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導入と、幼少期から中学まで

導入

僕の人生を語り始める前に、僕の人生全体を通して影響の強いものをあげておこうと思う。特に家族の影響は大きい。

僕は母と兄に良くも悪くも強く影響されている


  • 苦手。嫌いじゃなくて苦手。干渉が多くてある程度距離を保ちたい。一つ苦手な要因としては激情家なところだ。カッとなると手がつけられない。しかもそれも、ブチギレ方が半端じゃない。俗にいうヒステリーな人間。また、こっちが何か要求をしても、よくわからない理由で却下してくることが多い。それに前時代的。これに関しては父も合わせて時代に追いつけていない。偏見も多い。漫画やアニメなどには、最近は薄れてきたが、僕が中学生だった頃までは偏見が強かった。あとデリカシーのない発言というか、結構不快に感じる言葉を発する。基本的に幼稚で頑固な人だ。それとずっと気色が悪かったのが、恋愛をすぐに把握してくる。兄が「彼女いるでしょ」と問われている場面を何度見たことか。兄の提案を突っぱねる場面を何度見たことか。そういう兄の姿を見ていたから、小学校高学年くらいから母に提案や相談はしても仕方がないと思い始めていた。僕なりに母の干渉から抜け出そうとしていた。実際中学の頃の僕は、一定の距離を置けていた。しかし、コロナ禍とかぶっていた高校時代は母と距離を置くことをできていなかった。そもそも、「母とは一定の距離を置いた方がいい」ということは最近色々考えて、「そういえば中学の頃はもう少しうまく関われていたな」と振り返って見た結果、意識してきたことだ。ただ、もう一度言うが僕は母を嫌いじゃない。普段は、普通に話す。というか高校生の時まで、不器用で面倒な人だけど生んで育ててくれたんだから支えなきゃとかバカ真面目なことを考えてた。ただ、振り返ると母による影響が悪く作用したことも多かったなという印象を抱いた。


  • 僕にとって兄は、憧れ、コンプレックスの対象。激情家なところは母に似てる。また、人たらしというかコミュ力が高く、一種のカリスマ性を持っていると思う。運動能力も高く、中学時代は1、2、3年合同のマラソン大会で3年間1位だったらしい。それのお祝いで毎年ケーキを食べていた。兄はいいやつである。ただ、彼の僕の容姿いじりは後々になってまあまあ効いた。あと、ちょくちょく家庭内を荒らす。でも、僕はそれを責めれない。僕は次男だからわからないけど、長男って親も初めてのことばかりだから、苦労も多かったと思う。特に僕たちの母は頑固なのだから。そう思うから、僕が高校の時彼が原因の一端となって家庭が荒れて、僕以外の家族が彼の悪口を言っていても、僕はそれに賛同はできなかった。母が寄り添うべき場面もあったのに、兄の話を聞かなかったこともあったからどっちもどっちだと思ってた。

  • 母方の祖母
    いつからか僕の中で、僕の不自由の象徴になってた。高校から一緒に住むことになったけど、口も悪いし、ネチネチしていて、たまに会うのがちょうど良い人。性格は悪い。母をブチギレさせるのが得意。母親とは仲がよくない。いや、良くないんじゃないけど、、難しいな、、、。

あとは家族は、父と妹がいる。ここまで書いてきた3人の印象は今の僕が過去を振り返って評価してる。高校までの僕は、こんな風に彼らを評価できてなかったし、当事者としてどうすればいいかわからなくて苦しんでた。ただ、家庭の問題というのは今年になってから、だいぶ改善した。兄も2留したことで真面目になり、母親も落ち着いてきて、祖母も入院したりして、やっと家が落ちつける場所になった。高校に入ってからは家は落ち着ける場所じゃなかったから嬉しい。その代わり、僕はかつての恋人への執着に悩まされるわけだが、、、。


