<狼煙をあげよ>(これは2002年か2003年に書かれたものです)


<狼煙をあげよ>

 先日、クリニックに客人が訪れた。新宿に拠点を持ち、ホームレスを支援している「スープの会」の代表である後藤浩二さんだ。 

 さっそく後藤さんにホームレスの人たちに関わるには、どのようにすればいいのかとたずねてみた。後藤さんによれば、そんなに特別なこと、たとえばお金を上げるとか、食べ物をあげるとかそういう風に無理に力まなくてもいいのだという。 

 それを聞いてほっとした。私も街角でホームレスの姿を見たとき、一体どうすればいいのかいつも途方にくれていたのだ。 

 後藤さんによれば、さりげなく声をかけることからはじまるという。そう、あわててその場でどう救おうかなどと焦らなくてもいいというのだ。 

 ホームレスの人たちの大部分が、高度経済成長期を支えてきたおじさんたちだ。今はもう社会から用済みとされ、住むところも追われてやむなく路上生活をしている。一人一人は、体がどんなにボロボロになっても、それでも働かなければ自分の存在価値はないと信じているまっとうな人たちだ。 

 なかにはフーテンの寅さんみたいな人たちもいる。むかしは道路工事の現場をうら若き女性などが通ると「よう、ねいちゃん」などと、さかんにお声がかかったものだった。いささか言葉は乱暴だが、ラテン系の乗りというのか。 

 いま私どものクリニック界隈で、ある本(ネイティブ・アメリカンの研究では第一人者である北山耕平さんが編纂された、ネイティブたちのことわざをあつめた『月に映すあなたの一日』という本)を使って、その人の今年のキーワードをみつけるという遊びがひそかにはやっている。これがけっこう当たるのだ。 

 さっそく後藤さんにもやってみるとこんな卦が出た(といってもうらないではありません)。これはモホーク族のことわざという。

忘れるなかれ

汝の子供らは汝のものではなく

創造主より汝に貸し出されたものであることを

 いろいろに解釈できるだろうが、後藤さんがホームレス支援の活動にたずさわっていることを考えると、ここでの「子供ら」とはホームレスの人たちとも読みとることができるかも知れない。 

 また後藤さんの話によると、元ひきこもりの人たちがこの活動に加わりはじめていて、彼らはそこでしだいに周囲のみんなに頼られるような、確かな存在感を持つようになってきているという。 

 後藤さんと酒をくみかわしながら、もしかするとモームレス支援とひきこもりの人たちとはある種そこに通底するものがあるのではないか、昔(かつての全共闘)風のいい方をすると共に「連帯する」ことができるのではないか、というような話で盛り上がった。 

 後藤さんもかつては、そのたおやかな印象からはとても想像できないが、左翼の元闘士だったらしい。 

 余談だがネイティブ・アメリカンの人々に「神」という概念はなかったという。ここで「創造主」となっているのもは、たぶんラコタ族(白人たちからはスー族と呼ばれていた)ならば、「ワカン・タンカ」と呼んでいるものの訳ではないかと思われる。 

 「ワカン・タンカ」とは彼らの言葉で「大いなる神秘」とでも訳されるものだ。後藤さんにはホームレスやひきこもりの人たちを見守っていくという役割が、大いなる神秘から与えられているのかもしれない。 

 仕事がら、私はひきこもりから出てきたばかりの人たちにじかに会うチャンスがある。そして彼らの個人的な体験談に耳を傾けていていつも感じることは、誤解を恐れずにいうと、彼らの話はあまりに面白くて、聞いていて私はいつもワクワクしてしまうということだ。 

 たしかに豊かな現代社会の中で、とても深刻で、ともすれば悲惨なともいえる内容かもしれない。しかし、その話は確かに一人一人違うのだが、それは普通に生きているだけでは誰も体験しえないような希有(けう)な経験であり、聞く人を深く感動させずにはおかない迫力がある。 

 たとえば私は、私がかつて読んできたさまざまな遭難記とつい引き比べてしまうことがある。私はひそかな遭難記愛好家なのだ。 

 吹雪の冬山での遭難。荒れ狂う嵐の海での遭難。 

 ありとあらゆる生存手段を用いて、ちっぽけな人間がその知恵のすべてを働かせ、生き延びるために過酷な自然と対決する。その背中のすぐ隣り合わせに、私たちがすっかり忘れてしまった「死」が、そびえ立っている。 

 これは遭難記ではないが、ネイティブ・アメリカンのたぶんおそらく最後の伝統的なシャーマンについての報告が残されている。 

 その内容はにわかには信じられないものなのだが、シャーマンになるために課せられた、南米の死の砂漠での、火すら持たない北極圏での、一人の人類の過酷なサバイバルの姿が描かれている。その最後のシャーマンであるグランドファーザーの最後の唯一の弟子に選ばれたものは、なんと白人の少年だった。 

 彼(トム・ブラウン・ジュニア)はいまや成長し、世界各地でネイティブ・アメリカン直伝の、奇跡のサバイバル技術を教える学校を開催している。日本にもその学校がある。今は絶版となってしまったようだが、その克明な記録を描いた『グランドファーザー』という本が翻訳で出ている。 

 そうひきこもりの人たち、彼らはサバイバー(サバイバルから奇跡的に生還してきたものたちのこと)なのだ。 

 彼らは都会のど真ん中で、しかも家族とはわずか壁ひとつ隔てただけの空間で、孤立し、たった一人必死に生き延びようとしている。 

 知らぬものたちは、それをいまだに「なまけだ」「甘えだ」などと脳天気にいっているが、でもそれはアイガー北壁の切り立つ断崖のただ中で、目も開けられぬ風雪に打たれ、もはや上昇することも下降することもままならず、死を賭して緊急にビバークするものたちと、一体なにが異なるのというのだろうか。 

 こういう人たちが、この私たちの社会のなかに姿もみえず、その声も届くことなしに、数十万人の単位で、ひっそりと孤独なサバイバルを今日も行っている。 

 時が満ちて、彼らはその状況を生き抜き独力で帰還してくる。そうして私たちの前にその元気な姿をみせてくれる。これはなにより喜ばしく、祝福すべきことなのではないだろうか。 

 そうして彼らは待っていた仲間たちに、まるで古くからの友人のように温かく迎え入れられる。その出会いの姿は、私にある自伝の一節を思い出さてくれる。 

 イギリスに住むアスペルガー症候群の一人であるドナ・ウィリアムスは、彼女の自伝である『続・自閉症だった私へ』(新潮文庫)の中でこう書いている。 

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  いますぐ、引きこもり状況から出なくてもいい。仲間たちと無理に連帯しなくてもいい。いまはただ生き延びることだ。 

だが、私たちはいつまでも待っている。あなたたちがいつの日にかここへ帰還してくることを。ここには仲間たちがあなたを待っている。 

ただ生きている証(あかし)を伝えて欲しい。 

都会のまっただ中で遭難し孤立しているものたちよ。今こそ狼煙(のろし)を上げよ。

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