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廃墟:神戸南洋植物パーク(探索編)

 神戸市須磨区一ノ谷町2丁目。かつてそこには「日本一の熱帯温室」ドームを擁する熱帯植物園が存在した。今回は、探索と資料調査によってどんな場所だったのか、現在はどうなっているのか、整理してみたい。

端緒

 いつものように廃墟検索地図さんのサイト( 神戸南洋植物パーク - 廃墟検索地図 (haikyo.info) )を眺めていると、神戸南洋植物パーク、なる施設の廃墟が今も須磨浦公園近くに眠っているとの情報を得た。折からの(私生活での)失敗続きで、逃避とは分かっていながらなにか気分転換に集中できることはないか探しているところだった私は、早速調査を始めることにした。
 とはいえ最近は廃墟調査といっても、ほとんどの情報はWikipediaか廃墟マニア諸氏のブログによって足りてしまう。そして、その情報をもとに現地に行ってみればそれで終わり。今回も夜中に適当に検索して、明日行ってみようかなくらいの心持ちだった。しかし、今回は違った。Wikipediaのページこそ存在するが、ブログ等を含めても本当に情報が少なかったのである。

事前調査

 まずは本件廃墟を知るきっかけとなった廃墟探索地図さんの情報から整理した。といっても、ほとんどWikipediaと同じ情報だ。住所は「神戸市須磨区一ノ谷町」、昭和39年に神戸市の貿易商塩田富造氏によって、ドミニカからの帰還移民を救済する目的で設立されたものである。そして、現況がどうなっているかは廃墟探索地図さんをもってしても不明という。なるほど、だいたいの位置は住所から判明したし、現地に行けばなんとか見つけることができるだろう。
 その他にも複数のブログにて、訪れた方の記録を見ることができた。なんでも、現在は放置された「南洋植物」たちが自由気ままに育っている上、建物遺構も一部現存しているとのこと。行ってみる価値はありそうだ。事前調査はここまでで諦め、翌朝バイクを走らせ須磨浦公園へと降り立った。

一体どこに?

 須磨浦公園。山陽電鉄の駅もあり、神戸では有名な観光地の一つだ。といっても、観光地として有名なのは須磨浦山上遊園の方。須磨浦山上遊園は、変な乗り物マニアの私として一度行かなければならない場所の一つでもある。自称世界一乗り心地の悪い乗り物、カーレーターがあるのだ。
 さて、須磨浦公園はその麓にある、誤解を恐れず言えば「ただの横長の緑地公園」である。正直、海沿いできれいに整備された公園ではあるが、なにか遊具があるでもなく、遊べるような広場があるでもなく、単なる景勝地である。景色以外に楽しめるものとして、源平合戦の古戦場がある。一ノ谷の戦いといえば日本史の時間を絵の練習に使っていた自分でも知っている有名な戦いであるが、まさにこの場所が戦場となっており、それを目当てに来る方も多いようで、写真を撮っている人はほとんどが合戦後の碑に携帯を向けていた。

一応撮っておいた(帰りがけに)

 さて、今回は住所として「一ノ谷町」までは判明していたし、他の方の記録からこのあたりだろう、という目星をつけて向かっていた。それがこの地図右側のマークである。

著作権法の論文で大学卒業しといて権利ガバは怖いので、地図はOSMから ( OpenStreetMap )

 これが大きな誤りであった。全然違うところにあったのである。しかし、探索を始めたばかりの私は知る由もなく、元気よく公園を東に進み、一ノ谷町三丁目と二丁目の間から登る道を進み始めた。ちなみに、もうすこし東に地図に載っていない道があり、そこから登るのが速いうえ、ちゃんと階段があるので安全だ(通常人間はそちらを通ることになっているようで、自分が登ってきた20%の坂は「車坂」と呼ばれているらしい)。

いきなり斜度20%。登り口はすぐそこなのにこの景色。

 早速斜度20%という大歓迎を受け、若干帰りたくなりながらも登りきったところがこの景色。個人宅に配慮しているため魅力を伝えきれていないが、視界はほとんど海という絶景である。一旦登りきったところから更に北東方向に進むと、地図では「一ノ谷町二丁目」の「 ノ」がある位置にやってきた。ここには「安徳宮」という史跡があり、集落の中心となっている。

内裏跡(旧御料地(安徳宮(安徳花壇(内裏跡公園(一の谷公園)))))……?

 この場所はかつて安徳天皇が一時内裏を置いたとされる「内裏跡」。これまた日本史は睡眠時間だった自分でも、古文のおかげで知っている「海の底にも都はありますよ」的な(母親の?)言葉と共に入水したという安徳天皇。そのこともあって、全体を内裏跡公園というらしい。しかし、中に入るとすぐに「一の谷公園」との看板。公園が入れ子構造になっているのは初めて見た。そして周辺の案内板には「一の谷公園」「安徳宮」「旧御料地」「安徳花壇」「和宮像」「内裏跡」「内裏跡公園」と、実に多種多様な名前が書かれていた。その全てを内包する名前が「内裏跡公園」であり、さらに広いこの一帯が「旧御料地」ということらしい(この集落の歴史については事後調査で色々と判明したので後述したい)。

この手前のが内裏跡公園、奥に見えるのが一の谷公園、あの光るのが阿武隈川。

 