幼少期から小学4年まで

小さい頃の記憶は、ただただ兄と遊んでた記憶しかない。僕は兄が大好きだった。この頃の記憶があるから、兄が大学を留年して家族に悪口を言われていた時でも、絶対に兄の味方でいようと思えた気がする。とにかく、僕の兄に対する尊敬、憧れ、信頼、嫉妬は並大抵ではない。小学校に入っても、僕が小2まで兄が同じ小学校の高学年だったこともあり、普通に小学校生活に馴染めた。
この時の僕の性格としては、家ではわんぱくで学校では内気な感じだった。基本的には、学校のような外の世界で、大勢の前で目立ったりするのは苦手な子供だった。敵を作りたくないという意識はあって、問題児意外とは誰とでもある程度仲がよかった。友達内で悪ふざけはするけど、学校の規則には従うし、僕は怒られるのが嫌いだったからリスクを犯したくなかった。
きつい中学時代を通じて失われてしまったが、この頃の僕は対人関係のバランス感覚に秀でていた。今の欠陥品の僕なんかよりよっぽど優秀だ。
この時期のことはあまり覚えてないしあまり深掘りすることもない。普通に学校生活を送る真面目な子供って感じ。

あと誰にも理解されない感覚なのかもしれないし、わざわざかく必要もないかもしれないけど、僕は小さい頃から家族団欒だとか妹に優しくして「お兄ちゃんありがとう」と言われるだとかすると、なんだか脳がかゆい感覚があったのを覚えてる。何か違和感を覚えてしまう。理想の家族像を自分が演じている感覚、#1で語った自分を冷笑する意識、自分はそういう人間じゃないだろみたいな意識が生じる。別に僕は犯罪を犯したことなんてないけど、自分を糾弾する意識がいる。


小5から中1

小5小6は人生で一番楽しかった時期だ。この頃から僕の周りは携帯を持ち始めていたが、僕はいつからか友人関係の中心になっていたので、そういうことはあまり気にせずにすごすことができた。

