<第二章 黄金時代(少年期総論)>


僕は一人っ子だった。僕の名前の宏は、父の名がトオルなので、父が通った道を広げる、という意味でつけたという。
だから、遊び相手は、近所の仲間か小学校の同級生かだった。僕は関東学院という私立の小学校に通っていた。
入学試験を受ける前に、受験塾みたいな所に通ったのを覚えている。そんなものが当時からあったのだ。部屋の中に、いくつか物が置かれており、どういう順番で持ってくるか、などの試験を受けた。重いものは最後に、というのが正解らしい。
私立の学校だけあって、いい家の子供が多かった。釣具屋の子なんて家庭の経済力からすれば、下の方だった。でもそれにコンプレックスを持つことはなかったし、差別されることもなかった。
学校では、校庭があるので、「しゅうみ」という遊びをやったりした。
それは集団でやる遊びで、まず鬼を一人決める。
その鬼に少しでも触られた者も鬼になり、鬼どうし手をつなぐ。そして鬼に触られた者はさらに手をつなぐ。鬼が四人になると、二人づつ二組に別れる。そうしてどんどん鬼の数が増えていく。
ニ、三十人くらいの人数でやったと思うが、運良く逃げ延びて最後の一人になったときの「恍惚と不安」といったらなかった。
学校の同級生と近所の遊び仲間とは、全然違うものだった。同級生とは対等な関係だがどこか他人。遊び仲間は年齢もバラバラだが家族のような緊密なものだった。

ガキ大将だったころ、配下にただのキャラメルをあげて、これをなめると足が早くなるぞ、とけしかけたりした。そしてそいつを走らせて「すっごく早くなった」と驚く振りをした。
後年僕は精神科医になったが、やったことは同じようなものかも知れない。これを飲むと元気になりますよ、と患者さんに薬を出したわけだ。
別に精神科医や製薬会社を馬鹿にするつもりはない。プラセボ効果というが、ただのウドン粉の固まりのような偽薬を飲ませても、精神科の薬などでは六割くらいの人が良くなってしまうことがあったりする。人間の不思議さだ。
遊びの話に戻そう。我々はしばしばちょっと離れた町まで遠征した。
一番多く行ったのは、歩いて三十分くらいの所にある睦町の公園だった。
その遠征路の途中に、運河にかかった橋があり、その橋に鉄製の半円形のアーチがかかっていた。高さ三、四メートルくらいで、アーチの幅は四、五十センチくらいか。
それを歩いて渡ったことがある。ゆっくりゆっくり一歩づつ登っていったが、左側に落ちれば、国道十六号線で、車がビュンビュン走っている。命懸けだった。やっと渡りきった時、大きな安堵のため息をついたことだろう。
なぜそこへ通ったかというと、その公園には防空壕があったからだ。そこは子供にとってはじつに魅力的な場所だった。中は真っ暗闇で、灯りが無ければ、お互いの顔さえわからない。

防空壕の入口は崖の途中にあり、そこまでハシゴがかかっていた。ハシゴを登って入口から中へ入ると、天井は大人の背くらいの高さがあった。洞窟の幅はけっこう広く、三メートルくらいはあった。
しばらく真っ直ぐな洞窟が六、七メートルくらいは続いていた。しかしローソクの仄かな灯りではゆっくり進むしかなく、闇の奥は見えないため、もっと長くあるように感じた。
油断していると、膝まである水溜まりの穴に落ちたりした。
突き当たりで、道は二つに別れた。それをたどっていくと、右手は家の裏庭の塀、左手は廃車置場の崖の途中に出て、どちらからも出られなかった。
洞窟の中には、三畳くらいの広さの部屋もあった。壁にはたぶん灯りを置くためのくぼみがあった。とにかくその防空壕に行くのは非日常的な体験だった。
あとは横浜橋商店街の近くの駄菓子屋に行った。その店は、奥が座敷になっており、鉄板があってもんじゃ焼きができるようになっていた。
薄い小麦粉を溶いたものが、どんぶり一杯五円だった。卵を持ち込むことが出来た。
小麦粉を溶いた液を鉄板で焼いて、色が白くなったところをヘラですくって、ウスターソースにつけて食べた。
全く見知らぬ子供と同席して、お互い流した小麦粉の汁がくっついたりしたのを切りはがしたりするのも楽しかった。ただ、違う町内の子とは口を聞くことはなかった。なぜかそれが不文律だったのだ。

