恋は凍れる呪いなのだ

2年ぶりにパソコンを開いた


 21,560円。小倉駅から東京駅までの新幹線代は意外と安い。今だから安く感じるのかもしれないし、人生を変える必要経費として当時も安かったのかもしれない。16歳から17歳になる年に私は東京に出てきた。早稲田大学を休学しながらAVに出たり風俗をしたりして稼いだ金のほとんどをホストに使う私の人生は果たして良い方向に変わったのか。文章にしながら考えてみることにする。
 東京に住み始めてもうすぐ6年になる。スマホの充電をよく忘れて電車の中で0パーになることが多くて、そういうときは大抵路線図をぼーっと眺めていたおかげで半蔵門線と丸の内線が完璧に頭に入ってしまった。編入先の高校は大都会、港区にあった。「港区女子」なんてワードは当時はなかったと思う。私がその世界と無縁過ぎて知らなかっただけかもしれないけど。今ではペラペラの胸元の空いた服を着て西麻布の会員制バーで冗談みたいに濃いハイボールを飲んだり、コンラッド東京の窓際でレインボーブリッジを眺めながら立ちバックをされたり、立派な港区女子になった。あまりにも虚しいので故郷にいた幼少期まで時を戻そう。

ママに怒られてみたかった


 幼稚園を卒園する頃には父親だった男は家に全く帰ってこなくなった。そのころから母親は兄に暴力を振るうようになった。兄は昔、母親似できれいな顔をしていて、私は彼女には全く似ていない、通天閣のビリケンさんにそっくりのロリガキだった。母が兄をぶったり兄に物を投げているのを見て、お兄ちゃんが悪いことするのがいけないんだと思っていた。だってママ、泣いていたから。「いう事を聞かないお兄ちゃんが悪いんだよ、ママは悪くないよ」私がそう言って母の手に触ろうとしたら、「気持ち悪い」とだけ言ってこっちも向かずに母は私の手をものすごい力で振り払ってきた。母親が愛していたのは兄だった。兄は小学校でいじめられて学校にあまり行かなくなって、成績も悪く、スポーツもできなくて、毎日母に嫌味を言われ、少しでも言い返したらテレビのリモコンで殴られていた。私は自分でいうのもなんだけれど、本当に何でもそこそこにできた。兄の反面教師だけで育った個体みたいだった。高校生になるまで100点じゃない答案用紙なんて片手に収まるくらいしか目にしていないし、特別運動神経がいいわけでもないけれど運動会では選抜リレーで走ったりもしていた。だけどそれらすべてを母親に褒められたことは一度もなかった。これ見よがしに食卓の上に花丸だらけの紙切れを飾ってみたりしたけれど、いつも私のランドセルの上に彼らは返ってきた。褒めてって口に出して目の前まで持っていけばよかったのかな。たまに兄が家事をすると母は私に向けたこともないような笑顔で兄の頭を撫でていた。ママ、昨日の夜も一昨日の夜も○○ちゃんが洗い物したんだよ。言えなかったな。完全に私は蚊帳の外だった。ベースがマイナスの人間がたまに生み出すプラスは甘い蜜だ。ホストに依存してしまう心理は完全にコレだと思う。そんな私も母の気を引こうとして万引きをしたことが一度だけある。初めて犯した犯罪だ。残念ながら(?)完全犯罪になってしまった。器用だったというより、バレるようにやる度胸すら当時に私にはなかったのだと思う。私はそのころの反動なのか、今ではどう考えてもバレるだろというタイミングで男と同棲する家に違う男を連れ込むモンスターになってしまった(これについてはのちに話します)。つまりここから何が分かるかと言うと、小さいころに大人から怒られる経験はするべきということだ。何をして何をしなかったら大人に怒られるのかを常に先回りして考えて叱られることを回避し続けた子どもは、怒られたがりの歪んだかまってちゃん(大迷惑)アダルトに大成長を遂げる。セカオワは説教するってぶっちゃけ快楽と歌っているけれど、実際は説教されるほうがドーパミン出る。私だけなのかな。怒るという心身ともに体力を使う行為を私だけに向けてしてもらえることがたまらない。だがこの思考のせいでたくさんの人を傷つけて彼らを失ってきたので、最近は一緒にいる相手を大事にできる人間になれるように過去最大級の努力をしているつもりだけどうまくできてるかは分からない。サルベージ、昔話に戻る。