小5小6

僕はこの2年間は人生でもっとも自由だった。(後の中学生活はいじめられたりしないようにひたすら無理していたし、高校生活は地獄だった)彼女に押し切られる形にはなったが、付き合い始めて、ある種、親からの固定観念や束縛から飛び出せた。ただ、自由とは言っても、不良になったとかではなくて、ルールの中でいかに楽しむかといった感じだ。「ぼくらの七日間戦争」とか読んで触発されたのもある。あーいう大人への反発にウキウキした時期だった。また、一つ上の先輩でサッカーで仲良くなった人が遊び上手というか、色々なことを教えてくれて、当時の僕は彼みたいになりたいと思ってた。彼も兄と同じように一種のカリスマ性を持っていた。僕は、兄や彼のようなカリスマ性に憧れていたのだと思う。僕自身小4までで友達からも大人からもある程度信頼を得ていた優等生だったので、そういう自分から飛び出すのはなんだか楽しかった。「小5から頭おかしくなったよな」なんてからかわれたりした。友達とひたすら遊んだ。クラスでも少しずつ、中心になっていた。この頃の兄弟間の距離は結構離れていた。兄は中学に入ってからあまり僕にはかまってくれなくなったし、僕も友達と遊べていたからだ。そして、僕は先に兄の思春期と反抗期を見ていたので、母さんの理不尽さと兄の激しい感情の発散を見て、あんなに物に当たったりして怒っても意味がないんだろうなと思い、母さんにいちいち相談することなく行動するようになった。そもそも僕の家は周りの家と比べるとルールの厳しい家だった。家族付き合いでない友達を家に入れたことは1度もないし、カードゲームも外に持っていっちゃだめと言われた。僕は友達とカードで遊びたかったので、自分の服にデッキを忍ばせて、母にバレないように色んな工夫をして、外に持ち出していた。兄が「彼女できたでしょ」と母にバレたのを目にするようになったのもこの時期で、母は兄が小学校の時にどれだけ女子に告白されても付き合わなかったことを自慢気に僕に話してきていたので、僕は小学校では恋愛をしてはいけないのだと思うようになっていた。他にも、色々束縛があった。
しかし、僕は小学5年で初恋を経験する。小5で同じクラスになった、Uさん。このnoteを書き始める原因になった子だ。ただ、先述した小学校では恋愛をしていけないという意識や、母に絶対にバレたくないという意識、それに兄から小学校で付き合った人間は中学で必ず別れるという話を聞いていたことで、僕は中途半端な恋をしてしまった。また、あの年代特有の恋愛に対する恥じらいもあった。あと小学校で付き合う人間というのは、背伸びしてる感が僕の先述した冷笑的な意識に引っかかり、むず痒かった。この時そんな周囲の評価や意識のことなど気にせず、彼女が好きだという感情にひたすらに身を任せればよかったと今では思う。
彼女を初めて意識したのは、母親とスーパーに買い物に行った時だった。たまたま彼女も母親と買い物に来ていて、彼女と目があった。そこで僕は一目惚れした。後日、授業中に彼女のことを見ていたら目が合ってしまい、僕が会釈をしたら彼女が笑ってくれて嬉しかったのを覚えてる。そこから、少しずつ仲良くなってお互いを意識するようになった。ただ、僕はできれば付き合いたくなかった。子供ながらに、今は我慢して中高で付き合えたらいいなと思っていた。だから、告白をされないように彼女を避け始めたり、彼女を好きか聞かれたら「嫌い」と答えてしまったりしたのも覚えてる。小学校高学年は結構活発に告白が行われていたので、僕は彼女を遠ざけようとした。それで実際、一時期全く会話しなくなったりした。ただ、やはり、たまに彼女と会話をするときには、彼女への好意を隠しきれなかった。そうして、彼女にふたたびアタックされ、僕自身彼女と関われるのが嬉しくて、ついには付き合うことになった。彼女と一緒に下校するようになり、漫画を貸しあったり交換日記をしたりした。中高がつらかった僕にとって、今ではあの時が人生で一番幸せな時期になってしまった。彼女とランドセルを背負ったまま、暗くなるまで話しつづけた。僕は彼女が大好きだった。しかし、僕は付き合った後でも、一歩引いてしまっていた。彼女に「好き」とか好意を伝えることをあまりしなかった。しかし、あの時はそれでいいんだと思っていた。僕は、付き合いを始めてしまった以上、これから中学でも高校でもずっと付き合っていくんだと幼い幻想を抱いてた。そのためには、ペース配分をしなければいけないと考えた。だから、小学生の段階で踏み込み過ぎればきっとこの先停滞してしまうと考え、自分の気持ちを彼女にぶつけることをしなかった。僕は兄の言葉の通りになるのを極度に恐れていた。そして、中学入学を乗り越えればしばらくは安定するだろうという考えに至り、本格的に恋人っぽいことをするのは、中学に入ってからにしようなんて考えていた。彼女の好意にちゃんと答えるのはそれからでも遅くないと思っていた。彼女の視点から見れば、彼女のアタックをなん度も受けて仕方なく僕が付き合い始めた感じになってしまっただろう。違うんだ。僕も君が大好きだったんだ。君とずっと一緒にいたかった。あの時の僕は信じてたんだ、中学も小学校と同じような空間だと。僕以外携帯で仲良くなっていくなんて、よもや彼女と同じクラスになってしまうなんて思いもしなかった。あと、唯一僕が苦手だったのは、彼女が僕との交換日記を人に見せてしまうことだった。彼女にだけ見せていると思っていた自分の側面、直接好意を伝えることが少なかった僕も、交換日記なら結構思いを伝えたりできていた。それを、あまり親しくない人間が内容を知っていたり、嘲笑されたりするのが嫌だった。僕の本質は小4までの内気で軟弱な僕だ、だからそれで結構ショックを受けたりした。付き合ってた時は、それも彼女がそうしたいならいいかと思えた。二人でいる時はずっと楽しかったし、依然僕は彼女が好きだった。