銀玉鉄砲の出現は衝撃的だった。
それまでは火薬を使った巻き玉の鉄砲しかなかった。音しかしなかったのだ。
それが、音だけでなく弾が出て相手を撃てるものが出てきたのだ。
それは子供の遊びを一変させた。日本中の子供らが、あちこちで銀玉鉄砲の撃ち合いをやりはじめた。
残り玉が少なくなると、どちらかがタイムをかけて、あわてて落ちてる銀玉を拾いあった。
あるとき、いつもの家の斜め前の自動車解体会社のスクラップ置き場で、二手に別れて銀玉鉄砲の打ち合いをした。当然ガキ大将のいる僕のチームは正義の味方で、相手チームは悪の組織だ。
お互い物陰に隠れながら、撃ち合っているので、そう簡単には当たらない。だいたい安物のオモチャだけあって、命中頻度がものすごく低い。接戦が続いていた。
その時油断して流れ弾に当たってしまった。
「当たった」と大声で宣言して、僕は地面に倒れた。ヒーローであるのに、みんなの期待を裏切って死んでいく。そのシチュエーションは、思わぬマゾヒスティックな快感で僕の背筋をつらぬいた。
そのとき見上げた空は、どこまでも澄んだ深い青空だった。
僕はあの青空を一生忘れないだろう。

雨の日や、そうでもなくてもよく家遊びをした。
近所で小学生の同級生だった野上君の家では、よくレゴでロボットを作って、ぶつけ合い、どちらが強いか争った。
野上君の家は、雑貨関係の貿易商をしているようで、家の中はあちこちに外国の物産が転がっていた。その異国の物のなかで、不気味だったのは玄関の正面に掛かっていた迦楼羅(迦楼羅カルラとは、インド神話の神鳥ガルダを起源にして、後に仏教の守護神となる。顔には鳥のように口ばしがある)のお面が恐くてまともに見られなかった。
何人かでやったゲームで一番はまっていたのは、アメリカ製の「モノポリー」を真似して作った「バンカース」というゲームだった。
あちこちの町(例えば銀座や日本橋など)の土地を買って、サイコロでそこに止まったプレイヤーから宿泊代を取って、資産を増やしていくというものだ。
カラーグループを揃えると、あっという間に勝負がつくモノポリーとは違い、かなかな勝負がつかず、ちんたらといつまでもやっていた。その間の伸びた感じにまた味があった。雨に降りこめられた梅雨の頃には持ってこいの遊びだったといえる。
一人遊びもよくやっていた。僕がよくやっていたのは、戦国シュミレーションゲームの先駆けのようなことだ。
油粘土で、小さな丸型人種と、細長方の人種を作って戦わせた。もちろんルールなどはない。僕の思うがまま、戦って負けた方は、爪で潰された。

何の飾りもないただの足軽と、階級が上がる毎にだんだん色々な飾りがついた。大名には、兜の前立てのようなものを付けた。
伊達政宗には、三日月方の前立てとか。
テーブルより大きいケント紙に、大きな日本地図を描いてかつての国に分け、そこに粘土人形の軍団を置いて、陣取りをさせた。
もちろんシナリオは自作自演だ。そうやって延々と半日は遊んでいられた。
小学校五年生のころだろうか。酒ブタを集めるのが流行った。相手の酒ブタをおはじきのように、はじいて机から落とすと自分のものになるのだ。
幸い近所にゴミ屋さんがあり、店の脇には、日本酒の空き瓶が山積みになっており、こっそりとその山に登って、片っ端からビンのフタをいただいた。
同じ種類のフタも多かったが、一つしかない貴重なものもあり、当然お宝度は増した。おはじきのように相手をはじいて、机から落とす、お互い秘蔵のフタをかけての戦いは本当に真剣勝負だった。
あるとき見つけた「賀茂鶴」の厚さ二センチはあるフタに、家の店で売っている鉛の錘を溶かして入れて固めたことがある。重くどっしりして普通の酒ブタは簡単に弾き返された。
だが、とうとう一勝もできなかった。なぜなら誰も相手になってくれなかったからだ。

ごっこ遊びもよくやった。ただ、テレビドラマの「月光仮面」や「少年ジェット」などは、ヒーローが一人しかおらず、集団でやるには向いてなかった。
そこに登場したのが「忍者部隊月光」だった。
現代を舞台として、忍者軍団が悪の組織と戦うというものだ。ヘルメットをかぶり、革ジャンを着て、背中に日本刀を背負っているというスタイルが格好よかった。
ピストルも持っているが、決して使わない。あくまで忍術で戦うのだ。「月光」とは隊長のコードネームで、ほかに「三日月」「名月」「月影」などのコードネームがあった。
忍者部隊月光ごっこなら、一人一人に役割を振れて、集団でも遊ぶことができた。
独特の合図の仕方や、左手を膝にぴったりとつけ、右手だけを振って走る走り方。高い所から飛び降りて着地するときの独特のかがむような姿勢。みんな真似ていた。
ごっこ遊びで問題になるのは、適当に手を抜いて自分の役割に徹せず、だらだらと演じることだ。刀で切られても、倒れずまたすぐに復活してきたりする。
こういうおふざけを、僕たちは「ウソンキ」といった。適当に遊びたいときは「ウソンキでやろう」と言い合った。
しかし、真剣にやりたい時やだらけた雰囲気を引き締めたいときは、リーダーである僕が「ホンキンでやろう」と宣言した。
するとそれは魔法の呪文のような効果があり、みなはそれぞれの役を真剣に演じはじめるのだ。

