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イギリスで | 犬の話6 | 湖水地方の農場から来た子犬

(犬の話5の続きです)

冬のあとの旅支度

夏の終わりにポンゴが去り、秋がきて、いつの間にか冬が過ぎ、春になっていた。新しく迎える犬探しを始めることになった。

ポンゴはブリーダーから来たから、今度は保護犬をと思ったが、犬好きで知られるイギリス人たち、仕事が忙しく犬を断念していた人々が、コロナのロックダウンで家にこもる生活となり、長年の夢をかなえるべく犬に殺到した結果、保護犬もたちまち底をついてしまった。

この国では、店頭で犬や猫を売っていないから、犬の繁殖業者というものも存在しないため繁殖引退犬などおらず、また、野犬もいないので、そもそも保護犬となる犬の数も多くないのかもしれない。ある犬に千件を超える応募があったと保護団体の記事が語っていた。

あちこち調べたが、ついに断念し、仕方なくブリーダーから子犬を迎えることにした。ポンゴと入れ替えるようでいやだから、彼とは違う犬種にしようということになった。

春の陽の中、湖水地方の農場へ

湖水地方まで子犬を迎えに行くことになったのは、長く厳しかったイギリスの2度目のロックダウンも、ゆっくりと終わり始めた春の週末だった。予約したコテージは、長い閉鎖を強いられた後、私たちが久し振りに迎える最初の宿泊客だった。

閉じ込められていた暗い冬がついに終わり、明るい日差しと共に訪れた自由な春に、イギリス中が陽気な口笛を吹きながら、うきうきと踊り出していた。

湖水地方までは長い道のりだけれど、皆の心も春の陽のように軽い。子犬を入れて持ち帰るダンボールの小箱やら子犬用のタオルやら、慌ただしく車に積んで出発した。

宿に荷物を下ろし、教えられた住所に行ってみると、そこは本当に農場だった。ファームという名前でも、かつて農場だった場所や家に名前を残しているだけの場合もあるが、そこにはトタクターが走り、藁が積み上げられ、厩舎には大きくて美しい乗馬用の馬たちがいて、その優雅で穏やかな目で突然の訪問客を眺めていた。

私たちの騒がしい到着に気づいたのか、奥にある広いファームハウスから、2頭の大きな犬を従え、いかにも乗馬が似合いそうな堂々として凛とした女性が出て来て、暖かく迎えてくれた。農場の主、ヘレンだ。

厩舎の子犬たち

空いている厩舎の1室にいた子犬たちは、人の気配と母犬の姿に大喜びで走り出て来た。数えたら9匹だった。

「子犬たちと遊んでいいわよ」とヘレンが微笑みながら柵を開けてくれると、子供たちは、もう嬉しくて嬉しくて子犬の厩舎に転がり込んだ。すると同じく嬉しくて嬉しくて転がり出て来た子犬たちが飛びついてきて、厩舎の中はたちまち大騒ぎになった。

見たことのない人に、それも騒々しい子供たちに触れるのは、これからイギリス中に散らばっていくであろう子犬たちにとって、よい経験だと思ったのだろう、ヘレンは厩舎の隅に立ち、子犬たちと子供たちが、撫でられたり、抱きしめられたり、よじ登ったり、ひっくり返ったり、夢中になって遊んでいる姿を微笑みながら眺めていた。

「トフィーはどこ?」子供たちは興奮がひととおり収まると、自分たちの子犬探しを始めた。トフィーというのは日本のキャラメルに似たイギリスのお菓子で、子供たちはそのお菓子と同じ茶色の子犬を、そう呼ぶのだと決めていた。ヘレンとの事前のやり取りで、貰う予定の子犬は既に決まっていたのだが、どの子犬もそっくりで、一頭づつ違う首輪の色だけが頼りだった。

走り回る子犬たちの群れの中から、ライラック色を首にまとったその子犬をやっと見つけ、子供たちはその小さく暖かいふわふわしたかたまりを代わる代わる抱きしめた。「トフィー、明日また迎えに来るからね。一緒におうちに帰ろうね。」

ライラック色のリボンの子犬

翌朝早く農場に子犬を迎えに行くと、ヘレンが書類だの子犬用の餌の袋だのを持って出て来てくれた。

「名前はもう決まっているの?」「トフィーっていうの!」と子供たちが口々に告げると、「そう、それじゃあ書類にそう書いておくわね。」と言ってにっこり笑った。

そして書類だの必要事項の伝達だのを素早く済ますと、厩舎の入口で押し合いへし合いしていた子犬たちの中から、ライラック色の首輪状のリボンを付けた小さな子犬を取り上げて、渡してくれた。優しいライラック色が似合う可愛らしい子犬だった。

ところが、その子犬を抱いて車に向かおうとすると、今まで期待と興奮と喜びの中にいた子供たちが、突然不安そうな声をあげ始めた。

「トフィーはまたお母さんに会えるんだよね?」「ねぇ、またトフィーをお母さんに会いに連れて来るよね?」「また来るよね?トフィーはしばらくしたらまたお母さんに会えるんだよね?」

厩舎の入り口に立つ母犬の姿を見て、子供らは母親と引き離される子犬を思い、急に悲しくなったのだ。

「そうだね、また来ようね。」と私たちがこたえると、やっと安心して「トフィー、大丈夫だよ。またすぐお母さんに会いに来るからね。」と子犬に話しかけ、そっとダンボールの小箱に入れると、大事そうに抱いて車に乗り込んだ。

そして、厩舎の子犬たちと、その脇にたたずむ母犬と、手を振るヘレンを後にして、美しい馬たちの脇を過ぎ、藁山とトラクターの間を抜けて、私たちとライラック色のリボンの小さな子犬を乗せた車は、春の湖水地方の緑の中を南に進んだ。

…‥……………………………………………………………………

| 後記 |

あれから時がながれた。
庭のポンゴの木は大きくなった。
古くなったツリーハウスは朽ち始め、
私よりはるかに背が高くなった子供たちは、
もう友だちと庭を駆け回ることもなくなった。
庭は静かになった。

それでも、
家族の絵を描く子供たちは、
皆の足元に1匹の犬、そして、
空に羽の生えた1匹を、必ず描いた。

時折、君の木を訪ねて庭の奥に行く。
やぁ、と心の中で語りかける。
旧友に会うみたいに。

犬の散歩の草原で、
君に似た犬を見かけると立ち止まる。
懐かしく目で追う。
遠くから、いつまでも、振り返っても。

広い緑の草原に
君が力強く吠える声が聞こえる。
従順なんて足で踏んで立ち上がれ。

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| 追記 |

お読みいただいて、ありがとうございました。
これは、本当は一つの続いた話なのですが、長くなってしまったので、仕方なく六つに分けました。「犬の話1」から「犬の話6」まで、通してお読みいただけたら幸いです。ありがとうございます。


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