中1

小学校を卒業し中学受験もせずに、そのまま地元の中学に進学した。僕の小学校の人間は大体がこの中学に進む。だから、友達もそのままだった。そして、僕は彼女と同じクラスになった。ただ、僕と仲の良い男友達は一緒のクラスになれなかった。彼女とクラスが一緒だとわかった時は嬉しかった。
中学が始まると、僕は友達を作ろうと頑張った。教卓の前の席で友達が作りづらそうだったので、頑張らなくてはいけないと思った。しかし、なかなか友達ができなかった。僕は気づいた。小学校の時よりも、スマホがコミュニケーションのきっかけの中心になっていたことを。中学が始まる以前からその中学に進学予定の人間のグループが作られていたり、クラスのグループが作られていてそっちでみんな仲を深めていた。僕は休み時間の限られた時間で話かけるが、その程度ではなかなか親睦を深めることができなかった。それに、僕と同じサッカー部に入部する人間は僕を含めて二人だけだった。部活で友達を作れても、クラスでの友達作りは進展しなかった。そんな中、僕と彼女が付き合っていることが誰かにバラされてしまった。クラスの人間は僕に好奇の目を向けた。僕はできれば、そういう要素を抜きにして友達を作りたかった。実際、そうして僕に近づいてくる人間は僕をいじる目的で近づいてきた。それも受け入れて仲良くなろうとしても、ひらりと躱される、一定の距離を保たれる。この頃は、入学当初で仮入部などが忙しく、彼女と帰る頻度も減り、二人で過ごす時間が減っていた。彼女も、前から二人きりの時以外はそっけない子だった、あえて友達に僕を悪くいってあとから二人の時に謝ってくるような子だった。小学校の頃は、僕も先述の通り直接好意を表現をしなかったので、彼女が僕の好意をそうして確認しようとしてくるのは仕方ないと受け入れてた。でも、中学に入ってばかりの僕にそんな余裕は無くなっていた。僕は彼女が今の僕の現状をどう思っているのかわからなくなった。他の女子と話しかけてくることはあったけれど、そういう時彼女は僕にそっけなかった。そうして入学後の忙しさが過ぎる頃には、彼女を一緒に下校に誘うこともハードルが高くなっていた。クラス全体が僕らの動向を注目していて、お互い声をかけづらかったのもあった。当時の僕は、友達を作ることができない僕に、彼女は幻滅したのではないかと思った。彼女にとって僕との関係は恥ずべきものなんじゃないかと思った。そうして、僕は彼女にも不信感を募らせていった。そして、ある日僕は限界を迎えた。携帯を与えられていないだけなのになぜ自分がここまで苦しまなければならないのか。兄や母親のいった通り、小学校で彼女と付き合わなければよかったのではないか。母さんには、小学校の時点でバレていて、やはり僕が彼女と付き合ったことに難色を示した。また、彼女と友人の仲を取り持つ機会も多かった。それに彼女は僕がいなくてもやっていける。そのうち彼女は僕との関係を切るかもしれない。彼女に振られる前に僕から振ってしまった方がいいんじゃないか。他にもここに上げた以上に色々なストレスが溜まっていた。そうした負の感情や今までの周囲の人間のマイナスの意見がどす黒く僕の中で渦を巻き、もう抑えることができなかった。そして、僕の方にあった交換日記に、別れの内容を書き始めた。日々溜まっていたマイナスな感情に身を任せ、言葉は強めな口調になっていた。そして、それを彼女の家のポストに入れた。

感情に任せて一連の行動をしてしまったが、僕は家に帰り冷静になって後悔した。ただ、この時点ではまだ、明日二人きりで彼女と話す機会を設けて謝ろうと思っていた。それかもしかしたら、彼女から「一度話そう」と提案してくれるかもしれないと思っていた。

次の日、どうなるか不安だったが学校へ向かう。
 ‘‘流石に別れるのはやり過ぎだったかもしれない‘’  
 ‘’昨日はすこし不満が溜まり過ぎてた‘’
 一度睡眠を挟んだ僕の頭はそんなことを考える。
 ‘’一回彼女と話そう。そしたら、解決するはずだ‘’