北九州にヤクザはいま…s


 中学二年生の夏休みに兄が家を出ていった。一生部屋にこもってニコ廚ライフを続けるのかと思っていたので驚いた。彼は21,560円をどうやって捻出したのだろうか。バイトとかしてたのかな。東京に住む学歴廚の父方の叔父(再登場します)にお世話になるといって中古のシンセサイザーと中古のMacbookを持って出て行ってしまった。現在彼は立派な父親をしながらDJ活動をしている。まあたまにお金貸してとか言ってくるけど。兄が出て行って、母親は完全に狂ってしまった。私の存在なんて彼女にとっては必要でも不要でもなく、言葉の通りの無関心。旦那の次は兄に裏切られたと彼女は幾つもの晩を泣いて明かし、そして彼女もまた出て行った。出て行ったという表現は事実とは少し異なるのだが、つまり彼女は兄と私の母親でいることを卒業した。この辺の記憶は辛さに耐えきれなかったのか曖昧になってしまっている。
 ほどなくして私は今は亡き祖母の住む小倉の家に引っ越した。おかげさまで憧れのセーラー服を着れることになった。おばあちゃんは書道の先生をしていて、とても穏やかな人で、本当に大好きだった。おばあちゃんのおかげで字がきれいになって、育ちがいい女っぽく装えているので本当に感謝している。この頃に父親と10年ぶりに再会する。父はずんぐりむっくりした細い目の大男だった。そう、私のビリケンフェイスの根源はこいつだったのだ。ふざけるな!父は私に、お母さんそっくりやなあ、と言った。母には「あの人そっくり」(片親あるあるすぎる台詞)とよく言われていたので驚いた。 だけれど、多少なりともアップデートもして22歳になっても私はビリケン様そっくりだ。いつかの担当と大阪旅行に行った際に本物と並ばされて爆笑された。小倉の中学校では部活も入らず友達もあまりできなかったので毎日学校の図書館で読書か勉強だけしていた。おかげでなんの苦労もなく公立の(自称)進学校に進学した。
 高校の制服は青春を大きく左右すると思うが、最強にダサかった。この頃は遅れた中二病が私を襲って、狂ったみたいにあさのいにおを読み漁り、最果タヒに心酔し、銀杏BOYZを爆音で聴きながら昼ご飯を食べていた。銀杏BOYZの「援助交際」に出てくる「あの子」に憧れてしまって博多まで出てパンツを売った。最強にキモイ青春の1ページだ。パンツ数枚じゃヴィトンもブルガリもグッチもエルメスetc…なんにも買えないことを知った。そういうJKビジネス的なことをしている仲間に誘われておじさんと3Pをした。ここ数年も3Pの案件で毎月かなり稼いでいるので、星ひとみはきっと私から3Pの星を見つけるだろう。当時の彼氏の永井君はおじさん、しかも3Pに先を越されていたことを知ったら性癖が歪んでしまうんだろうな。そういうことをして買った憧れのmerryjennyのお洋服を着ていてもおばあちゃんには古着にしか見えなかったようで、変に疑われることもなく「かわいいわねえ」とほほ笑んでいた。ごめんねおばあちゃん。

泣き虫のほうが泣かない人より強い


 高2のGWの少し前にそんなおばあちゃんが亡くなった。春休みに飼っていた大型犬の散歩中に転んで念のために病院に連れて行った時にはもうかなり危なくて、脳梗塞は怖い病気だと学んだ。おばあちゃんが亡くなっていよいよ私は人生がどうでもよくなった。そもそもおばあちゃんに私を育てる義務なんてなかったので、このころには少し落ち着いてた母親のもとに戻ることを親戚には勧められたけれど私は断った。母親と同じ屋根の下にいても私は一人に変わりない。だから、家庭裁判所で母親の親権を停止してもらい、ビリケン様に再び父親になってもらい、兄がお世話になっていた父方の叔父の家、つまり憧れの大東京に私も住むことにした。この頃には兄はもうそこを出ていたし、叔父は普段海外で仕事をしていたので実質一人暮らしの始まりだ。この叔父はかなりの学歴廚だったので、私に都内のこれまた(自称)進学校への編入を勧めてきた。舐めてかかった編入試験が想像以上に難しかったので本気でオワタと思っていたが、人生の運をここで使い果たすことで某新海誠の映画のモデルともいわれる高校に編入することができた。東京ライフ、スタート。

