<第一章 黄金時代(少年期総論)>
<黄金時代>
「子供は子供だったころ、木に向かって槍を投げた。大人になった今も、その槍はまだ揺れている」
ギュンター・グラス
『ベルリン天使の詩』より
子供のころ、僕はガキ大将だった。配下は小学校高学年が、5、6人いただろうか、ごく小さな遊び集団だった。
ガキ大将といっても「ドラえもん」に出てくるジャイアンのように、力で支配していたわけではない。
独裁者のように、力では人を支配できても、仲間をついてこさせることはできない。
僕がやっていたことは、今日一日、メンバーたちにどんな遊びを提供し、楽しませることができるか、ということだ。
群れを率いるリーダーとして、エンターティナーに徹したのだ。
これから語る話は、昭和三十年代後半から、四十年代前半にかけてのものである。
子供時代について語る前に、僕がどんな所で生まれ育ったかについて、説明させてもらいたい。
僕は、昭和32年(1957年)1月17日に、横浜で生まれた。
正式な住所は、横浜市南区新川町一丁目一番地だ。
この一丁目一番地というのは、子供心にも自慢だった。
南区というのは、横浜の中心部に位置するが、特になにも名所などはない。運河ばかりに囲まれた土地だ。
新川町というのも、町と名乗るのも憚(はば)かられるような小さな町で、市電の走る大通りから、1本入った裏通りで、その一本道を挟んで向き合った家並みが新川町なのだ。
町というより、ストリートと言った方がいい。
ちなみに、隣と隣の町内に挟まれた狭い所は、200メートルほどしかなかっただろう。その裏通り沿いに家が並び、別の市電通りを越えて七丁目まである細長い町だった。
一丁目から七丁目まで、子供の足で歩いても三十分ほどだろう。
そんな細長い小さな町がその辺りには櫛のように並んでいた。
新川町は、いわゆる花柳界だった。表通りから、ひっそりと隠れた横浜の奥座敷という感じの町だった。
隣の二葉町も含めて、料亭も十軒近くあったのではないか。
派手なネオンなど無く、夜になると近所の料亭から、芸者の弾く三味線の音が静かに聴こえてきた。
ここは「浜の日本橋」と呼ばれ、大正のはじめごろに出来たらしい。
かの文豪山本周五郎も遊びに来ていたという。友人の親戚などは、富岡から船に乗って遊びにきたという。
一度友達の親がやっている「末広」という料亭の中を見させてもらったことがある。我が家のすぐ斜め前のお店だ。
客を迎える本来の玄関からではなく、脇の出入口から入ると、帳場をはさんで広い調理場があった。割烹をうたっており、板前さんが活気よく鰻を割いたりしていた。
廊下はピカピカに磨いてあった。印象的だったのは、階段脇の薄暗がりに立派な木製の電話ボックスがあったことだ。落とした照明といい、大人の世界を感じた。
幅広い階段を登ると、大広間になっており、いったい何十畳あったのか。優に三十人以上の席は設けられたかと思う。
玄関脇には、庭の眺められる小さな洒落た座敷があり、芸者さんと差し向かいですごす秘密の場所のような気がした。
そのころの横浜というのは、あちこちの町内に小さな商店街があり、それらが緩やかに繋がりあっているという街だった。
その親分が伊勢佐木町だった。当時は、横浜の中心地といえば伊勢佐木町だったのだ。
伊勢佐木町は一丁目から七丁目まであり、有隣堂や不二家、松坂屋デパートなどがある一丁目が一番賑やかだった。
七丁目から一丁目までは、子供の足で歩いて二時間ほどかかっただろうか。
途中五丁目辺りに「へびや」という店があり、ショーウィンドウには、さまざまなヘビがホルマリン漬けになって飾られており、異様な雰囲気だった。そこの前を通るときは、目をそらしたものだ。
横浜というと、みな港や山下公園、中華街、外人墓地、元町などをイメージするようだが、それらは四キロ四方くらいのほんの一角に固まっており、横浜全体の1%程度の面積の場所にすぎない。そこへはなにか親戚が来たりや祝い事があると行くくらいで、地元の人間はほとんど行くことはなかった。
昔の横浜は、市電の走っている範囲を中心とした、こじんまりとした街だった。
都会ではあるが、都市ではなかった。高い建物もデパートくらいのものだった。
市民の足はもっぱら市電だった。
桜木町を中心に四方に広がっていた。東の外れは本牧三渓園。西は保土ヶ谷。南は杉田まで伸びていた。北行きは、六角橋行きと生麦行きがあった。