教室に着き、扉を開ける。
すると、クラスメイト全員の視線が僕に突き刺さる。ニヤニヤ笑っている人、気まずそうな人、そしてその中心は彼女らしかった。教室が盛り上がる。一人僕に近づいてきて、記憶に新しいフレーズを言う。昨日僕が書いた交換日記の一文だ。

どうやら、僕との交換日記がクラスのグループLINEに載っているらしい。彼女本人が載せたのかはわからない。友人が載せたかもしれない。しかし、そんなことを考えても仕方が無い。それに、自分の交換日記が拡散されるなんて少しも考えていなかった。ここにいる全員にあれを見られたなんてどうにかなってしまいそうだった。

僕は衝撃を受けたが、とりあえず自分の席に座り、話しかけてくる人間にてきとうに返事をして、授業まで耐えた。今朝まで抱いていた淡い希望は完全に消滅した。

とりあえずその日は部活に行くことにした。部活なら、小学校からの友人も新しくできた友人もいる。それに、サッカー部で僕以外にこのことを知っているのは同じクラスの彼だけだ。早めに練習場に言って、そこで口止めしよう。
そう考えて、部活へ向かう。もうすでに他クラスの友達がいた。すると、僕は今朝と同じ視線を感じた。僕はsnsの情報の拡散の速さを侮っていた。‘’まさか学年全体が知っているのか?‘’  小学校に比べ、中学の一学年の人数は3倍近くある。人生で初めて体感する規模感に不安が止まらなかった。そして、結局部活でも酷くいじられた。小学校からの友人や親友も、そのいじりに参加していた。仕方ない。みんな新しい環境に馴染まなければならない。‘’入学間もなくしてやらかしてしまった人間‘’そんな距離感をかつての仲間から感じた。みんなが遠く感じた。僕に見えない正体不明のネットワークが張り巡らされているのに恐怖した。

下校する頃には、彼女との失恋に想いを巡らす余裕なんてなくなっていた。僕はこれからどうなるのかで頭がいっぱいだった。とりあえず、家に帰って壁を殴りまくった。

この日の出来事は、ずっとトラウマとして残ってる。そしてこの日以降僕は女性が苦手になった。というより、この後2年生の途中まで部活の性格の悪い連中にいじりが継続されるのだが、いつしか僕はそれに何も考えず反射で反応してキレ芸を披露するようになっていた。僕はすでにクラスでは、友達ができそうにない。部活でも孤立したら、僕は本当に孤独になる。部活で孤立するわけにはいかなかった。だから、そういういじりにも少しオーバーに反応し皆を笑わせた。彼女の名前は彼らによって、僕にキレ芸をさせるための道具となっていた。いじりに対してそんな対応をしていくうちに、もう僕にとって彼女がどんな存在なのかよくわからなくなった。何よりも大切に思っていたはずなのに、こんな不良もどきみたいな奴らに軽はずみに彼女の名前を使われて、そして自分もその状況を甘んじて受け入れて、そいつらの敵にならないように行動して、もう僕は自分が嫌だった。こんな人間、誰かと対等に付き合うことなんてできるわけがない。そんな感じで僕は女性と距離を置くようになった。
snsにも苦手意識を持った。今でも僕はメッセージが苦手だ。親友以外とメッセージを送り合う時には、たとえ個チャであっても、スクショされ拡散されても大丈夫なような文しか送ることができない。あの時の教室の雰囲気がフラッシュバックして、緊張してしまう。


字数も多くなってきてしまったし、書き手である僕が風邪をひいてしまったので残りの中学生活は軽めに扱っていく。別に大した出来事はないし。ただただ、きつい空間が続いただけだ。以降の文章は風邪気味な状態で書くので、誤字とかテキトーな部分が増えるかも。

