味噌汁って何味?
「これって何スープ?」
口から離したお椀を持ったまま三十路の二男が聞いてきた。
「え?お味噌汁だけど?」
台所で茶碗にご飯をよそいながら答える私に
「ふーん」
と、二男。なぜそんなことを訊くのか。
木のお椀には「おだしの吸い物」か「お味噌汁」と決まっているじゃないか。今日は大根と油揚げの定番味噌汁。
「いつもの大根のお味噌汁じゃん、お味噌もだしも、いつもの。」
彼の斜め向かいに座って、私もお椀の中の吸い物をひと口。
そして思い出す。
味噌、入れてない…
「な?具の味が濃いよな?」
お椀を口につけたまま動きの止まっている私に、彼は素朴なコメントを続ける。
「大根って風味が強いんだな」
大根の旨味には気づいているのに、どうしてわからないんだろう。
味噌汁だと言われれば味噌の味が「する」か「しないか」二択じゃないのか?
二男は昆布と鳥ガラの出汁の違いが判らないという。
「東京には空がない」と智恵子が言えば無邪気で可愛らしいけど、おまえはただの味音痴だ。
そういえばチンゲン菜と春菊を間違えたりする。
これは味覚だけの問題でもないかも。
「人間性」と大枠で捉えれば息子はおおらかだと、ギリ言っていい。
でも、五感という機能的な視点ではこういう人を世間では「とんちんかん」と呼ぶ。
「あのヒトって、ちょっととんちんかんなところがあるのよねえ」
二男は天然な部類に入る感じが否めなくて、親の良く目で見ても彼を形容するのにしっくりきてしまう。
そういえば彼が小学生の頃、
「味噌汁って何味?」
と、聞いてきたことがあった。
あの時、もっとちゃんと
説明してやるべきだったのだろうか。
でも、味噌汁は「味噌の味」だよとしか言えなかった。
よそのお母さんならどう答えてやるのだろう?
味噌の入ってない味噌汁を気づかずに飲めるなら
このまま黙ってやり過ごそうか…
お椀の中の大根と油揚げをかき回しながら逡巡する私。
そんな私の動揺にも気づかず、味噌の入ってない味噌汁にそれ以上関心がないのか、納豆をこねくり回しながらTVに気を取られている二男。
私は息子と自分のお椀を持ってそそくさと台所へ。
「どうした?」
私の行動にまだピンと来てない二男。
「味噌、入れる。」
「やっぱ、薄いでな」
「違う。味噌は入ってない。」
「え? そうなんか?」
「ホントにわかんない?」
「薄味だなって思った」
小さい頃は1歳上の長男に手がかかりすぎて思うように相手にしてやれず、
二男がぐずって甘えてくるたびに
「待ってね」
「あとでね」
同じ言葉を幾度繰り返したか。
二男はいつも待っていた。
待ちくたびれていつの間にか眠っていた。
そうしてついにやっては来なかったたくさんの「あとで」
お喋りだった二男はだんだん無口になり、そのうち私を嫌いになった。20年近く、’不機嫌’が彼のコミュニケーションだった。
20代最後に私を嫌いだとはっきり言えて彼は自己を確立した。
「時間」は残酷だったり慈悲深かったりする。
後悔と贖罪を生きていくつもりの落第母に味覚音痴でキョトンとして三十路になった今でもあの頃のアルバムと同じ表情を垣間見せてくれる。
時の流れはいつか、こんなひとときをくれたりするんだな。
ありがたし。