【虹ヶ咲】桜坂しずくと悩みと気づきと解決法【2期5話】
2023年10月、更に過疎ってナンボ!!氏によって『桜坂しずく虚無問題動画の反応ブログを読む配信』が配信されました。
私の記事を読んでいただきありがとうございます!
今回は、上記配信でも触れられていた、
『【2期5話】でしずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%しずく自身のやりたいことであるかどうか』
という解釈についてもう少し考えてみたので、その私見を述べさせていただけたらと思います。
『桜坂しずくを好きになりたい』の記事を事前に読んでいただけるとこの記事が読みやすくなると思いますので、こちらもぜひよろしくお願いします。
①:【2期5話】でのしずくの描写
【2期5話】の物語は、
しずくに悩みが生まれ、
その悩みを解決するための気づきを得て、
その気づきを実践することで悩みを解決した
という構成になっており、具体的に言えば、
(それまでは「歩夢とせつ菜への当て書き」をして楽しんでいたのに)嵐珠の言葉を聞いてからはしずくにとって「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が悩みになり、
「型にはまらず目いっぱい自分を表現すればびっくりするほど楽しいものが生まれる」という気づきを得て、
「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を実践することでその悩みを解決した
という構成になっていると私は解釈しています。
※「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」のどの部分に悩んでいたのかは関係なく、悩んでいたことが何であれ、少なくとも「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本(歩夢とせつ菜へ当て書きしたこと)」が悩みのタネになっているということです。
※「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」のどの部分に悩んでいたのかについては、この記事の後半にある番外編で私見を述べています。
この解釈をふまえたうえで、私が言いたいことは以下の2つです。
まず1つ目は、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、しずくにとって嵐珠の言葉を聞いてからは良いとは思えなくなってしまった(完成されたものだとは思えなくなってしまった)から悩んでいて、
「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」は、しずくにとって良いと思えた(完成されたものだと思えた)からその悩みが解決できた
わけなので、
『「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」には明確な違いがある(前提①)』
ということです。
そして2つ目は、
しずくは悩みのタネである「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」を元に、
「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」という気づきを付け加えて、
「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」へと変化(≒昇華)させることで悩みを解決した
わけなので、
『「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」の違いとは「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」である(前提②)』
ということです。
ここまでの内容をまとめたものが上図になります。
【2期5話】の物語は、
しずくの「悩み」という未完成のものに、
「気づき」という補強を付け加えて、
「解決法」という完成されたものを実践することで悩みを解決した
という構成です。
そしてこの計算式は、「解決法」から「悩み」を差し引いたもの(差異)が「気づき」であるとも言えるので、
歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇という「解決法」と、歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本という「悩み」には明確な違い(差異)があり(前提①)、
「解決法」と「悩み」の違い(差異)とは、型にはまらず目いっぱい自分を表現することという「気づき」である(前提②)
と私は解釈しています。
つまり、
『「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」ではできていた「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」ができていなかった』
ということですね。
②:しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が100%しずく自身のやりたいことである場合
それでは、「①:【2期5話】でのしずくの描写」の内容を前提として、
『しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%しずく自身のやりたいことであるとした場合』
を考えてみましょう。
その場合、
悩みと解決法に「100%しずく自身のやりたいことであるかどうか」という点での違いがなくなってしまう
気づきが悩みや解決法とは関係のないものになってしまう
という状態になり、【2期5話】の物語をうまく説明できなくなると私は考えているので、以下より述べていきます。
②-1:悩みと解決法に「100%しずく自身のやりたいことであるかどうか」という点での違いがなくなってしまう
しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が100%しずく自身のやりたいことであるとしたら、悩みと解決法のどちらも100%しずく自身のやりたいことを実現できていることになります。
また、上図で説明すると、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」はもちろん、その脚本が元になっている「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」も"他者への応援"が含まれていることになるので、どちらも紫色の領域に分類されることになるでしょう。
そうするとこの2つには、少なくとも「100%しずく自身のやりたいことであるかどうか」という点での違いがなくなります。
そして前提①もふまえると、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」には明確な違いがあるが(前提①)、
その違いは、少なくとも「100%しずく自身のやりたいことであるかどうか」という点ではない
ことになると私は考えます。
つまり、悩みである「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の時点で、解決法でできるようになったはずの「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」という気づきを既にできてしまっていることになるのではないか、ということですね。
私としては、この段階で物語の整合性がとれなくなってしまうと判断するので、この解釈では【2期5話】の物語をうまく説明できなくなると考えます。
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が100%しずく自身のやりたいことであると解釈している人は、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」の違いはどのような点だと考えているのでしょうか?
※もし違いがないと解釈しているのであれば、なぜしずくは「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」では悩んで、「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」ではその悩みを解決できたという違いがあるのでしょうか?