これが安徳宮。他にも見どころの多い公園だったので、ぜひ行ってほしい。

 前置きが長くなったが、ここから少し東に下れば目的地があるはずだ。いそいそと降り口を探す。

ここだ!(またしても何も知らない大泉洋さん(23))

 このときは完全にここだと思いこんでいるので、左側に見えているなにかのマメの鞘がホウオウボクかなにかに見え、勝手に南国を感じている。ここまで結構な上り下りがあったので、やっと休憩できるとニコニコしながら階段を降り、あるはずの遺構を探しに行く。
 しかし、なにもない。ただ川が流れて、数棟からなる団地があるだけだ。雲行きが怪しくなってきた。団地といえば案内板があるはずと、案内板を探し回る。あった。これなら不自然な空き地か森林の形で見つけられるかもしれない。

今日日少なくなってきた、居住者全員の名前が乗っているタイプの案内図。

 案内図には全世帯の名前が記されていたので、(さすがに)カットした上端がこれだ。最上端に「神戸南洋植物園跡地」とある。今いる場所は図の右下。なんてことだ、全然違う場所だった上、今降りたばかりの急な階段を登らなければならない。絶望感を味わいながらも、案内図を見つけられたことに感謝した。これがなければ「きっとここが植物園だったんだろう」という勘違いをしたまま帰宅するところだった。気を取り直して階段を登ることにした。それにしてもとんでもない位置に観光地を作ったものだ。

異界の扉がひらかれた

階段中腹。昼ごはんのお蕎麦はそろそろ消えた頃。夫婦楠が見守る。虫だらけ 自然豊か。

 現地に到着すると、異界への入り口が待っていた。突然ヤシの木が歓迎し、真っ暗な森が手招きする。どう考えても秋物の長いコートと革靴で来るべき場所ではないことは確かだった。若干の後悔を感じつつ、周辺を軽く探索した後に唯一のアプローチから敷地内へと入っていく。ちなみに、撮影場所はすべて公道、あるいは登山道として広く利用されている道、公園、店舗敷地など、およそ立入りが許容されるところのみである。廃墟探索はこれが難しいところなのだが、建物が建っているすなわち私有地であることがほとんど。勝手な立入りは厳禁だ(境界が不明確なことも多いが……)。

手前はただの空き地。奥のヤシの木のあたりから山側が南洋植物パークの敷地だ。


異界の扉がひらかれた~(上の写真のヤシの木は、この位置からすると右側にある)

跡地探索

 

早速立派な遺構

 どうやら敷地を南北に縦断する形で現在は登山道として利用されているらしく、安心して探索に入る。入り口にはいきなり立派な入り口のような遺構が残されていた。事後調査で判明する話だが、ここは所謂異人館があり、その入口だったようだ。そのまま山へ分け入っていく。

廃墟としてちょうど美味しい時期といわれている状態(廃墟の一生 民明書房刊)

 急坂のOリング加工はすぐに終わり、完全な未舗装路へと変わる。それとともに、大量の落ち葉で道は完全に見えなくなってしまっていた。幸い「南洋植物」たちが覆っているお陰で下草が少なく、藪こぎという状況にはなっていないうえ、そもそも道が狭いのでロストすることもない。安心だ。

Pixel6さん、ちょっと明るく加工し過ぎでは?

  どんどんと登っていくと、シダ類と竹が卓越した場所に至る。道を挟んで竹はほとんど右側に集中していたため、植物園時代に植えられていたものがそのまま繁殖したと思われる。右側にもヤシはあった形跡があるが、竹の前に倒れてしまったようだ。一方で、こういった森にはありがちな熊笹は見られなかったので、よほど陽の光は地面に届かないのだろう。実際、13時ごろ訪れたにもかかわらず、森の中はかなり暗く、じめじめしていた。
 

倒れて屋根を破壊した後も再び成長した木。さしもの竹も遠慮がち。
トイレ的な構造だ。最も完全な形で残っていた。

 建物遺構数件を残すのみで、他も本来の植生とは異なる植物が植わっている以上には当時を偲ぶものはない。

「ここであそんではいけません」の説得力が違う。看板の彼が骨折で済んだ幸運。


半分は骨組みだけになっていた建物。

 

誰……?(もしかしたら、という情報は見つけた)

お別れのとき

 もともと南北方向の敷地は広くなかったようで、この先はシンプルな登山道となっていた。登山道はそのまま「逆落し」を経由して鉄拐山山頂へと向かっていく。探索当日の装備ではちょっと無理そうな山道だったため深追いせず、山を降りることにした。来るときは時間をかけて探した場所でも、降りるときはシンプルに下に向かえばいいので楽だ。10分ほどで須磨浦公園の敷地まで降りてしまった。

「車坂」の須磨浦公園側入り口。写真ですらわかる斜度。
こちらが徒歩向けの道らしい。九十九折の階段を登ればすぐ安徳宮へ到着する。

 さて、これで探索はおしまいとなった。すでに述べたが、跡地自体は大して広くなく、また登山道の一部となっているためあまり心配せずに立ち入ることができ、場所さえ分かっていれば探索難易度は低いといえるだろう。一方で、この廃墟はここからが本場だ、とも感じた。というのも、1960年ごろに完成し、2000年ごろまで大きな崩壊をせずに残っていたというのに、あまりに情報が少ないのだ。これは面白い、と考えた自分は、この地域と植物園の文献調査を行うことにした。

事後調査編に続く。
(探索編・完)

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