電波塔すら東京タワーに見えた


 編入先の高校は、アオハライドとかストロボエッジとかザ・青春漫画を実写化したみたいな環境だった。全員が嘘みたいにキラキラしていた。制服も普段は着なくてよくて、校則はないと言ってもいいほど緩い。こいつら本当に頭いいんか?と疑いたくなるくらい派手な髪の毛の人が男女関わらずゴロゴロいて、特にダンス部の人たちは全員が世界の主人公みたいなビジュアルとメンタルだった。北九州からでてきたビリケン芋JKが馴染めるわけがないと思いきや、そいつらはなんと性格までよかった。賢くて豊かな家庭で育ってきた人は、他者を受け入れることに抵抗がないとここで学ぶ。あまりにも全員が幸せそうな世界だった。同級生はみんな就活を終えて卒論を書いたりしている頃だろう。AVなんかに出てるのもホストに狂っているのも確実に私だけだろう。パンツを売ったことがある人なんて一人もいなかった、はず。私なりの必死のおしゃれをしながら時たまおかしなイントネーションになりながら東京の高校に馴染もうとしている私はみんなからどう見えてたのかな。朝の5時から8時まで近所のセブンイレブンでバイトして、8時半を少し過ぎる頃にギリギリアウトの登校をして、授業中はいつも爆睡していた。金曜日と土曜日は歌舞伎町の夜のケーキ屋さんの近くのコンカフェで働いた。絶妙に馴染めない高校生活から離れた時間が欲しかった。

昼でもできる夜の仕事

 Twitterでテキトーに見つけた高校生の子も働いていそうなコンカフェに面接に行った。ナンバー1の子はTikTokで有名なみなみちゃんにそっくりで、高校は行ってないと言っていた。ナンバー2は抜群にお顔がかわいい巨漢だった。内装に工夫なんてなくて今思えばあんなのはただの女の子がメイド服を着ているガルバだ。18歳未満のキャストはカウンター内、18歳以上はソファー席で接客してもいいというガバガバすぎるルール。そんなんだから、風営法に引っかかってコロナ渦が過ぎたころに摘発されて潰れてたな。昼間に出勤していたからお客さんなんてほとんど来なくて、店下でホス狂の先輩コンカフェ嬢とずっとくっちゃべっていた記憶しかない。私もホスクラに通うようになって分かったけれど彼女もソープとか掛け持ちしていたんだと思う。うちの店の時給は1,130円だったから。彼女の話を聞いてもホスクラに行きたいとは思わなかった。担当といって見せてくれた男性は全く格好良くなかったし、私が当時メロついていたラグビー部のOくんのほうがガタイもよくてかっこいいと思った。現在の担当がヒョロガリなのを当時の私が知ったらおったまげるだろうな。やる気もなかったし同級生にバレたくなかったからSNSもしていなかったので当然指名のお客さんなんてぜんぜんできなくて、たまに先輩を指名している気色悪いハゲの山中さんにキャスドリをもらえてもこんな大人になりたくないなーとしか思わなかった。だから半年も経たないうちに飛んで(この頃から飛ぶ習性が己に備わっていたことが恐ろしい)金土もメイドさんではなく緑の制服を着ることにした。シュタゲのまゆしぃみたいに秋葉原でメイドさんしてるJKになれば楽しかったかな。

家庭環境からは生涯逃れられない

 高3から文理が分かれる都合で、高2の秋になると進路のことを考えなきゃいけなかった。自称進なのでね。奨学金で苦労したくなかったので、国立に進学しようと決意。今思えば身の丈に合っていなさすぎる京都の大学の総合人間学部を第一志望にした。第二志望は大阪大学の社会科学部。後の第一志望となる。国立を第一志望にしていると問題となるのが抑えの私大だ。早く完全に自立したくて浪人はしたくなかったので最悪の場合私大で人生逆転するしかなかった。ここで叔父の学歴廚が大活躍した。彼は学生運動期の早稲田に感銘を受けて早稲田を受けるも失敗した特大コンプレックスの塊で、早稲田に行くなら入学金までは出すとなぜか私の後見人でもないのに言い始めた。今何時?!リベンジ!!ということだね。姪に雪辱を晴らして欲しかったらしい。私も早稲田は蹴る気満々で第一回共通テストまでただひたすらに勉強した。コロナのおかげで登校しなくてもよくなって、バイトのシフトもなかなか入れなくなって、受験勉強には最高の環境だった。夜職業界は本当に大変な期間だったって元担みんな言ってたな。詳しく書いても面白いものではないので割愛します。早稲田大学への進学と莫大な奨学金とともに過ごす将来が決定した。