まずあの出来事の直後から、僕はクラスに居場所を見出すことをやめた。もうどうでもいいと思った。絶対にいじめられないように、僕の筆記用具にちょっかいをかけてきた男には徹底的に反撃した。よく取っ組み合いのような状態になった。とにかく、部活の時間までいかに乗り切るかが僕のミッションだった。給食の時間が一番きつかったのを覚えてる。そうして、クラスでは、いじめられないように抵抗だけはするが、目立たないように生活しようと考えてた。しかし、またしても僕の希望は絶たれる。
振り返ると、僕は、教師から見れば、結構理想的な文武両道の学生生活を送ってしまっていた。定期テストではトップ争いの常連であったし、部活も手を抜かず部員全員とうまくコミュニケーションができ  (僕からすれば部活では絶対孤立したくないという一心で行動していたけど。あと、みんなスマホを持っていたから、よく連絡を取り合う人間はグループ化していった。そんな中、僕はのちの部長とも仲がよく、不真面目な連中とも仲が良かった。特に不真面目な連中と接するのに、僕の成績が良いことは役立った。僕は彼らの悪ノリに誰よりも乗っかった。彼らがラインきわきわなところで足踏みをし、僕が誰よりもはっちゃっけてライン越えをする、そんな役割だった。部長にはなんでお前がそっち側にいるんだみたいな顔されてたな。そんな侮蔑の眼差しを僕に向けるなよ、僕は敵を作るわけにはいかないんだ。スマホを与えられて器用に学生生活を送ることのできるお前らの尺度で僕を図るな。僕自身こんな自分好きなわけないだろ。snsやTikTokに脳を侵された病人ども。外国企業の手のひらの上で踊っていろ。クソが。ふざけるな。‘’勉強はできるけど普段はバカ‘’なんて愛着あるキャラを形成することに成功した。あと実際、僕は鈍感なまっすぐバカとしてやっていくことしかできなかったと思う。クラスでも部活でも、交友関係のネットワークやゴシップ、どの話題が触れてはいけないのか、どの話題が今ホットなのか、そんなものまったくわかるわけなかった。部員の全てのコミュニケーションに滑り込むくらいの気概だった僕は、そういう敏感な話題を全て無視していたので、繊細さの対極にいる人間だと思われていたと思う。今でも連絡をとっているサッカー部の友達に、試合のあと、初めて弱音を吐いた時も、「(僕の名前)ってそんな悩むんだ!なんか意外だった。。」と言われた。彼は部の中でも、僕と同じくらいに真面目に部活に取り組んでいた男で、決して嫌味とかではなかった。要はそういうことだ。)
()が長くなってしまったが、
部員全員とうまくコミュニケーションができ、gwの課題を全校生徒の前でプレゼンする羽目になったり、とにかく教師から見たら僕なんてそんな感じだ。しかも、授業はまじめに受けていて、結構手をあげたりしていた。こんな人間は学級委員を任されてしまう。そう、僕はトラウマを負ったあのクラスで、矢面に立たなければならなくなった。しかも、1年の時の担任はヤンキー風の野球部顧問で、僕は怖すぎて断れなかった。「お前で、、別にいいよな?、、、(圧)」って感じで言われたら、逃げることなんて不可能だ。クラスでの話し合いとか本当に辛かった。今振り返れば、一部の人間以外はもう賞味期限が切れた話題として、過去のことになっていたのだろうけど、中1の僕にそれに気づけというのも酷な話だ。誰一人中のいい人間なんていないのに、クラスの代表をさせられる苦しみがわかるだろうか?  誰も僕にリーダーシップなんて期待していなかっただろうし、単純に面倒な役職を押し付けられただけだということは自明である。それでも、僕はひたすら与えられた役割をやるしかなかった。クラスメイトに裏では嘲笑されてるのではないかってずっと考えながらも、この状況から逃げるわけにはいかないと自分に言い聞かせた。あと、誰かあるあるとして共感してほしいが、1度学級委員をやると再選率が高くなる。学級委員にもいつものメンツのようなものが存在する。というわけで、僕は途中やらない学期もあったが、毎年学級委員をする羽目になった。大勢の前で、無理やり笑顔を作って活動するのはしんどかった、、、

