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【どう生きるか】『AI故人』から見る「不老不死」の扱われ方

「すごい時代になったものだ…」と思わず口に出してしまうような記事を見かけました。

世の中には「生前のデジタルデータを生成AIに学習させて故人を「復活」させるサービス」があると言うのです😳


そこで今回はこの『AI故人』から読み解ける「不老不死の扱われ方」をテーマにお話ししていきます。

※今回はヒトの「生と死」にまつわる内容ですので、苦手な方は御遠慮いただけますようお願い致します。

【記事の概要】

・生前のデジタルデータを生成AIに学習させて故人を「復活」させるサービスが、日本でも本格的に動き始めた。

・バーチャルAI故人サービス「Revibot」は、AI生成を手がけるITベンチャー・FLATBOYSの技術協力を得て、冠婚葬祭事業を手がけるアルファクラブ武蔵野が2024年12月10日に提供を始めた。


・高品質のAI故人が個人でも十分手の届く価格で得られるのは凄いことだが、一方で人間の尊厳に関するタブーに踏み込む警戒感に近い怖さすら感じさせる。

・「警戒の壁」という倫理的な反発や課題があり、Revibotでは宗教学や倫理学、AIガバナンスなどの専門家と論議するために社内に倫理委員会を設置。


・またAI故人をいたずらに半永久的な存在にしないことも意識し、死別の克服を念頭に置いたサービス設計も重視している。

・ただし、本人と見分けがつかないAI故人は、前情報がないと受け取る側が故人とAI故人を判断しきれない怖さが残る。

※ 詳細は下記リンクを参照

「AIで復活の故人が喋る」不気味の谷より心配な事
日本で始動したAI故人ビジネスの実情を追う|東洋経済ONLINE

【不老不死に近づくと…】



AI故人とはデータ上の「不老不死」と言えます😳

それだけに、不老不死について考えていくことでAI故人の本質も見えてきそうです🔍


思い返せば人類は昔から長寿あるいは不老不死について、大なり小なり憧れを持っているように見えます。



歳を重ねると次第に「若い頃のままでいられたら…」と思うのかもしれませんし、部分的にそれができる社会になりつつあります😶

今回の記事「AI故人」の技術はデータを用意すれば「今の『わたし』」をAI成果物として半永久的に残し続けることが技術的には可能になった、という話なのですから。


もしかしたら今よりさらに科学が発展すれば、ヒトは滅びゆく肉体を手放して生き続ける存在になるのかもしれません🤖

その先駆けとなるような研究も進められており、何十年後かには

「生か死か」をヒトが選ぶ時代

が来るのかもしれません😳

[不老不死を考える前提として]



では、いざ自分が永遠に生きられるとわかった時、あなたは安心するでしょうか?

肉体の痛みもなく、経済的な問題も解消されているとしたら、あなたはこの世界でずっと生きることを選ぶでしょうか?


このことを考える時に思い出して欲しいのが『自然と科学の関係性』です🧐



ここでお話ししたのは


・科学とは数字に基づいた「限られた『空間』」である

・自然とは『空間』+『時間』である

・科学は自然に沿う限り『時間』の恩恵を受けて成立し続ける。これが「本来の科学」である。

・時間経過とともに成立しなくなるものは自然の恩恵を受けていない。これが「偽物の科学」である。

・これにより「(自然≧本物の科学)≠偽物の科学」と言え、この構造で社会を見れば「成立している科学」と「成立していない科学」を見分けられる。


という内容でしたね👨🏻‍🏫


これを「不老不死」に当てはめるとどうなるか。


今のところ不老不死になる為に行っていることと言えば

細胞を操作する
生体機能を機械で補完する

であり、これが「自然かどうか」を考えれば自ずと答えが出てきます⭕️❌

[不老不死を選べるようになったときの注意点]



ここで注意しておきたいのは「機械化(あるいは科学)」によって不老不死を得た場合、それは数字によって生み出された『空間』に閉じ込められたことになります😮

不老不死とは、生命としての『時間』を止めるのと同じことで、「限られた『空間』」の中で生き続けることを意味します。


例えば細胞が死なないよう半永久的に新生され続けるのだとしたら、「新生される」という『空間』に閉じ込められる訳です🔲

その中ではどれだけ『時間』が経っても「死なない」ため、その細胞の性質に沿って自分の心や考え方も変化していくことになります。

不老不死では「周りは変化していくのに自分は変化しない」という体験を延々と繰り返すことになる訳で…いつか、どこかのタイミングで「取り残されている」と感じるでしょう。


そしてその時初めて、自分の「終わり(ゴール)」が奪われたのだと氣付くのです😱

【別れと向き合うことの意味】



親しい人との別れはいつの時代も辛く、悲しいものです😢


僕自身介護職として利用者さんとの別れを何度も経験しましたし、その度に

(どれだけ心を尽くし介護しても別れは必ず来てしまう)

(その度に悲しんでいたら心が保たないのではないか)

(だからといって、心なく介護することに何の意味があるのか)

といった葛藤を抱えていました😔



その葛藤の先に

人の想いを受け取り、温めて次の世代へ紡ぐ」→『想い紡ぐ』

ヒトがどれだけヒトを愛せるか」→『生命の価値』の保証(介護の本質)

