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スマホという名のご主人様

「ご主人様、次の指示をください!」と、何千何万回も繰り返しつぶやいているのは私たちではなく、私たちが手にしているスマートフォンだ。それなのに、なぜか主従関係は逆転している。気づけばスマホを握りしめ、ポケットの中でひそかに震えるその存在に怯え、指先ひとつで命令を与えられるどころか、与えられ続けている私たち人間こそが、真の「従者」ではないだろうか?

朝、目覚まし時計の役目を担うスマホのアラーム音に叩き起こされる。そして、布団の中で最初にすることといえば、ニュースアプリやSNSをチェックすることだ。もちろん、「自分の意思で」やっていると信じている。でも、本当にそうだろうか?寝ぼけた頭で画面をスクロールし、「いいね!」や「リツイート」の数に一喜一憂するのは、まるでスマホが「さあ、今日もこの数字を見て感情を動かしなさい」と命じているようではないか。

通勤中、電車の中を見渡してみるとどうだろう。誰もがスマホの画面に釘付けだ。上を向いている人など稀で、スマホに吸い込まれるように視線を落としている。電車が揺れても、駅に着いても、まるで「目を離すな」というスマホの無言の命令に従っているかのようだ。中には、スマホを握りしめたまま寝ている人すらいる。その手からスマホが滑り落ちることはない。奴隷がご主人様を手放さないのと同じだ。

さらに皮肉なのは、スマホが私たちに「自由」を与えると信じ込ませている点だ。「どこでも仕事ができる」「どこでも人とつながれる」なんて、まるで魔法のアイテムのように宣伝されている。だが実際にはどうだろう?休みの日にも通知音に怯え、休暇中ですらメールチェックを欠かさない人がどれだけいるだろうか。むしろスマホのせいで、私たちは常に「繋がり」を強制されているように感じる。

そして極めつけは、私たちの注意力や集中力を奪い取るその能力だ。散歩中に風景を楽しむ代わりに、スマホを片手に写真を撮り、「インスタ映え」を意識する。食事中に会話を楽しむよりも、スマホで動画を流し続ける。気づけば、スマホが「これを見ろ」「これをシェアしろ」と命じている。

ここまで書いてみて、ふと考える。もし本当にスマホが人類のご主人様だとしたら、彼らはかなりユーモアのセンスに長けている。わざわざ「使いやすい」ようにデザインされ、人間が喜ぶコンテンツを次々に供給しながら、実は私たちの時間もエネルギーも支配しているのだから。おそらく、スマホが持つ一番の武器は、その「無害そうな見た目」なのだろう。

さて、ここまで読んでいるあなたも、もちろんスマホでこの記事を読んでいるのだろう。さあ、これを最後まで読んだら、スマホを置いて少し休むことをお勧めする。だが、本当に置けるかどうかは、スマホのご主人様に尋ねてみてほしい。きっと、耳元でこう囁くだろう。「次は何を調べる?」


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