若さに価値を見出したくない

年上の人と話すときの僕は、少しぶりっ子だ。

ここで言う年上とは、一回り以上年上の人としておこう。またはそれ以上の親世代、祖父母世代もそうだけど、彼らと話すときの僕はとっさに"若者"を演じてしまっている気がする。

よくある話の流れで言うと、「じんすけくんはポケベルとか知らないでしょ?」的なやつだ。「じんすけくんは中森明菜なんて知らないでしょ?」もよくある。要はジェネレーションギャップをダシにして、同世代で盛り上がるというやつ。1997年生まれ、一応Z世代の端くれである僕から言わせていただくと、今の若者は過去の文化やコンテンツを検索し知る手段が山ほどあるのだ。僕は同世代の中でも生まれる前の文化やコンテンツにかなり関心がある方なのでやや特殊かもしれないが、上の世代が思うよりは、若者は昔のことを結構知っている。

まあ、このくらいの若者扱いは許容してあげることにしよう。僕ですら、10代や20代前半の子に対して、こういうジェネレーションギャップ的な会話をしかけて、自虐風の同世代盛り上がりに年下を利用してしまうことはある。他を置いてけぼりにした同世代トークというのは、楽しいものなのだ。

それよりも、年上の人が向けてくる、若さへの羨望というか、「若いっていいね、夢があるね、将来なんでもできるじゃん」みたいなのがやや鬱陶しい。鬱陶しいと思いつつも、溌剌とした前途多望な若者ぶった振る舞いをしてみたりする、若者ぶりっ子なのだ。少なくとも、同世代と話してるときとはまったく別のキャラクターであると思う。

上の人たちが言う、「若いっていいね」の真意はなんだろう。シンプルに肉体的に若かったり、見た目が若かったり、残された時間が多かったりという分かりやすい部分が羨ましいのは分かる。しかし、何十年も長く生きているあなた方より、中身は未熟で至らない部分が多いこの若さ、そこは何が羨ましいのと疑問に思う訳だ。

僕自身、年下全般が苦手である(括りがデカすぎる)。特に、中高生などは普段関わる機会があまりないが、ふとした時に大人数の学生集団に出くわすと、胃もたれするというか、「ウッ」ってなるのだ。若さにあてられる感覚がある。

先ほども言ったように、若いというのは未熟であることだと僕は思っている。年齢で括るな、お前よりも経験を積んだ人間的に成熟した年下などいくらでもいると言われそうだが、少なくとも僕は、いつの時代の過去の自分よりも、今現在の自分が最も成熟していてアップデートされた優れた人間であると感じている。ふとした瞬間に思い出す、未熟だった故の過去の自分の行いや言動に対して「若かったな」なんて懐かしむこともできず、シンプルに恥ずかしいし、嫌悪感を覚えるのだ。

学生時代、大人たちが無責任に向けてくる「君たちには無限の可能性があります」みたいな目線がとても嫌だった。特に高校生、17歳という響きには、数多のメディアやコンテンツによって作り上げられた「青春!」という嘘くさい概念がある。「高校生か、いいなー青春じゃん!」みたいな薄っぺらいことを言ってくる大人は絶対信用しないようにしようと決めていた。

同時に、その渦中を過ぎてしまえば、その時感じていた悩みや葛藤などはすべて忘れ去って、いい思い出だけが残るもんなのかな、なんて思った。だから大人は「いいなー戻れるもんなら戻りたいよ」と学生の僕に向かって言うのかな、なんて感じていた。

中高生だった頃から、約10年が経った今、確かに当時感じていたことを同じ温度感で思い出すことは出来ないけれど、決してあの頃のすべてを「若かったな」と美化することはまったくできない。とりあえず大人になった今、中高生に対して「青春だねー今が1番楽しいときだね」とのたまう大人になってなくて良かったと心から思う。

要するに何が言いたいかというと、若さに価値を見い出すような人間にはこれから先もなりたくないという話だ。年を重ねるにつれて失うものはあれど、人間の中身そのものはどんどんアップデートしていきたい。過去の自分に、「未来の方が楽しいから大丈夫だよ」と言ってあげられる人間になりたい。その為には、「◯歳らしい」みたいな年相応をやるんじゃなく、いつでも「自分らしい」自分を見つけて、そこを磨いていかなければいけないような気がするのだ。

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