京浜急行電鉄が横浜を縦に貫くように走っていたが、子供にはほとんど縁がなく、年に何回か電車に乗って横浜高島屋に連れていってもらうのが、なによりのハレの日だった。
デパートで子供が先を争って目指すのは三ケ所だ。
まずなんと言ってもオモチャ売り場。買ってもらえなくても眺めているだけでいい。
その後は、大食堂で食事。小学校低学年のころは、お子様ランチを食べていたが、そのうち飽きたらなくなると、ハンバーグステーキやカツカレー、デザートにチョコレートパフェなどを頼むようになった。
食堂からは、当時西口を走っていたトロリーバスが見えた。また、高架にホームのあった東急電車のピカピカのステンレス車両も目立っていた。
最後に目指すのは、デパートの屋上だ。その頃のデパートの屋上はミニ遊園地のようになっており、色々遊ぶことができた。
ペンギンもいて、買ったエサをあげることができた。
あと、印象に残っているのは、電動式のおみくじで、お金を入れると、巫女さんの人形が、奥のお宮に入って行き、御神籤を抱えて出てくるものだ。一連の動作に何か神秘性を感じた。
横浜駅西口の商店街の入り口に、自動でドーナツを揚げる機械が見物できるようになっており、子供たちはみな虜になって見続けた。
高島屋の隣は相鉄ビルで、屋上がやはり遊園地のようになっていた。連絡通路で高島屋と繋がっていた。
地下にはゲームセンターがあった。子供のとき、妻もそこで遊んだというから、もしかすると会っていたかも知れない。
お気に入りは、潜水艦ゲームだった。潜望鏡をのぞいて、沖を通る戦艦をねらって魚雷を発射する。見事に当たれば赤い炎を吹いて、戦艦は沈没する。それが快感だった。
新川町にも、商店街があった。吉野町から二葉町までの、一本道の両側に点々と商店があった。
吉野町の市電通りに面して、「浜の日本橋」と書かれたアーチがあった。子供心に、本当の日本橋の二番煎じなんだなと情けなかった。
それをくぐると、右手に果物屋がありそこではアイスも売っていた。箱入りのパイナップルアイスなんてものがあった。冷凍パイナップルそのものの見かけと味だった。。その隣は寿司屋。さらに写真館があった。写真館のショウ
ウインドには、近所の人と思われる人物写真が何枚かかざってあった。
腰にガンベルトを巻いて、ローン・レンジャーを気取って、早打ちする写真をってもらったものだ。
左側には電器店。碁会所。雑貨と化粧品を扱っている店。四つ角は、前に話した「末広」という料亭。その向かいは和菓子屋で、よく買いに行かされた。夏になって水羊羹が出てくると嬉しかった。
料亭の先は蕎麦屋。蕎麦屋の向かいは酒屋で、薄暗い通路で、
酒や醤油の計り売りをしていた。空き瓶を持って、酢かなにかを買った記憶がある。
その隣はパン屋。入り口入ると小さなショーウィンドウがあった。やはり、裸電球だけで店は薄暗かった。昔の店というのは薄暗いものだったのだ。
頼むと食パンをスライスして、ジャムやマーガリンを塗ってくれた。お気に入りのパンは、富士山型の中にピーナツバターが入っているものだった。
変わり種では、シュウマイパンというものがあった。コッペパンにキャベツをひいて、そこにシュウマイを3.4個はさんだものだ。そこにソースではなく、醤油と辛子がかかっているのが良かった。
角に「大雅」という中華料理店があった。ここのチャーハンはおいしかったが、タンメンだけが麺が平打ち麺で、口の中がモサモサしてちょっとイヤだった。いまなら、たぶんおいしいと感じると思う。きっとそういうこだわりのある店だったのだ。
そこから向こうは二葉町で、ガラス屋、自転車屋、お菓子屋があった、
二葉町の1本路地に入った所には銭湯があり、和風建築の温泉宿を思わせるような堂々たる構えの店だった。
新川町の二丁目には豆屋があり、ここの自家製のバターピーは最高だった。
二丁目の先の角を左に曲がると「幸亭」という洋食屋があり、ラードで揚げたロースカツレツがお気に入りだった。めったに食べられない御馳走だった。花街だったせいか、おいしい寿司屋とか食べ物屋があったと思う。
前にも言ったように、僕の家は一丁目にあった。一丁目にはほとんど店屋はなかった。
僕の家の前は「住川産婦人科医」という病院だった。僕はそこで産まれた。生粋の新川町っ子というわけだ。斜め向かいは自動車解体業で、店の裏手には廃車が山のように積まれた廃車置き場があって、迷路のようになっていて、格好の遊び場だった。
