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【聖書通読シリーズ#6】罪からの解放(ローマ人への手紙6章1節~23節)

 前回の通読のnoteは、解説に偏りすぎていた気がする。まだ6回目ではあるが、原点に立ち返って、読んだ時の素直な感想を書き連ねていきたい。


本文引用及び感想

一つ目(ローマ人への手紙6章1節~2節)

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

ローマ人への手紙6章1節~2節

 前回の流れを考えていると、至極当然の疑問であるとともに、すぐに回答できる疑問でもある。ここでパウロの表現として、「罪に対して死んだ」とある。前章の流れを踏襲するなら、罪の支配から解放されたとした方が良い気がするが、なぜ罪に対して死んだと表現しているのだろうか。

二つ目(ローマ人への手紙6章4節)

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父みちちの栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

ローマ人への手紙6章4節

 先ほどの疑問に対する答えが、まさにこの箇所だろう。クリスチャンは罪に対して、キリストとともに葬られたということだ。それならば、私たちは何によって生きるようになるのか。続きの節を見ていきたい。

三つ目(ローマ人への手紙6章10節~11節)

なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
同じように、あなた方もキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだものであり、神に対して生きているものだと認めなさい。

ローマ人への手紙6章10節~11節

 明確に答えてある。神に対して生きているものだということだ。なぜキリストと同じようにされたのか。それは5節にあるようにクリスチャンは「キリストと一つ」になっているからである。私はヨハネ15章5節を思い起こした。

私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

ヨハネの福音書15章5節

四つ目(ローマ人への手紙6章12節~13節)

ですから、あなた方の死ぬべきからだを罪に支配させて、体の欲望に従ってはいけません。
また、あなた方の手足を不義の道具として罪に捧げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされたものとしてあなたがた自身を神にささげ、また、あなた方の手足を義の道具として神に献げなさい。

ローマ人への手紙6章12節~13節

 この問題は、必ず出てくる。信じる者は永遠に救われるなら、一回救われれば何してもいいんや!という考えは、通用しないことがはっきりとわかる。神に対して生きる者がもはや罪の中に生きることは出来ないのである。逆説的に、救いを免罪符のように考えて口先だけで神を信じたと自称しているが、その実神の中に生きていないものは、救われていないということになる。

五つ目(ローマ人への手紙6章15節)

では、どうなのでしょう。私たちは律法のもとにではなく、恵みのもとにあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

ローマ人への手紙6章15節

先ほど述べた問題点がまさにここである。

六つ目(ローマ人への手紙6章23節)

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 ここで、念のため疑問に思うだろう点の解説をしておこうと思う。死という言葉の意味は一つであるが、使われるシチュエーションとして、二つある。それは霊の死と肉体の死である。創世記2章16節~17節で神は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われたが、善悪の知識の木を食べたアダムはすぐに死ぬことはなかった。それならば、神は脅すために嘘をついたのだろうか?そうではない。彼の霊が死んだのである。そして930年が過ぎ、肉体がの死を遂げた。霊の死=罪が入った=神との断裂であり、1節にあった罪に対して死んだことによって、霊は神のうちに新しく生まれ変わり、その後肉の体は死に栄光の体へと変えられるのである。つまり、救いには段階があり、それをそれぞれ「新生(義認)、聖化、栄化」と呼んでいる。
 この箇所の死の意味は、肉体の死を指していると考えられる。

全体を通しての感想

 今回は罪からどのように解放されていくのかを読み解いていった。クリスチャンは、イエス・キリストと一つとされることによって、罪の奴隷から、義の奴隷へと変えられていくことを確かめることができた。また、個々の箇所は、クリスチャンの救いについて、「永遠のいのち?もらえるもんならもらっとこう」的なノリで口だけで信じたということの無意味さを教えられる。信じて救われたということは、罪の中で生きることはもはやできないということを覚えた。しかし、なぜ罪の中に生きることができないはずのクリスチャンは、罪を犯してしまうのだろうか。続けて読んでいきたい。

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