②-2:気づきが悩みや解決法とは関係のないものになってしまう
しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が100%しずく自身のやりたいことであるとしたら、悩みの時点で100%しずく自身のやりたいことを実現できていることになります。
そうするとしずくは、少なくとも「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本では100%しずく自身のやりたいことができていない」ということに悩んでいるわけではなくなります。
そして、前提②もふまえると、
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」と「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」には「型にはまらず目いっぱい自分を表現すること」という気づきに違いがあるが(前提②)、
しずくは、少なくとも「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本では100%しずく自身のやりたいことができていない」ということに悩んでいるわけではない
ことになると私は考えます。
つまり、悩みとは関係のない気づきを得て、それを実践することで気づきとは関係のない悩みを解決できてしまっている(=悩みと気づきと解決法が連動していない)ことになるのではないか、ということですね。
もう少し具体的に説明すると、
「100%自分のやりたいこと」ができていないということ以外の悩みが生まれて、
(歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本で「100%自分のやりたいこと」は既にできているのに)「100%自分のやりたいこと」を表現することの素晴らしさに気づきを得て、
その気づきを実践することで「100%自分のやりたいこと」ができていないということ以外の悩みを解決できた
ことになってしまうのではないか、ということです。
私としては、この段階で物語の整合性がとれなくなってしまうと判断するので、この解釈では【2期5話】の物語をうまく説明できなくなると考えます。
「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」が100%しずく自身のやりたいことであると解釈している人は、【2期5話】でしずくが得た「気づき」とはどのような内容だと考えているのでしょうか?
番外編:しずくが「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」で悩んでいたこと
しずくは「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」のどの部分に悩んでいたのかを考えてみましょう。
まず、上図のように「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、
「脚本を執筆すること」と、
「執筆した脚本の内容」
に細分化できると考えており、しずくにとって、
「脚本を執筆すること自体」は青色の領域に分類される"自己表現"であり、
「執筆した脚本の内容」は赤色の領域に分類される"他者への応援"である
と私は解釈しています。
※詳細は『桜坂しずくを好きになりたい』の記事を参考にしてください。
そして、
「執筆した脚本の内容」が"自己表現"の領域に分類されていないため、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は100%自己表現ができているとは言えず、
その「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、歩夢とせつ菜を応援するためにも執筆したのに、("他者への応援"ではなく)二人は必要としていない"余計なお世話"だったかもしれなかった
わけです。
つまり、「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%の"自己表現"ではなく"他者への応援"ですらない無駄なものになってしまっていた(≒しずくの"他者への応援"は何も生み出せていない)可能性があったということですね。
そして無駄なものになるくらいであれば、嵐珠の言葉通り、他者への応援(=歩夢とせつ菜への当て書き)をしている時間があるのなら、その時間を青色の領域で100%しずく自身がやりたいこと(≒しずく自身への当て書き)に使うべきだった(=嵐珠の主張も一理ある)のではないかとしずくは悩んだということです。
おそらくしずくは、事前に歩夢とせつ菜へ相談していなかったことを反省していることでしょう。
ここまでをまとめると、しずくは嵐珠の言葉をきっかけにいろんな可能性を考慮した結果、
100%未満の自己表現(≒自分の夢を周りに重ねているだけ)で"余計なお世話"だったかもしれない(≒何も生み出せていない)「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」の執筆をするより、
100%の自己表現(≒演劇やスクールアイドル、しずく自身への当て書きなど)をするべきだ
という考えにも一理あるのではないかと思ったわけです。
ちなみに、歩夢とせつ菜が「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」を"余計なお世話"と思っているかどうかは関係ありません。
実際に、歩夢とせつ菜は嵐珠との会話の前に「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」を肯定・応援しており、"余計なお世話"だと思っていなかったからこそ即興劇を始めています。
つまり、ここでの重要なポイントは「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」について、
歩夢とせつ菜がどう思っているか(良いと思っているか)ではなく、
しずく自身がどう思っているか(良いと思っているか)
だということですね。
そして、せつ菜の言葉をきっかけに即興劇が始まり、「型にはまらず目いっぱい自分を表現するとびっくりするほど楽しいものが生まれる」という気づきを得たしずくは、
"自己表現"や"他者への応援"という枠組みを取っ払い(=型にはまらず)、
元々は"他者への応援"であった「執筆した脚本の内容」に、しずく自身も主演となる100%の"自己表現"も可能な脚本の内容を付け加えて舞台上で演じる(=目いっぱい自分を表現する)
という全てが紫色の領域に分類される「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」を生み出しました。
つまり、この「歩夢とせつ菜としずく3人での即興劇」とは、他者への応援でなおかつ100%しずく自身のやりたいことも表現できているものであり、しずくの悩みを解決できる解決法であったということですね。
まとめ
今回は、『桜坂しずくを好きになりたい』の記事とは違う観点から、【2期5話】のしずくに対する私見を述べさせていただきました。
もちろん、
そもそも「①:【2期5話】でのしずくの描写」の内容を前提とすることが妥当ではない
私が思い至っていない何かがある(その他)
という場合もあるので、そもそもこの前提が妥当ではないという見解や、その他の解釈があればぜひ教えていただけると幸いです。
私としては、「①:【2期5話】でのしずくの描写」の内容を前提とするのは妥当であると考えているので、
『しずくが執筆した「歩夢とせつ菜へ当て書きした脚本」は、100%しずく自身のやりたいことではなかった(型にはまって目いっぱい自分を表現できていなかった)』
と解釈しています。
上記の通り、配信主は虹ヶ咲について一通り自分の解釈を持っているようですので、配信主は【2期5話】のしずくについて、
どのような「悩み」が生まれたのか、
どのような「気づき」を得たのか、
どのような「解決法」を実践することでその悩みを解決したのか、
これらをそれぞれどのように解釈しているのか、理由とその理由を裏付ける根拠を作中から具体的に教えていただきたいですね。
もちろん、物語には悩みや気づき、解決法などが絶対になければいけないわけではないので、その辺りをどう考えているのかも全部含めて、配信主は、【2期5話】をどのような物語であると解釈しているのでしょうか?
みなさんも、【2期5話】をどのような物語であると解釈しているのかぜひ教えていただけると嬉しいです!
というわけで、コメントはもちろん、SNSのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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