その先にはゴミ屋さんがあった。ビン、缶、金属、紙類様々なゴミが集められていた。当時ゴミ拾いの人がいて、「グズい~お払い」と特有の口上で、背中に竹籠を背負い、大きな竹製の紙鋏で道端の紙くずなどのゴミを拾って歩いていた。家にも来て古新聞などを買いとっていた。ただの紙屑がはたして売れたのかどうかはなはだ疑問だが、そういう人たちがこのゴミ屋にゴミを持って集まってきていた。
一丁目の突き当たりは、国道16号線で、その向こうは運河だった。16号線を渡ると、交番と小さな公園があった。市電の「阪東橋」の停留場の真ん前だ。
公園には水道があり、そのため時々水上生活者の船が留まっていた。水上生活者とは、船の中で生活している人たちだ。つまり、船が家なのである。当時はそういうダルマ船が、あちこちの運河に留まっていた。
一度そこの子供と仲良くなり、船の中に案内してもらったことがある。
中はけっこう広く、船の中とは思えない普通の茶の間の作りで、コタツがおいてあった。
お母さんらしき人に、氷砂糖をお湯で溶いたものをだされた。
その子と仲良くなる前に、その船はどこかへ行ってしまった。
一丁目の外れは、まだ戦後が残っているような場所で、ニワトリを放し飼いにしている家があったり、スラムのようなアパートもあった。子供が近づける雰囲気ではなかった。
まだまだ貧困家庭があちこちにあった。日本自体が発展途上だった。
僕の家は釣具屋だった。「オリエンタル釣具店」といった。だから、僕は当時人気の「オリエンタルマースカレー」のルーを愛用していた。
問屋だが、小売りもしていた。問屋だから安く仕入れて安く売る、今でいうディスカウントショップの先取りだ。
そのためけっこう店は流行っていた。夜は客で立垂の余地もないくらいだった。
母親は商売上手で、接客も人気だった。これぞというときには、思いきってオマケしていた。男性客は、母親目当てで来ている印象もあった。
それにくらべ、父親は愛想もなく、ケチで商売下手だった。客は父を敬遠したに違いない。
店には活き餌も売っていた。ゴカイ、イワイソメ、赤虫など。そんな日持ちしないものを置いていたほど、売れていたということなのだろう。珍しい物としては、クジラのヒゲ(正しくはシロナガスクジラのヒゲのような歯)、孔雀の羽なども売っていた。浮きや疑似餌に使うらしかった。
父は小男で、寡黙、愛情表現の苦手な男だった。父から受けた唯一記憶にあるスキンシップとは、ヒゲソリ前のアゴ髭で、僕の頬をゴシゴシするというものだった。
父は浅草の花川戸の生まれという。父の母はお姫様育ちで、派手で金使いが荒かったという、やがて金を使い果たし、誰かの囲い者にでもなったのではあるまいか。
父の父親の話は一切聞いたことがない。推測だが、母子家庭だったのではないか。
父の名前は享(とおる)といった。
関口の家は代々仙台にあり、本家は伊達家の家老をしていたという。それを聞いてから僕は日本史に興味を持つようになった。
母親は、当時の女性としては背が高く、男性的で気っぷがよくサバサバしていた。父とはいわゆる蚤の夫婦だった。
母は、旧姓小原(おはら)といい、コウという片仮名の名前だった。山形県の左沢(あてらざわ)で生まれだという。七歳のときに寒河江(さがえ)に引っ越した。七人兄弟の五番目だった。
学校を出て、山形の看護学校にかよった。
看護学校を出た後は、寒河江の外科病院に勤務し、23、4才で上京し、東京の国際病院に勤めた。
当時としてはかなり晩婚だったと思うが29歳のとき、お見合いで父と結婚した。その後二、三年九州の佐世保で釣具屋をやり、その後横浜に出てきた。
父は酒好きだった。ウイスキーを水で割ってのんでいた。酔いが回ると、決まってラーゲリ(ロシア語で収容所のこと)時代の話になった。
父親は終戦後二年間、シベリアに抑留されていたのだ。色んな話を聞かされたと思うが、印象的なのは、冬にツンドラの硬く凍った氷の層を、ツルハシで掘っていき、ようやく氷の層を破って土が出てくると、ゴーッと間欠泉のように水蒸気が噴出する、という話だ。
父に車で、埋め立てられる前の、金沢八景や金沢文庫に連れていってもらったことがある。釣り船屋などに品物を卸しに行っていたのだ。
金沢文庫の海沿いの、小柴漁港はトンネルを抜けたところにあった。そこは別世界だった。