外でアバレ回るのだけが、遊びではなかった。家で一人静かに物語を読むことももうひとつの大切な楽しみだった。
子供の頃に物語を読む体験は、大人になってから読書するのとは全然質が違う違うものだ。
人生であれほど静かに没入し、熱中したことはなかった。阿片を吸うより快楽だったのではないか。
時を忘れ、自分自身と過ごすもっとも濃密な時間だった。物語を読み終えると、頬が静かな興奮に染まっていたはずだ。
当時、読んでいたもので印象に残っているのは、いわゆるジュブナイル(少年少女を対象とした物語)といわれるもので、ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」「海底二万哩」、あとケストナーの「エーミールと探偵たち」、「デビットの秘密の旅」、「クオーレ」、「山の上の火」、「小公女」、「秘密の花園」、「怪盗ルパンシリーズ」、「千夜一夜物語」の中のとりわけシンドバッドの冒険などなど。せっかく命からがら金持ちになって帰ってこれたのに、なぜまた命を懸けた冒険に出るのか?それはもはや「シンドバッド症候群」という病気だ。
とりわけ僕が熱中したのは、英国人のアーサー・ランサムの書いた「ツバメ号とアマゾン号」シリーズだった。
ウォーカー家の四人兄弟は、小さな帆船「ツバメ号」に乗り、子供たちだけで、夏休みに夏の湖の上を自由に走り回る。時に岸に上がって探検したり、無人島でキャンプをしたり。
そこに挑戦してきたのが、「アマゾン海賊」を名乗るナンシイとペギイ姉妹。両者は互いに競争したり、助けあったりして、一夏を存分に楽しむ。
子供たちだけで自由にヨットをあやつり冒険する、というのがすごくうらやましかった。自由の象徴に思えた。

アーサー・ランサム全集は全部で十二巻あった。ハードカバーで箱入りだった。
母にねだって、月に一巻づつ買いに、伊勢佐木町の有隣堂まで連れていってもらった。
有隣堂までは歩いて、二時間かけて行っていた。新しい巻を買ってもらうのはもちろん嬉しかったが、昼食を有隣堂の地下のレストランで食べるか、近くの不二家のレストランで食べるかが大問題だった。
有隣堂の地下のレストランは洒落た雰囲気で、本を抱えた人があちこちにいた。
有隣堂のレストランでは、まずスープを頼んだ。トマト味のスープが当時は珍しくそれが頼みたかったのだ。だが、スープの名前が覚えられなくて、それがイタリアンスープだったのか、インディアンスープだったのかいつも迷うのだった。
それで、インディアンスープの方を頼むとカレー味のスープが出てきて心底がっかりするのだった。
不二家のレストランもゴージャスだった。店の奥がレストランになっており、店側から奥のレストランに入るときに、エアカーテンのようなものをくぐり抜けるのだが、一歩中に入ると生クリームとカスタードクリームの混ざったようなこの世のものではないような、天上的な香りに包まれた。
なにを食べたかは定かではないが、いつもなぜかプリン・ア・ラ・モードを注文したような気がする。
帰り道は、本の重さを手に感じながら、早く読みたくてわくわくして帰った。

子供のころ、僕はなにを食べていたのか。家が商売をしていたので、母も手のかかるものは作らなかった。
おかずで多かったのは、メザシ、アジの開き、塩鮭(あまりに塩辛くて食べると目の前が真っ青になった)の三拍子だった。それはウチだけではなく、どこの庶民の家でもそうだったのではないか。
初期のころの「サザエさん」を見ると、ちゃぶ台の上にあるのは、ご飯と味噌汁、それにメザシらしい皿、あとお新香が乗っているくらいだ。油っ気がないので、洗いものも洗剤など使わず、タワシでチャチャと水洗いするだけだった。
あと、ご飯のお供といえば、桃屋の「カツオの塩辛」(まだ売っていたんですね。友人から送ってもらいましたが、これが信じられぬくらい塩辛い。箸の先にちょっとつけただけでご飯一口食べられる。こんなもので当時の日本人は、ご飯を大量に食べていたんだな。)や「江戸むらさき(ごはんですよの前身)」、「のりたま」などのフリカケなども大いにご飯が進むものだった。永谷園のお茶漬けの素も活躍した。
栄養バランスも糞もなかった。当時の日本人は貧しいおかずで、ご飯を食いまくったのだった。それで立派に成長した。
みなさんは、マヨネーズご飯、バターご飯をやらなかったですか。熱いご飯にマヨネーズをかける、あるいなバターを乗っけて、醤油をかけて食べる。この禁断な背徳的な感じが良かった。
カレーライスは御馳走だった。今日はカレーライスだと思うと授業中からわくわくしたものだ。
肉は、鶏と豚が主で、牛肉はほとんど拝むことはできなかった。ビフテキ(ビーフステーキのことを昔はこう呼んだ)は、鰻と共に特権階級の食べるものだった。
その代わり鯨はよく食べた。鯨肉を生姜を効かせたタレに漬け込んで焼いたものをよく食べた。父親は、酒のツマミによく鯨ベーコンを辛子醤油で食べていた。僕は父の酒の肴のご相伴にいつもあずかっていた。その頃から、酒のおツマミの類いは大好物だった。

