【聖書通読シリーズ#5】信仰による義の祝福・信仰による義の転嫁(ローマ人への手紙5章1節~21節)
本文引用及び感想
一つ目(ローマ人への手紙5章1節~2節)
ここからは、信仰によって義と認められた私たちが、どのような状態になるのかを記述している。この二つの節で語られている状態は以下のようにまとめることができるだろう。
1.神との平和を持つ
2.今立っている恵みに導き入れられた
3.神の栄光にあずかる望み
「神との平和を持つ」とはどういうことだろうか?義と認められる前の人間は、罪を犯して(律法を守らないで)神に反逆している状態だったが、信仰によって義と認められた後では、罪が赦されて神と和解し平和な関係に入っているという意味だ。それによって、私たちの心に平安を持つことができる。
「今立っているこの恵みに導き入れられる」とはどういう意味だろうか?恵みとは神から与えられる無償の贈り物のことである。すなわち、「この」がさすことは神との平和の関係だと考えられ、導き入れられたということから、神に近づくことさえできなかった私たちが、大胆に近づき、祈り、賛美し、ほめたたえることができる。そのような状態にあるということだ。
「神の栄光にあずかる望み」とは何だろうか?神の栄光とは、神ご自身と神のものすべてのことである。それにあずかる望みとは一体何だろう。
二つ目(ローマ人への手紙5章3節~5節)
苦難さえも喜んでいますという言葉は、非常に力を持っていると思う。通常、宗教において、苦難は取り除かれるべきものであって、ご利益があるから信じるに値すると思うのではないだろうか。キリスト教において、私たちに与えられた祝福は、神との人格的な関係である。神との平和を持つという人格的な関係が祝福であり、私たちがこの世で得をすることではない。私たちは患難にあうときに、神との関係を一段と深めることができるのである。患難がクリスチャンにとって喜ばしいのは、地上ではなく天における報いがあるという希望があるからに他ならない。
三つ目(ローマ人への手紙5章6節~8節)
「神は愛なり」というフレーズは聞いたことがあると思うが、なぜ愛なのかということを理解している人は日本にほとんどいないだろう。まさにこの箇所がその答えだろう。また、ヨハネの福音書3章16節も読んでみてほしい。
四つ目(ローマ人への手紙5章9節)
この「ですから」はどこにかかっているのだろうか?これは1節の神との平和を持っていることにかかっていると思われる。ここでの神の怒りとは、死後のさばきあるいは患難時代のことを指していると推測する。
五つ目(ローマ人への手紙5章18節~19節)
一人の違反とはアダムの神への不従順のことであり、一人の義の行為とはイエス・キリストの神への従順である。アダムはイエス・キリストのひな型であり、彼によって、信じるすべての人が義と認められることがわかるのである。
六つ目(ローマ人への手紙5章20節~21節)
違反が増し加わるためというのは、律法違反がわかるだけでなく、罪の自覚が増し加わるためという意味である。律法は罪人を増やすためにあるのではないことに注意したい。(これは13節14節を参照)そして、罪の自覚が増し加われば、それを赦してくださる神の恵みの豊かさも大きく感じられる。
全体を通しての感想
今回はほとんどの箇所を引用したいと思うほど、学びが多かった。信仰によって義と認められてから、どのような状態となるかということについて具体的に考え、神の愛という本質的なことについても触れることができた。ただ、恵みの賜物については、あまり触れなかった。また今度深堀していきたいと考えている。