中学時代は親友すら遠く感じた。1年の頃なんて、クラスの友達と深夜までlineしたわ〜 とか 荒野行動やらフォートナイトやらその辺のゲームの話題を嬉しそうに語られるたびに、彼が僕から離れていく不安を感じた。僕が彼に部活の不真面目な奴らの愚痴を言っても、そいつらとゲーム友達だった彼は僕をなだめるばかりで、全然僕側についてくれなかった。本当に孤独だった。ある日、おばあちゃん家で兄貴と一緒に寝る際、「僕はこんな時代生まれたくなかった。学生の時にスマホのない世代で生まれたかった。」と漏らしたのを覚えてる。


まあとにかく、僕は孤独なのにやたらと人の前に立つ中学生活を送った。ただ、やはりこの時はまだ希望があった。高校からスマホを与えられるし、僕が求める青春は高校からでもできると思っていたからだ。僕は高校受験を頑張った。僕の志望校は、都会にある私服登校も髪を染めるのもパーマとかもなんでもありな、自由な進学校だった。東大も毎年進学するし、僕の周りは大体gmarchに行ったが、それなりの進学実績だ。でも、僕はそんなものどうでも良かった。高校に入って、優秀な友人たちと青春できれば、自然と大学受験にもシフトできると考えていたからだ。僕は、中学で同世代の感覚から遅れをとった分、高校の形をしているだけの、ルールはほぼ大学のような進学校で中学の人間を周回遅れにしたいと思っていた。実際、兄が私立高校だったが、校則はとても厳しいようだった。僕の中に一つずっと心に残っている言葉がある。記憶が確かではないが、小学3年の頃の担任の言葉だったはず、「勉強をする意味は、将来の選択肢を増やすことにある。逆に言えば、勉強をしなかった人間は選ぶことができる選択肢が減ってしまう」小3の僕はこの言葉に感銘を受けて、めちゃくちゃ勉強熱心なわけではないが、最低限与えられる課題はしっかりやろうという心情になった。高校受験の時も努力しなかった人間には与えられない褒美が支払われると信じていた。まあ、結局地獄の3年間を送るわけだけど。今も僕を蝕むうつ病が治る日は来るんだろうか。。知恵袋とか見ると、10年くらい苦しんでいる人もいるようだし、不安だ。

最後に、あのトラウマの出来事のあと彼女と何かあったかというと、、、何もない。
自分の恥ずかしい内面を拡散されたことの衝撃が強すぎて、失恋の後悔や悲しみなんて吹っ飛んでしまった。それに、誰が実行犯なのかも、気になっていた。彼女自身なのか、だとしたら別れを申し出たことに対する報復としては、やりすぎではないかと思う。lineとかでいくらでも自分のしたいように弁明できる彼女と僕とでは事の重大さの認識に違いがあるのかもしれない。あの出来事後のクラスでの僕はもう僕じゃなかった。彼女も含めてクラスの人間を認識しないようになってた。ただ、最後の記憶は彼女が行事を休んでしまったことと、それ以前から学校にくる回数が減ってきていたことだった。でも、それに何か思うこともなかった。本当にあの時の僕は、空っぽだった。その記憶を最後に、僕は2、3年で彼女と同じクラスになることもなく、卒業した。僕はクラスが変わるごとに、人間関係がゼロになる(前のクラスの人間とのつながりが完全に絶たれる)ので、他のクラスについての知識は全くなかった。だから、彼女のその後を知ることはできなかった。


ここまで書いてなんだが、高校については書くのはやめた。正直中学までのきつい過去を語るので疲れてしまった。それに、文字に書き出してみても、当時の僕が感じたものを伝わるように表現するのは難しいと思った。なんだか無機質な説明ばかりになってしまう。でも#1で、感情的なところは書けていたか、、。まあとにかく高校については書かない。この後の高校生活を通して僕はうつ病のスパイラルに陥る。その後、彼女から「また仲良くしよう」と連絡が来て、僕は6年間封印していた彼女への思いが爆発する。




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