プレゼントの捨て時
自分の寝室の窓の片隅に水鳥の雛のような姿をした小さなぬいぐるみが置いてある。カラーリングはマガモっぽいが、カモの雛は本来もっと地味なはずで、まあ、マスコット相手にそんなところにこだわっても仕方ない。結局30年以上経っているのでそのカラーリングすらかなり色あせてしまって、毛の感触もかなりごわごわだ。
このぬいぐるみ、実は以前の彼女から付き合っていた当時もらったものだ。
その彼女と別れた後、今の妻と知り合って付き合うようになり、結婚して今に至っている。家の中には結婚前に妻にプレゼントとして贈ったものがまだけっこう健在で残っている。でももし、結婚せず途中で別れてしまっていたとしたら、これらのものたちはその後どうなっていたのであろうか。
雛鳥のぬいぐるみは、ある時ふと前の彼女が「かわいかったから」という理由で買って、自分のところに持ってきてくれたものだ。特に鳥が好きなわけでもぬいぐるみを集めていたわけでもなかったが、確かに愛らしかったし小さいものだったので、そのまま本棚のところに置いた。
その後、彼女の心は自分から離れ、彼女に関するものの多くは捨てられたり奥深くにしまわれたりした。だがこの鳥はそのまま本棚に居続けた。昔のことなので確かなことは自分でももうよくわからない。たぶん、心が通わなくなり始めたころにもらったものなのであまりそこに「思い」が感じられなかったせいかもしれない。また、たとえぬいぐるみとはいえ生き物の姿をしているものを捨てるのに忍びなかったのかもしれない。彼女からもらったものはほかにも若干残っているので、単に未練たらしかっただけなのかもしれないが。
この鳥は幾多の引っ越しを経ても常に自分の書棚の片隅にいた。そこに彼女に対する思いが全くなかったといえば噓になるだろうが、捨てるきっかけもなく、引っ越しの荷造りの際にはちょうど本を詰めた段ボールの隙間に収まるサイズで、その段ボールを開いて本を並べる際にそのままこの雛も本棚に並ぶ、ということをどちらかといえば機械的に繰り返してきた。
今の家に引っ越した時、本棚を置いた場所の近くに小さな窓があった。
荷ほどきをして本を並べている途中、このぬいぐるみが出てきたときにふと思った。こいつも、代り映えのしないおっさんの寝室をずっと眺めているより外の景色が見たいのではなかろうか。よちよちの雛鳥には本来不可能な行為だが、季節には渡り鳥がV字の編隊を作って飛ぶ姿が見られるまちである。作り物でも仲間の姿が見たいのじゃないかと。
そこで、ちょっとした気まぐれから窓から外でも見ているような格好でそこに置いてみた。30年物なので紫外線は相当なダメージだろうが、今更だろう。そしてそのまましばらく何年も意識から消えていた。それがきょうふとそいつの後ろ姿が目に入って、突然まるで「自分は今、なぜここにひとりいるんだろう」と考えているように思えた。
彼女が当時、なぜそのぬいぐるみを自分に贈ろうと思ったのか、今となってはもうわからない。わざわざプレゼントと称するほどの品物ではなかったし、特にプレゼントを買うべきタイミングでもなかった。なんとなく、何か欠落みたいなものを感じ、それを少しでも埋めようとして無意識に行ったのかもしれない。薄れてきていたとはいえ、何らかの愛情表現として渡され、それが結ばれないまま取り残された一羽。
この子を贈ってくれた相手はその後別な男性と結婚したらしく、今どこにいるのかも自分にはわからない。ただ何となく、この小鳥もその女性を窓からぼんやりと探しているように見えなくもない。
この子にもすまないことをしたように思うが、30年以上たって今さらこのぬいぐるみを捨てることはさらに忍びない。そしてこの鳥が前の彼女からもらったものであることを妻に言うつもりは今のところない。