2021年 幻のNHKのど自慢in平戸
趣味の一つがカラオケであることと歌が上手なことが必ずしも一致しないのは承知の上で、やはりカラオケ好きを公言しよう。これまでの半生でずいぶん「授業料」というやつを払ったことも告白する。平戸へ落ち着いてからも多くのスナックでマイクを握ったし、商工会議所の青年部が主催するカラオケ大会にも参加したことがある。あの時は平浩二さんの「バスストップ」を歌った。
そんな私だから二〇二〇年秋、翌年一月十日に平戸でNHKのど自慢が開かれると知った際は、勇み立った。恥ずかしがり屋の目立ちたがりという性分は、我ながら度し難いのである。
応募要項に沿って、往復はがきを購入。住所・氏名・年齢・職業・電話番号などを書く。曲目は内山田洋とクールファイブの「すべてを愛して」。それというのもゲストが前川清さんと大月みやこさんで、私は古来(?)前川さん、というよりグループのボーカルとしての前川さんのファンだった。クールファイブの歌なら八割がた歌える自信がある。
応募の動機はこう書いた。
〈七月二十一日、夫婦合わせて百八歳で男の子が生まれました。結丸と命名。この「奇跡」を記念し、内山田洋とクールファイブの中でも特に前川清さんの熱唱が光るこの曲で、家族や周囲のすべての人たちに感謝を捧げたいと思います。何卒よろしくお願いします!〉
なんとまあ、第一回芥川賞受賞を熱望した太宰治が選考委員の佐藤春夫に向けて送ったはがき並みの懇願ぶりではないか。
はがきを投函したら予選会出場に備えて、一九七一年一月、つまり私が小学六年生の三学期に発売されたその名曲を練習しなければなるまい。いざ、カラオケボックスへ。と、その前に小学生の分際でクールファイブなどのムード歌謡にかまけていた背景を記さねばなるまい。
長崎市のキャバレーで歌っていたクールファイブの出世物語はオールドファンには有名だと思う。デビュー曲「長崎は今日も雨だった」は一九六九年二月にリリースされている。その時、私は小学四年生。はやりだしたのは五年生になってからのはずだ。調べて見ると、デビュー後九カ月にして、十一月にアルバムの「長崎は今日も雨だった」が発売された。年間三十万枚を売り上げたそのLPの購入者の一人が、私の三学年上の兄だった。関係ないが、兄の下の名前も内山田さんと同じ「洋」である。
どういうきっかけがあったのか、兄はこのLPを平戸のレコード店で買ってきて、的山大島で電気店を営んでいた私たちの実家の商品見本プレーヤーですり切れるほどかけた。似た思考と志向と嗜好を有している私も、自ずと好きになった。刷り込みってやつかもしれない。この場合、擦り切れによる刷り込みか。この兄という人間は、何か言葉や歌詞を覚えて、それが自分の耳や口で心地よいと感じると、ところ構わずに繰り返す性癖があった。両親を同じくするこの私にも、その気があるが。臨床医学的に何か問題が潜んでいるのかもしれないが、今はそれは置いておこう。何しろレコード収録の前川さんの原音は、一小節ごとに声が裏返っていた。それは兄弟の耳を際限なく癒したのだろう。兄は真似て四六時中歌い、声変わりしたかしていないかの弟も頑張って真似た。
デビュー曲に続く二曲目の「わかれ雨」も、そのB面の「不知火の女」も、当然ながらアルバムに入っていた。兄はまたこの「不知火の女」がお気に入りで、一番の終わり〈ああ恋に 恋に 女は生きていく〉の最後の音「く」を前川さんがなぜか濁音で「ぐ」と歌うのを耳に止め、東北弁じゃあるまいに〈生きていぐ〉と得意げに歌唱。弟がふつうに〈生きていく〉と歌うと「そうじゃなか、そりゃマチガイ! 生きていぐ、って歌わにゃぞ」と大真面目に指摘するのだった。
私は今ここでクールファイブ談義をしたいわけではない。ただ自分で言うのもなんだが、ある種、何かの筋金入りであることだけはお伝えしておきたかった。
平戸市戸石川町の葬儀社と隣り合うカラオケボックス。そこで私は何日か、練習した。得点が表示されるように設定した。なかなか九十点には届かなかった。前川さん的な歌唱の広がりを確認すべく、「すべてを愛して」以外の曲も歌った。店を出て、録音したスマホで聴いてみると、私は特に高音域の多い「女・こぬか雨」を最も好きそうに歌っていた。しかしもう、変更はきかない。選曲の動機が動機なだけに、「すべてを愛して」に命をかけなければならないのだ。悲恋の歌なぞ歌った日には、それこそ動機が不純と言われかねない。〈すべての人に感謝〉に嘘がないことを、自分のことなのに自分に祈った。
後付け理屈めくが、そういえばもう一つ、ぜひとも出場したい理由があった。私は知らなかったが、その十年くらい前にも平戸で「のど自慢」があったそうで、その時のチャンピオンは市の職員。その彼は大島出身で、私の同級生の甥だったのだ。さらに驚くべきは年間チャンピオンにまで登りつめたというではないか。曲は中島みゆきさんの「糸」だったらしい。ここで私の考えることは奇妙なのであり、私も年間チャンピオンは高嶺の花とはいえ、今回のチャンピオンにならせていただければ、「また大島人か。大島んもんな歌ん上手ばいね」というような風評利益が得られるのではと妄想した。
毎朝のウォーキングの際も「すべてを愛して」を口ずさみながら、私は応募はがきで篩にかける第一次予選当落の知らせを待った。胸には「当落」の「当」の文字しかなかったが、開催日まで三週間を切り、クリスマスを過ぎてもまだはがきが来ないので、しびれを切らした私はNHK長崎放送局に電話をかけたくらいである。新型コロナの影響で、開催について平戸市などと協議しているとの情報がもたらされた。「もう少しお待ちください」と。生まれつき待つことが苦手な私は気が狂いそうになった。
そうして暮れの二十七日か二十八日だったか。ついに届いたはがきには「中止」の二文字が。それははがき全面に貼られたシールの上に書いてあった。震える手でシールをはがすとー—。
まず太い文字で「予選会のご案内」。そして、二〇二一年一月九日(土)正午〜午後四時三〇分頃とある。その下に場所や本選放送予定が記され、燦然と輝く〈あなたの出場順は七十番です。曲目は「すべてを愛して」です。〉の二行。一次予選を、私は通過していた! しかし、その予選はこの世から消滅した! 天国と地獄を同時に見せられた思い。泣き笑い。新型コロナめ!
私はこの時の千々に乱れる思いをN紙長崎県版の記者コラム「あらかぶ」(二〇二一年一月八日付け)にとどめた。
※上記の拙文を書いた後に、仕切り直し?の平戸大会開催が決まりました。
放送は2024年4月20日(平戸文化センター)
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