝えることができている
ため、しずくの「悩み始めた原因となる要素を取り入れた自己表現」("本当の"成長描写)であると私は解釈しています。
まとめ
【2期】の桜坂しずくに関する私の解釈は、以下の通りです。
①:しずくが執筆した脚本の内容は、歩夢とせつ菜のために書かれたものであることから、しずくは自分の夢を叶えるために百合の妄想をしたわけではない(【2期5話】の私見)
②:しずくは【2期13話】のライブシーンで、悩みの原因となる要素を取り入れた自己表現もしているため、成長描写が描かれている(【2期13話】の私見)
一言で言えば、
『桜坂しずくは虚無ではない』
ということですね。
また、詳しくは省略しますが、
『【1期8話】は、しずくが"Audrey"になることをやめて、"桜坂しずく"になることを決意した物語』
でもあると私は解釈しています。
そのため、【2期5話】でしずくが執筆した脚本の内容が『ローマの休日』を題材にしたものであった場合、("Audrey"の一要素が部分的に出るなら問題ないですが)動画主が主張している物語の流れは、あまりにもしずくが"Audrey"になろうとし過ぎている(≒それは【1期8話】で気づきを得る前のしずくがする行動に近い)と私は解釈するため、あまり丸く収まらないと考えています。
そもそも①で説明した通り、しずくが執筆した脚本の内容は「他者への応援」であったと私は解釈しているため、しずくがやりたいからという理由で『ローマの休日』を題材にしてしまうことは、私の解釈では全く丸く収まりません。
歩夢とせつ菜のためだけに考えた結果、"偶然"しずくが好きな『ローマの休日』を題材にした脚本になったというのならば"ナシ"ではないですが…これ以上は話が長くなってしまうため省略します。
動画主は、上記の通り【1期8話】のしずくは虚無ではないと考えていて、虹ヶ咲について一通り自分の解釈を持っているようですので、(【2期5話】の侑に対する嵐珠の忠告がしずくだけに刺さった理由だけではなく)動画主は【1期8話】をどのように解釈しているのか、ぜひ教えていただきたいですね。
また、今回の私見以外にも、動画主と私で解釈が違っている部分が多く、
【1期13話】のヒーローショーについて
【2期1話】のPV監督について
【2期5話】のしずくのノートについて
【2期5話】のケモ耳について
【2期5話】でしずくが執筆した脚本の行方について
【2期13話】の母親たちについて
しずくが好きになるものについて
『美女と野獣』の根幹について
「造詣の深さ」と「安直さ」について
など、上記以外にもまだまだ語りたいことはあるのですが、記事が長くなってしまうのと、
虹ヶ咲という作品についてというよりかは、
ものごとの見方や考え方について
の私見になりそうなものも多かったので、今回は省略させていただきました。
機会があれば、雑記としてでも少しずつ記事にできればなと考えています。
さいごに、自分の解釈を整理するいい機会になったので、更に過疎ってナンボ!!氏には感謝しています。
ありがとうございました!
というわけで、コメントはもちろん、SNSのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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