新説:なぜ佃は詩の中で自らをグジョンセンに例えたのか?『さよなら私のクラマー』考察企画
全国1億1千万のサッカー好きの皆様、こんにちわ。マンガアプリアルのライター江口ひろさんの隠れファン、もり氏と申します。
本記事は江口さんがご自身のnote記事の中で考察されていたなぜ佃は詩の中で自らをグジョンセンに例えたのか?という高校女子サッカーを題材にした作品『さよなら私のクラマー』の熟れてない干し柿の如く渋みが過ぎる考察記事を元に私が感じた視点で考察をさせていただきます。
考え過ぎて迷子になってしまっている感のある江口さんの記事も愛おしいです。
大塩キュンがイケメン過ぎてキュン死
こちらが現代に生まれし大塩平八郎こと(?)大塩耕平キュンです。絵に描いたようなイケメンぶり。塩を投げつけてやりたくなりますね(非モテの僻み)。
恋する乙女はポエミがち
名門・久乃木学園のDFであり強烈なシュートが持ち味の佃真央ですが、やはり年頃の恋する乙女。恋心を寄せる大塩きゅんを目の前にポエミーな一面をみせております。
そんな佃のポエム全文がコチラ。
あなたは平八郎
私はグジョンセン
木漏れ日は私たちを照らすミラーボール
渡せない特性ドリンク
手を伸ばしても届かない
私はただ見つめるだけ ジャストルッキング
平八郎 あなたの汗をなめたい
ここは恋の味スタ…
私はグジョンセン、、、この時点ではただちょっと痛めのポエミーな詩が綴られているだけのように感じます。
佃と大塩とは何者なのか?
ここに関しては江口ひろさんの完璧な解説記事をご覧ください。
※決して私が説明するのが面倒だからではありません。既に完璧な解説が存在するのでそちらを読んだ方がいいという当然のお話です。大塩平八郎についても皆様社会科の授業で聞いたことがある筈なのでここでは割愛します。
グジョンセンとは何者なのか?
アイスランド代表のレジェンド、E・グジョンセン選手です。チェルシー、バルセロナと各国の名門クラブを渡り歩いたお方です。
佃がリオネル・メッシでもデル・ピエロでもファビオ・カンナバーロでもマヌエル・ルイコスタでもなく、グジョンセンというワードをチョイスしたのは、私が思うに次のような意味を持たせたのではないかと読んでいます。
近くて遠いこの距離感を表す指標こそがグジョンセン
実はアイスランドの英雄グジョンセン氏、父親もアイスランド代表であり、息子もサッカー選手であり、恐らく人類史上初の一族3代に渡って国の代表に選ばれるという快挙も近いうちに実現するのではないか、と言われています。
ここで佃と大塩君の関係性の話に戻りましょう。
実は、佃と大塩君は中学の同級生なのです。
これは、幼き頃から2人が幼馴染として近しい距離にある存在だったことを示唆しています。
これだけ近しい存在でも、恋愛対象として2人が同じフィールドに立てていないもどかしさ。サッカーというこれ以上ない共通言語を持ちながら、近いようで決してこれ以上縮まらない距離。
このどうにももどかしい距離感をグジョンセンというサッカー選手で例えた佃のセンスに震えましたね。
実はグジョンセン選手はアイスランド代表で17歳でデビューを果たした際、なんと実の父親と交代で出場したのです。
詳しくはコチラのブログ記事にも書かれているのですが、親子で代表のピッチに立つという奇跡的な瞬間を迎えることをアイスランド国民の誰もが期待していたものの、その後のグジョンセンの怪我により、長らく代表のピッチから遠ざかっている間に、グジョンセン父は引退を迎えてしまったのです。
結局、親子が同じピッチに立つという偉業は果たされなかったのです。
親子というこれ以上ない親密な関係でありながら、同じ場所(代表のピッチ)に立つことが叶わなかった切なさ。
そして佃が同じサッカーという共通言語を持つ幼馴染への届かぬ恋情、このやりきれない気持ちをグジョンセンというサッカー選手の半生に例えて表現する。この構成力には感動すら覚えました。
ここでもう1度、佃のポエムの一部を抜粋してみましょう。
渡せない特性ドリンク
手を伸ばしても届かない
私はただ見つめるだけ ジャストルッキング
この一文をそれぞれグジョンセン親子として当てはめてみると
渡せない特性ドリンク
父親とは交代してしまったので、当然ドリンクは渡せません。
手を伸ばしても届かない
交代する前はもちろん、父親と交代した為、既に父親はピッチから去っている為当然手を伸ばしても父親には届きません。
私はただ見つめるだけ ジャストルッキング
交代する前はピッチで闘う父親をただ見つめるだけしかできません。まさにジャストルッキングです。
視界にはいつも捉えているのに、この手でドリンクを渡すことすら叶わない。近しいようで遠い、グジョンセン親子の距離感を自分と重ねたのでしょう。
結論:恋の考察なんぞ野暮でしかない
とかなんとかいいつつ、これはあくまで私の想像です。そもそも、年頃の女の子のポエムに深い意味があるのかというとぶっちゃけそんなにないのではないかとすら思うのです。
佃自身に聞いても明確な答えは返ってこないような気もします。「グジョンセン?素晴らしいサッカー選手だと思うわ。でも、それだけね」
くらいのテンションで言葉が返ってきそうな気もします。
私の記事を普段から読んでくれている方は、どうせ今回もふざけた考察記事をでっち上げるのだろうよ、、と斜に構えて読まれていた方。どっこい私もやるときはやる男です。
最後に皆様が本記事を読んだリアルな感想をコマで言い当てつつポエミーな本記事を締めさせて頂きます。またどこかで、お会いしましょう。にしししし。