親ガチャより友人ガチャ

 自分の高校から早稲田に進学する人は毎年30人以上いるので、入学式は顔見知りだらけだった。ただ同じ学部に仲のいい女の子はいなくて、ほぼ0からの友達作りクエストが課せられた。最初にできた友達で大学生活はわりと決定する気がする。私にできた最初の友達は最高。今でも仲良くしてくれていて仕事のこともホストのことも全部知ったうえで仲良くしてくれている。こんな人間はもう出会えないと思う。ただ彼女は早稲田の附属校出身で、芋づる式に仲良くなった子も全員附属から来た子だった。つまり、お金持ちの家の子なのだ。親ガチャ大成功しているのだ。片親なんて一人もいなかった。医者の息子だったり地主の娘だったり、バイトなんて「いつ始めようかな楽しみだな」みたいな感覚らしい。結局2年になってもバイトしていない子もいた。実家が都内にあるのに一人暮らししていたり、海外留学を当たり前のように人生のプランに組み込んでいたり。私は確実に場違いだった。もうその時には朝キャバで時給3,500円の女だったから。歌舞伎町にこんなどっぷり浸かってしまっているのは大学で「上の世界」を見てしまったからだと思う。傷を舐め合える人は歌舞伎町にしかいない。

待機室でオンライン授業を受ける

 先ほども述べたように当時の私は水商売では時給3,500円しか出なかった。毎日出勤するのは難しかったし、自分がブスなのも分かっていた。面接に行った銀座バッドガールズで時給2,000円と言われた瞬間に風俗をしようと思った。全休と土日は川崎の学園系で12時間待機、学校終わりにウルトラ系列デリで6時間待機の毎日が始まった。今の私からすればゴミみたいな稼ぎだけど、当時の私は日払いで一日に何万円も貰える風俗は天国みたいだった。マタニティハイじゃないけど風俗にもそういうのあるの、分かってくれる人いませんか?客がキモイとかそんなの関係ないくらい手元にあるお金がどんどん増えていくのに脳汁が出まくって、風俗最高!状態だった。数か月ハイになりながらがんばっていたら、4年分の学費分なんてあっという間に貯まった。そのころは同じバンドが好きなことをきっかけに仲良くなった普通の大学生をしている好きでたまらない人がいたので、ホスクラに行くことなんて頭の隅にもなかった。大学の友達と話を合わせるためにデリをやめて新宿南口のちょっとおしゃれな居酒屋でバイトすることにした。それが運の尽きだった。

自称メン地下はすぐホストになる

 バイト先にやけに派手な格好をした無駄にイケメンな先輩がいた。メン地下として活動しながらそれだけでは食べていけないから、と社員の人よりも居酒屋に鬼出勤していた。その先輩とシフトが被ることが多くて、そこそこ仲良くなって、飲み会に誘われた。大学でサークルに入っていなかったので飲み会に行ったことが無くて、飲み会に憧れまくっていた私は二つ返事でOKした。その飲み会は、化粧をした襟足の長いメンズがたくさんいて、女の子も何人かいたな。彼らは知名度ほぼ0のメン地下だった。その時私は例の好きピとぜんぜんうまくいっておらず、やけくそで飲酒しまくったのち、そこにいたたれ目のメンズとLINEを交換して帰宅した。今でこそ金にならない男性との交流は絶対NOだけれど、無知極まりなくまだ恋愛において若かった私は(地下)アイドルと交流を持っていることに完全に浮かれていた。彼と何回か会って、だけど交際の話になることはなくて、人生初のセフレ状態だった。きめぇ~そいつとは数回会ってから若干気まずくなって、連絡もあまりとらなくなった。存在すら忘れかけていたころに、土曜の18時過ぎに急にそいつから電話が来た。新宿にいるから会おうよ、と言われた。私は早番でソープ出勤していて、退勤してドケチなので川崎駅に向かって歩いてた時だった。明日も出勤だけどまあいいかーと思いいつもとは違い品川で乗り換えて新宿へ向かった。ここでまあいいかーとなるのが本当に若いし男に飢えてたんかな私。キモイよ18歳私。そして新宿駅東口で彼と落ち合った。

