目的は生存
最近は休みの日も、なんだか身体が重くてだらだらと過ごしてしまう。先日、風邪を引いたときからなんだか絶好調とはいえない健康状態を引きずっていて、うっすら心配だ。
なんなら仕事の日も、眠かったり頭がぼーっとしてたりなんかダルかったり、絶好調の日はあまりないのだけれど、なんだかんだあくせくと働いて職場の人とコミュニケーションを取りかりそめの社会性を発揮していたりすると、普段の自分より精力的になれたりするのだ。極力、他者との関わりを最小限にして生活していたいなんて思ったりするけれど、社会の中に身を置いているということは、人を人たらしめる原動力になっているのかもしれない。
今はコメダ珈琲でホットコーヒーを飲みながら、この文章を書いている。1時間後に上映開始する「憐れみの3章」を観るかどうかで1人悩んでいる。
映画を観たりするのにも、結構エネルギーを使うもので、しっかりと覚悟を持って臨まないと、疲れ果ててしまう可能性があるからだ。
先日、わざわざ名古屋まで出向いて「ナミビアの砂漠」という映画を観た。その日も仕事の日の疲れを休みまで引きずっていて、自身の関心のみを原動力に奮い立たせて観に行ったら、映画の帰り家まで帰るのがやっとなほど疲れ果ててしまった。
主人公のカナがあまりにも利己的すぎるかつ暴力的で、いくら彼女自身が繊細な心の持ち主だからとはいえ、他者がいないような傍若無人なふるまいは観ていて気持ちの良いものではなかった。彼女の不安定な内面を表すかのような音楽描写や、耳障りな怒鳴り声や生活音も、より元気を奪われる要素だった。
そんな風に、少しネガティブな映画体験だったにも関わらず、観てからの1週間、あの映画のことをふとしたとき思い出してしまう。現代の若者、貧困と加速する資本主義の社会の中、目的は生存という台詞が、妙に頭にグルグルしている。目的は生存。確かにそうかもなあ。
僕はありがたいことに、裕福でもないが生活が困難なほどの貧困に直面したことはないが、社会に適合するために矯正した(つもりでいる)欠陥やバグが露呈しそうで、危ういバランスで生きているのかもとふと思う。マジョリティに憧れを抱きつつも、社会側が提案する模範的人生は絶対に歩めないしそこに幸せはない気がして、だけど自分だけの幸せを追求するだけのエネルギーも信念もなくて。
とりあえず、今日1日をなんとか「生き抜く」ことが目的で、それを意識して丁寧に生きることも悪くはない気がしている。マインドの話だけではなく、20代のくせして虚弱体質な肉体面に関しても、今日1日を生き抜いたことを寝る前に感動してもいいのでは、と考えている。
映画の中で主人公カナが、カウンセリングを受けた際の、「人間頭の中だけだったらどんなことを考えても自由なんですよ」と声をかけたカウンセラーの台詞にも救われている。どんなに真っ当なフリしたって、どう考えても模範的ではないことを考えてしまう自分の感情を否定しないでいいんだって思わせてくれた。
こんな風に観終わった後はいやーな気持ちになったのに、なんだかふとした時に思い出して救われている不思議な映画だった。とりあえずは、来月に控えた友人の結婚式、なんとスピーチを頼まれているので、そこまで、そして来年2月にチケットが取れたaikoのライブまで生き抜くことを目的に、毎日を生きていこうかと思っている。