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【聖書通読シリーズ#7】律法からの解放(ローマ人への手紙7章1節~25節)

 前回に引き続き、聖化への道を考えていく。罪から解放された私たちクリスチャンは、どのようにして律法からも解放されていくのだろうか。また、前回の最後に問題提起したが、罪の中で生きることのできないはずのクリスチャンであっても、罪を犯すことがある。これはなぜだろうか。


本文引用及び感想

一つ目(ローマ人への手紙7章1節)

それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですかー私は律法を知っている人たちに話していますー律法が人を支配するのはその人が生きている期間だけです。

ローマ人への手紙7章1節

 なかなか、パンチのきいたフレーズだと思う。当然、なぜそうなのか、なぜそのことをここで取り上げたのかが気になってくる。

二つ目(ローマ人への手紙7章3節)

したがって、夫が生きている間にの男のものとなれば、姦淫かんいんの女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません

ローマ人への手紙7章3節

 なぜ死んだら律法から自由となるのか?という疑問に対しての具体例となっている。当時からユダヤ人は律法を行うことに関して人生をかけていたので彼らにとって基本的なことをおさらいしているのだろう。この後に言いたいことの本質が来る。

三つ目(ローマ人への手紙7章4節)

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかのかた、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。

ローマ人への手紙7章4節

 兄弟たちよという呼びかけは、もちろんローマの集会の人々をさしている。死んだら律法から自由になるのだとすると、キリスト・イエスと一体となって死んだ私たちは律法からすでに解放されている、ということになる。前回、罪からの解放を考えたときにも似たような疑問を考えたが、律法から解放された私たちは、律法を守らなくてもよいのだろうか?

四つ目(ローマ人への手紙7章7節)

それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が隣人となりびとのものを「欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

ローマ人への手紙7章7節

 ちょっとすべての意味をとらえていくことが難しくなってきた。律法は罪なのでしょうか、という言葉の意味がよく分からない。おそらく、律法によって罪がもたらされたのか?という意味ではないだろうか。決してそんなことはないとあるので、律法は罪を生じさせる悪いものということではなく、罪を自覚させるためにあるということだろう。

五つ目(ローマ人への手紙7章8節)

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私たちのうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ罪は死んだものです。

ローマ人への手紙7章8節

 「律法がなければ罪は死んだものです」とは、どういう意味だろうか。律法が罪を生じさせているわけではないのに、律法がなければ罪は死んだものになるのだろうか?これは、「罪は死んだもの」という言葉の意味が罪を自覚していない状態を指しているのだと思われる。罪の中にいるのにそれを知らないとはどれほど恐ろしいことだろうか。律法はそれを自覚させてくれるものである。

六つ目(ローマ人への手紙7章11節)

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

ローマ人への手紙7章11節

 パウロが自身の経験として、律法の真の意義を知ったときに、自分が罪人であり、罪のゆえに死ななければならないことを悟ったのだろう。律法を行っていれば罪人ではないと考えていた、当時のユダヤ人にとって、どれほどショックだっただろうか。

七つ目(ローマ人への手紙7章12節~13節)

ですから、律法は聖なるものです。またいましめも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。

ローマ人への手紙7章12節~13節

 正直この文章を先に提示してくれていたら、そんなに考えずに済んだのにと思ってしまった。

八つ目(ローマ人への手紙7章14節,17節,21節~23節)

14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪のしたもとにある者です。…
17 ですから、今それを行っているものは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。…
21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、
23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることがわかるのです。

ローマ人への手紙7章14節,17節,21節~23節

 まさに、前回の問題提起の回答がここだろう。すなわち、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、体にある罪の律法がそれを邪魔しているのだ。余談だが、23節を読むと、脳内で天使と悪魔がささやくそんなアニメーションが思い浮かぶが、それもこの聖句から来たイメージなのかもしれない。

九つ目(ローマ人への手紙7章24節~25節)

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

ローマ人への手紙7章24節~25節

 自分に罪の性質があることを理解し、そしてすべてをイエス・キリストにゆだねること。そうすることによって、肉の性質は徐々に除かれていく。だとするならば、クリスチャンになってから、この地上での生活に何の意味があるのだろうか。

全体を通しての感想

 クリスチャンでも罪を犯すのはなぜか?という問いに対する答えとして、心では神の律法に仕えていて、肉では罪の律法に仕えているからだということが分かった。ここで、新たな疑問が生まれてくると思う。そうであるならば、新生した後のクリスチャンの地上生活にはどのような意味があるのだろうか。例えば、イエスとともに十字架につけられた罪人ざいにんは一日のうちに肉の性質が取り除かれ、パウロはイエスと出会ってから数十年間かけて肉の性質が取り除かれたのだろうか。そのことについてこれから考えていきたい。

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