という考えに辿り着きました。


この考えは死という「必ず訪れる別れ」と向き合わなければ出なかったもので、別れと向き合う意味とは『生』を知り、介け護り、子孫へ脈々と紡ぐこととなります。

[自分の意思で生きるか、他人の意図に生かされるか]



もしこれからヒトが「別れ」と離れて不老不死へと近づいていくのだとしたら、いよいよ『生命の価値』(=生きることの意味)も無になっていくでしょう。


何故なら生きるとは『時間』の営みであり、不老不死とはその時間が無限である以上、

・生きる営みを行う根源的な理由(生きようとする意思)

を必要としなくなり、「生きていてもいなくても同じ」になるからです😶


AI故人とは存在の一部(データ)を『時間』から『空間』に切り分けたもので、そこには確かに「生きる意思」は必要とされていません。

そのデータは「他人の意図」によって生み出されたものですから、他人の意図によって保管されもするし、ある瞬間に削除されもします。


「AI故人をいたずらに半永久的な存在にしない」というのは故人の意思ではありませんし、AI故人の意思でもありません。

「倫理的、宗教的、社会通念的」といった『他人の意図』を汲み取った上での判断です。



このAI故人と、存在全てが『時間』から切り離された「不老不死」は本質的に同じ性質を持つと考えられます。


AI故人が「データ上の不老不死」であり、『データ』という手段で半永久的に存在できるのと同じように。

不老不死とは「不老不死たらしめる技術」に依存する在り方だと言えます。


不老不死の技術が廃れたり失われたりすれば、その瞬間から不老不死になれなくなります。

あるいはその技術を提供する側からの供給が一方的に断たれても不老不死ではいられなくなります😨


であれば、不老不死になるとは「自分の生命を技術提供者に明け渡す」のと同じであり、逆らいようのない主従関係が成立することになります😱


それだけに、「自分の意思で生きるか、他人の意図に生かされるか」は重要な選択となるのです👨🏻‍🏫

【まとめ】『わたし』を生き切る為には



今回は「AI故人から見る不老不死の扱われ方」というテーマでお話ししてきました。

「永遠に生きられる」とは開放的で自由かと思いきや、その実『不老不死たらしめる技術』に支配される閉鎖的な在り方ではないか、と。


そうなる理由は、不老不死とは「自分の意思」を代償に「他人の意図」に従うことだからであり、ここで『人権』がセーフティネット(安全網)になるかどうかが、これからの社会で『生命の価値』が保証され得るかどうかの瀬戸際となるでしょう🫨



私たちは既に「取得する情報によって住む世界が異なるパラレルワールドにいる」と、以前お話ししました。


それだけに

・自分の肉体世界(フィールド)
・自分の精神世界(ワールド)

について、現状どのように扱われているかを知らないままでは『わたし』が生き残れない、と。

[自分の意思で他人の意図を選び]



AI故人が倫理を、生命の価値を保証する内はヒトの「悔い」を解消し得るサービスであり続けるでしょう。

一方で技術的に「データ上での不老不死」を演出できることが世に広まることで、今後その技術を悪用するケースも増えてくるでしょう。


大切なのは「生きるとは何か」「死ぬとは何か」を一人ひとりが考え、自分なりの答えを持つこと。

そうして「自分の意思」で「他人の意図」を選ぶことが、これからの時代を生きる上で欠かせなくなります。



何故なら「他人の意図」(=正しさ)が蔓延する社会では「自分の意思」を無価値であるかのように扱うからです😨

それを端的に表した言葉が「科学的根拠」であったり「論破」「正論」であったりすることは、もはや論を待たない状況です。


それらが自然の摂理に則ったものならば『時間』の経過を経ても成立し続ける「本物の科学」と言えますが、多くの場合

「今は成り立っていても今後はどうなるかわからない不安定さ」(反証可能性

を残す、すなわち「偽物の科学」である可能性を残し続けていく訳です👨🏻‍🏫


この『正しさ』を「信じろ」とする他人の意図が今の社会に蔓延していることに、あなたは氣付いていますか?

[『今』を自然と共に生きる]



AI故人のようなサービスが求められる背景には「生と死」両方に関する答えが一人ひとりの中にないからだと考えられます。


身近な家族の死ですら電話やネットサービスの一環として伝えられる昨今では、生も死も「あいまいなもの」となっているのではないでしょうか。

あるいは一人一部屋のような生活様式になり、もう数十年の月日が流れていきましたが、一昔前ほど他人の生活にはリアリティが無くなっているのではないでしょうか。


この、ぼんやりとヒトの生命が消えていく社会で突然「生死」にリアリティをもたらすのが死別であって。

思いがけずに失われた生命に対して、わずかに『猶予』を与えるのがAI故人のサービスなのだと思います。



ただ、私たちはいつから「生物は等しく生き、死んでいくもの」というリアリティを手放し始めたのでしょうか。

それを日々伝えてくれていた自然から、どれだけ切り離されているのでしょうか。


自然から離れる代償として、私たちの心身に何が起きているか。今回の記事は、改めて考える機会となりました。


私たちがより良く生きるヒントは、いつだって自然が教えてくれているのです。



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