恥ずかしいこと
Aマッソが好きで、特に毎週のヤンタン(レギュラーラジオ)が木曜日の楽しみ。
加納のこねくり回した理屈や理論は「なんだそれ」ってなるけど妙に納得しちゃうし、むらきゃみは愛すべきただのアホのような佇まいで、たまに物事の真理をつくような「めっちゃ分かる」な発言をする。そんな2人のトークが余すことなく聴けるラジオが、Aマッソにまつわるコンテンツの中で最もAマッソ純度が高い。
そんなAマッソ加納のYouTubeチャンネルの上記の動画で、羞恥心について話していた。(動画の中盤〜後半くらい)端的にいうと、一般的に恥ずかしいとされる、人様に晒すようなことではない部分を晒しまくっている芸人にも、なんでもないことに恥ずかしさを感じる部分がある、という話。
最近の僕はお口のチャックがぶっ壊れてしまっているので、自分に起こった奇異な出来事(良いことも悪いことも)はついつい取り繕うことなくありのままに話してしまう。流石にTPOはわきまえているつもりなので場にそぐわない発言は控えるが、自分の恥部を見せることに、あまり抵抗がない。むしろ、すべてを曝け出して裸の自分が晒されることに一種のエクスタシーを感じるのだ(なんだか危険な発言に聞こえる)。さながら心の露出狂といったところか。
家庭事情、興味・関心、コンプレックス・トラウマ、性癖、性体験などあらゆることを平気で人に喋りまくっている僕だが、そんな僕が恥ずかしいことは、「名乗ること」だ。
仕事上や、様々な場面の受付とか待合で名乗ることは何でもない。フルネームや本名は、便宜的に使っているからだ。恥ずかしいのは、下の名前やハンドルネームで名乗ること。
ゲイの界隈では、自己紹介をするときにフルネームを名乗ることは滅多にない。あだ名やなかなかパンチの効いた源氏名を持っている人もいる。そうではない大多数が、要は下の名前のみを相手に教えて自己紹介をするのだけど、その瞬間がめっちゃはずい。
今までの人生、はじめましての人に自己紹介をする時は、フルネームを名乗り、そこからなんとなくお互いの呼び名を決めていくのが当たり前だった。僕の場合、学生時代はほとんど下の名前で呼ばれることが多かったし、社会人になったら当然のように名字呼びが多い。名字をいじったあだ名もいくつか持っている。
ただ、同じような下の名前呼ばれでも、自ら下の名前で自己紹介する=そう呼んでほしい、ってアピールしてるみたいなのが、超はずいのだ。たまにいる、初対面から「◯◯って呼んでください!」みたいな呼び名指定をしてくる人の自意識ってマジでどうなってるの、って思う。
フルネームを知らずに関わっていく界隈ってたぶん現代ではそこそこあると思う。それこそ趣味仲間なんかは現実で会う時はハンドルネームしか知らなくて、お互いその名前で呼びあったりするのだろう。僕のnoteのアカウント名「じんすけ」も本名ではないので、正直めっちゃはずい。自分の何らかの意志を持って、この名前がいいって思って自分でつけた名前だ、って人に思われたくない。
僕は、親がつけてくれた自分の本名を結構気に入っている。名字と合わせていろいろあだ名を生み出しやすい名前だし、僕にあってるなぁと思う。もし自分の名前を物心がついた後に自分で選べる制度だったら、僕ははじめましての人に名乗るたびに憤死しそうになり、人と出会うのが億劫になっていたに違いないので、良かったなぁと思う。
たぶん、この恥ずかしさの源流には、僕の自意識過剰さがあるのだと思う。人から、こう思われたいって思ってるんだろうなぁと思われたくない、という強い気持ち。実際のところ僕は自意識バリバリで、周りからこんな風に思われたいみたいな理想の自分が強くあるのだけど、あくまでそれは自己認識。他人が僕をどう思うかは、それぞれに委ねたいと思っている。相手が思う僕の印象がその人にとってすべてだ。そこに間違いとか、誤解とかはないと思っている。
実際、自分自身でも自分の全体像というものを捉えられていない。部分的な自分の要素は熟知していても、客観的にみた自分のおおまかな印象というのは、本当に測れない。だから、どんな印象を抱かれていたとしても、他人からみた自分の評価を聞くのが僕は好きだ。だから、呼び名ひとつとっても、こちらから指定せず相手が僕らしいと思った呼び方で呼んで欲しいという気持ちがあるのかもしれない。
自分で書いていて、あいかわらず理屈っぽい。ただ、僕が名乗るのを恥ずかしいと感じるように、みんながどんなことを恥ずかしいと思うか、すごく気になる。実際に聞いて回ったら、高度な変態だと思われるかもしれないが。