母の手料理で印象的だったのは、夏になると出てくる「だし」と「水漬け」だった。どちらも母の出身地である山形で食べられていたものだ。「だし」は今ではスーパーでも売られるもうになったが、やはり手作りが一番だ。
「だし」の作り方はいたってシンプルだ。新鮮なナスとキュウリと茗荷があればいい。出来れば前もって水で冷やしておく。
あとは、その三者をひたすら賽の目に刻んでいく。それを混ぜ合わせたものに、ただ醤油をかけ、熱いご飯の上に乗せてたべるだけ。
そんな野菜だけを刻んだモノが旨かろうはずはない、とお感じになるに違いない。ところがこれらの野菜が、なんともいえない味のハーモニーを奏でてくれて、どんなに食欲がないときでも、ご飯をおかわりするほどおいしいのだ。嘘だと思うのなら、ぜひ試してもらいたい。
肝心なのは、賽の目に刻む、大きさにある。細かすぎると、野菜から水分が出てしまいびちょびちょの食感になってしまう。
大きすぎると、口の中で野菜がゴロゴロして味わいのへったくれもなくなる。2、3ミリ角の大きさがちょうどよい。
「水漬け」は、これも夏の暑い盛りに、よくたべた。冷飯を水で洗いヌメリを落とすだけ。そこになるべく冷えた水をかけて、お茶漬けのようにサラサラと食べる。おかずは茄子の古漬けときまっていた。
この爽快感も他に無かった。
春先に出された独活の味噌汁も、強烈な印象があった。

お正月には、数の子入りの「浸し豆」がでた。
浸し豆は、青大豆の干したやつを、一晩水で戻し、枝豆とかわらぬ歯触りになったものを、昆布と鰹で上品な出汁を取り、それにつけておく。最後に数の子を多めに入れる。それで完成だ。
これがあるといくらでも酒が飲める。もちろん日本酒だ。いつかこれをシャンパンでやったら、ひどい目にあった。とにかく口の中がひどく生臭くなる。日本酒の包容力をあらためて感じさせてもらった。
お雑煮は、今母から妻にうけつがれているが、山形の雑煮で、東京のお澄ましのように上品なものではない。
鶏肉で出汁を取って、ささいだニンジンとゴボウをいれる。具はそれだけだが、最後に大量の三葉と芹を載せる。香りだしに、柚子を一切れいれる。
この、三葉と芹が春を感じさせてとてもゴージャスで、大好きなお雑煮だ。

昔のオヤツというと、おせんべいだの、安っぽい和菓子だの、たまに買ってもらえるケーキとかしかなかった。
僕の子供時代にファンファーレつきで登場して、今も続いて人気のあるお菓子が三つある。
まずは1964(S34)年、僕が小2登場ときに発売されたカルビーの「カッパエビセン」だ。
「止められない、止まらない」というCMソングの通り、食べはじめるととまらなくなった。もてろんピーナッツだって食べはじめると止まらなくなったが、大量生産のお菓子でそんなものが出たのははじめてで、かなりセンセーショナルなことだった。
次は、1965(S40)年、僕が小三の時だ。「日清のココナッツサブレ」が登場する。これは驚異的に美味しかったし、子供の小遣いで買えたバターの香りがする洋菓子風味の先駆けとなった。
第三段としては、1967(S42)年の「森永のチョコフレーク」。それが小五のときだ。コーンフレークにチョコをかけただけのものだが、ツィギー(イギリスのモデル。痩せた体とミニスカートを日本に紹介した)のCMと共に、一躍子供たちの熱中の的となった。
この三つが、日本のお菓子革命の先駆者だった。それからさまざまなお菓子が考案され、コンビニの棚には多種多様なお菓子が並ぶようになった。

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