意外と普通の男の子

 「おひさー俺今ホストしててさ」彼の第一声。予想外の展開。居酒屋にいくつもりだったので腹ペコだった。「良かったら一時間だけでいいから店来てくれない?同伴の子に飛ばれちゃって」今なら分かる。完全にコイツは私のことを舐めている。だけど私は舐め甲斐のあるやつだったと思う。一度股を開いた時点で男はこちらを下に見る生き物だと18歳の私に強く言い聞かせたい。興味がないわけではなかった。当時の在籍の待機室にでっかい張り紙があった。『ホストの話禁止』。みんな行ってるんだし一回くらい人生経験だよねと都合のいい言い訳を自分にして、私は生まれて初めてホストクラブに入店した。店内を歩くホストたちを眺めながらやっぱりそんなにイケメンだらけじゃないんだ、と知ってはいたけれどがっかりした。私の担当(笑)がいちばんかっこいいくらいだとも思った。音響もうるさいし未成年だからお酒も飲めないし、何が楽しくてみんな通ってるんだろうと思っていると、一人のホストがヘルプに来た。物腰の柔らかい本当に「普通の男の子」という感じの人だった。新人同士で私の担当と仲がいいと言って、少し話して彼が抜けた。その後も担当はあまり隣にいないまま何人かヘルプがついて、1時間でいいよと言われていたので1時間経ちそうなのに気づいて帰ります!とヘルプに言ってお会計を出してもらった。2万円もしなくてびっくりした。今思えば変に単価上げもしない良い担当だったのかも。まあハマったりはしないかなと思いながら帰宅。だけどなんとなく他のホスクラも気になって、さっき教えてもらった”ホスホス”を開いてほかの店も見たりした。

誰でもよかったしどうでもよかった

 自称メン地下なんかとセフレになったりホスクラデビューしてしまったりしながらも、私はちょっと前に出てきた某好きピのことが結局好きだった。キモイなー。好きならおかしなことするなよと今なら強く思います。でも「そういう時期だった」で済まされるなら済ませたい。本担が好きでたまらないのに初回に行って結局リピートもしない男に浮ついて飲み直しをしまくる地獄みたいな時期ものちに来ますから。ホストはさておき、好きピと上手くいかない原因は確実に風俗をしていることにあったと思う。本当のことを言っても引かれるのは分かっていたし、だけど本当のことも言えない彼との距離感は縮まらないままだった。そのころ私の風俗ハイはとっくに去っていて、仕事がしんどくてたまらなくて、当欠祭り。だけどやめる選択肢は出てこなくて、お金はあればあるほどいいし母親みたいになりたくないからもっとお金を貯めて大学院まで行こうと思って、重い足取りで土日は堀之内に通い続けた。居酒屋のバイトは童貞みたいなツラした(多分童貞に違いない)先輩がストーカー化してやめた。出勤すればするほどどんどん擦れていって、本当にかわいげがなくなってしまった。客との記憶を上書きしたくてついに好きピにも股を開いてしまった。はいもう付き合えません!好きピともセフレになってしまったのだ。それでもよかった。彼はずっと優しくていつもこちらの欲しい言葉をくれる人だった。沼男だね。ホスト向いてますよ君。だけどやっぱり付き合えなくて、気が狂った私はある日自分の生い立ちから何から何までを全部彼に話してしまった。気持ち悪かったと思う。ドン引いたと思う。彼の反応を見るのが怖くて顔も見ないまま池袋のラブホテルを飛び出して、足は歌舞伎町に向かっていた。誰かに話を聞いて欲しかった。LINEのトーク履歴からあれから全く連絡を取っていなかった担当(笑)を探してLINEしたけど既読にならなくて、よく分からないまま彼の店に向かった。キャッシャーで○○くんいますか、と聞くとあれからすぐ辞めたと告げられた。初回でもう一度入店しますか?と聞かれて初回すらその時はよく分かっていなかったけれどもうどうでもいいやと思い入店した。写真指もいらないですと言って何人かが初回についたあと、あの時の「普通の男の子」が隣に来た。どことなく好きピに似ている気がして、投げやりな気持ちで指名に切り替えてもらった。今から魔法でメン地下の彼をノーカンにしますね。私の初代担当は、髪も黒くてゆっくり喋るアニメが好きな「普通の男の子」でした。

 
 今回はここまでにします。悲劇のヒロインぶった文章になってしまっていないかとても不安なのですが、私の滑稽な人生を笑い飛ばしてほしいです。皆さんの暇つぶしになれていたらいいなと思います。タイトルは大好きな文藝天国の『エア・ブラスト』から一番好きなフレーズを拝借しました。良ければ聴いてみてください。本格的なホス狂ライフが始まったあとのほうが書き甲斐があるので、歴代担当たちとの思い出に浸りながら頑張って書いてみようと思います。また更新します!

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