弓形の海に貧しいあばら家が立ち並び、木造の船が浜を埋めている。こんな僻地が横浜にあったんだ、と驚いた。歩いている人たちも日本人ではないように感じた。どこか遠くの異国の地に連れて来られた気がした。そこは、当時の日本のどこよりも、片田舎な場所のように思えた。
日曜日の朝、まだ早くから外から聞こえてくる子供らの歓声で、飛び起きる。
あわてて着替えて、まだ寝ている両親を横目に見て外へ飛び出す。大人はなんで寝坊するんだろう、どんなにか楽しい一日が待っているというのに、と心のなかで軽蔑しながら。
路上では、もう何人かの子供がふざけあっている。さあ、今日は何をして遊ぼうか。考えただけで、胸がワクワクしてくる。
ガキ大将だった僕が決めなければならない。メンバーを一日飽きさせずに楽しませなければならない。
外で遊ぶときは、缶けりやドロジュンをすることが多かった。
缶けりはスリリングな遊びだ。ルールは簡単で鬼を一人決め、鬼は誰かに缶を蹴られないように守らねばならない。
そして隠れている誰かをみつけたら、「○○君見っけ。」と叫んで缶を踏む。すると見つかった者は、牢屋につながれる。見つかった者が増えていくと、手をつないで、鎖のように並んでいく。全員を捕まえたら、鬼の勝ちだ。
一方隠れている者たちは、鬼の隙をついて缶を蹴ろうとする。缶を蹴ることができれば、捕まっていた人質たちは全員解放される。
この遊びで一番肝心なのは、缶をどこへ置くかということだ。当たり前だが、見通しの良い広場などに缶を置いたら、誰も蹴ることはできない。ある程度鬼から見通しの悪い場所を選ぶ必要がある。
缶を置く場所を僕は、釣具屋の斜め前にした。電信柱があって捕虜を繋ぐのに好都合だったし、すぐの所に露地があったからだ。商店街の通りまでは三十メートルくらいか。商店街の反対の運河方向は、見通しがよく見つかりやすかった。
缶けりというものは、その地形にもよるが、攻撃側の方(つまり缶を蹴る方)が圧倒的に不利なのだ。鬼が缶の近くを離れようとしなければ、攻撃側は自分から突撃していくしかない。するとあっという間に見つかり、名前を呼ばれて缶を踏まれてしまう。
露地から突撃するのが距離的には一番近いのだが、露地は狭く、隠れるところもないので、鬼に覗かれたらすぐ見つかってしまう。
みな、それぞれの隠れ場所にひそんで鬼をひたすら観察し、缶から遠くに離れる奇跡的なチャンスを狙うしかない。合図を決めてみなで一斉に突入するという作戦もあるが、何を合図にするかが難しい。
ある時、僕以外の者がみな捕虜になって、攻撃側は僕一人になってしまったことがある。五、六人の仲間が電信柱から繋がって助けを求めている。一番端の仲間の手にタッチすれば全員を解放することができる。
それは絶好の機会だった。露地からジリジリ近づいていると、ふと鬼が缶から離れたのだ。露地から全力で走りだし、しまった、という鬼の顔をチラッと見て、缶を思いっきり蹴飛ばした。
捕まっていた捕虜たちが一斉に歓声を上げて逃げ出した。
ドロジュンという遊びもよくやった。ドロジュンとは、泥棒巡査の略で、場所によってはドロケイ(泥棒警察の略)ともいっていた。
これは、缶けりに比べると、のんびりしたもので、グループを二つに分け、泥棒側はただひたすら逃げ、巡査側はそれを追いかけ、捕まえて十数えると捕虜に出来た。捕虜は電信柱に繋がれ、その手をタッチすれば解放されるというのは、缶けりと同じだ。
逃げられる範囲はあらかじめ決めておく。狭すぎるとすぐ捕まってしまうし、広すぎると終わらなくなってしまう。
僕たちが決めていた範囲は、吉野町一丁目、新川町一丁目、二葉町一丁目一帯辺りくらいだった。歩いて一周すると一時間ぐらいか。
ドロジュンは逃げるほうが有利だった。いくらでも隠れ場所があったからだ。逃げるのも三、四人で、追うのも三、四人なので、とても包囲網などはできはしない。
例えばアパートの二階の廊下とか、家の塀の内側でしゃがんでいるとかすれば、まず見つかることはない。
ある時すごい隠れ場所を発見した。二葉町にあった運送会社の前に 、大きな三角柱の看板があり、その中に入って、足を挙げると、外からは決して見えなくなるのだ。そこに仲間たちと入って、半日くらい時間をつぶしたことがある。追う奴らには、良い気味だと思いながら、ひたすら雑談にふけった。一体何を話していたんだろう。身を隠しているというひそかな快感もあり、それは至福の時間だった。