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こうして母はウソをつく。
こちらの『Q&A』記事の『Q.10これから書く予定のネタは?』という問に愚息たね二郎がオキアミを語ったことでも書こうかと、その場しのぎに書きました。だってなぜか思い浮かんだんですもの。
『この前、たね二郎がオキアミのことを喋っていた』なんて、そこに何のテーマも深みもないし、まったくネタにできるハナシなんかじゃありません。ホントにお粗末なもの。
1ミリも面白いことを言っているつもりはないたね二郎を、私が陰(note)で人さまに哂してストレス解消にしているということです。
ららみぃたんさんの夫の愚痴話は共感があるけど、たね二郎の愚痴は誰の共感も得ないし、読んでくださる方に有益なものは一つもないです。
そ。たね二郎の話はつまらないのです。
でも、話の中身はともかく、楽しそうに話すものだからたいていは放置して眺めています(聞いているとは限らない)。
…と、たね二郎の『オキアミ話』、始まってます。
先日、めったに褒めないたね二郎が舞茸の天ぷらを「ウマい」と言った。
「ね♪ 舞茸の天ぷらおいしいよね」と私も踊る気持ちを「ね♪」に込めて返した。情緒を共有できれば余は満足である。苦しゅうないぞ。
だが、たね二郎は舞茸の天ぷらが「ちょっとイカの風味がしてウマい」と続けた。
キノコの天ぷらにイカ?
いや、イカなんて使ってないけど。と、答えるけれど「ぜったいイカの風味がする」「衣にイカが含まれている」とか、わけのわからないことをのたまう。
いやいや使ってないからと、言っても「イカの風味がする」と言い張る。油にイカの風味が移っていれば可能性はあるとまで言い切る。
いやいやいや、私がイカの天ぷらなんて作ったことないじゃない。「油はねがキライ」っていつも言っているでしょうに。
でも、それを持ちだしたところでああいえばこういうたね二郎が面倒で私は黙る。
言ってみたところで、それでもイカを主張するんだろうから言わせておく。
黙ることで「このお話はもうけっこうです」アピールする。
どうせたね二郎も私の沈黙アピールには気づきません。
どちらもいい年をして大人気ない親子です。
「オレ、今度オキアミ喰ってみようと思うんだよな」
案の定、黙る私にまったく気を留めることなく、たね二郎は喋る。
舞茸でもなく天ぷらでもなく、ましてイカでさえなく、ふいに『オキアミ』登場。
舞茸の天ぷらを食べながらオキアミの話が始まる。
たね二郎は幼少期から魚嫌い。
なのに、オキアミはエビ系だからいいのだとのたまう。
オキアミ? クジラの好物とか、釣りエサとかのイメージくらいしか浮かばない。エビなのかエビじゃないのかさえ、私は知らない。
それを見透かしてか、食用のヤツがあるだろといかにも物を知ったような目つきでたね二郎は私を見てくる。
鶏肉と豚肉の違いもわからないクセに…ドヤ顔を向けられるのが悔しい。
「オキアミって、スーパーで買えるかな」
オキアミなんて、わざわざ探して買い求めたことはない。よく知らないまま今日までこれたのは私に必要なかったからだ。だから私は答えない。
「オキアミ、鮮魚コーナーにある?」
「喰ったことある?オキアミ」
たね二郎はさらに聞いてくる。
「ある」
なぜだか口からウソが漏れ出た。するっと出た。これが便通だったらさぞかし快感だろうと思うくらい。
「え⁉ あるんだ」
「ある」
ウソが止まらない。
「ウマい?」
ウソだから味なんて知らない。
「臭いよ」
なのに応えてしまう。
「あぁ、やっぱり生臭みはあるんだ」
たね二郎は褒めることもしないが、疑うこともない。というか、疑うということを知らないかもしれない。
「どんな調理法で喰った?」
「やっぱり、あれよな、エビ系よな?」
オキアミが何なのか、よく知らないんだから聞かれても困る。なんで「ある」と口走ったんだろう。黙っていればよかったのに。
ウソつきました、ホントは喰ったことなんかないと今から訂正しようか。
「ってか、何で急にオキアミなの」
それなのに、なんでどうでもいい質問をしているんだろう。
ぜんぜん興味ないし、自分のウソでしんどいのに、オキアミを食べたくなった理由を教えてくれよとばかりに聞いている。オキアミ話に前傾姿勢みたいじゃないの。
YouTubeでよく見ているサバイバー系のチャンネルで、オキアミについて語られているのを観て、興味を持ったのだとオキアミ話に加速をつける。楽しそうに語り始めちゃった。
あぁ、興味ないわ~。
「で、オキアミは今のオレに不足している栄養価が補えるかなと思ったわけ」
希少なオキアミじゃなくても、一般的に流通する魚介系で摂取すればいいものを、たね二郎はどうしてもオキアミにこだわる。
「やっぱり、オキアミの臭みってオレのキライなカンジ?」
「コンビニで買えるかな、オキアミ」
もうオキアミはいいじゃないか。何回もオキアミって言うな。
「Amazonで買えば?」
私はまた要らんことを口走った気がした。
「オキアミを?」
「生のオキアミとか、Amazonで買えるんかな」
どうしよう。食べたことがないと言えない。
でも、この段階で言ったとて、なんでウソつくのかと糾弾してきそうでやっぱり言えない。
苦し紛れだったと白状しても、何でそんなしょうもないことでウソをついたのかの説明できない。だって理由なんてないんだもん。そういう流れってあるのだよ。場の雰囲気とか、勢いとかで言ってしまうこと、あるだろ?と。
何のためのその場しのぎかわからないけど。
たね二郎は「そんな理由はオレにはない」と、きっぱり言うだろうな。めんどくさい、もういい。またいつかの機会に「食べたことない」とサラリと言うことにしよう。
どんな機会で、いつその場面が来るのか知らないけれど。
…いつその場面が来るのか
胸からみぞおちの辺りにキュッと締めつけられるような痛みが走る。
しまった。また自ら地雷を踏んでしまった。
『いつその場面が来るのか』は、たね二郎には『永遠にこない場面』だった。
決してウソをつこうとしてついたのではない。でも永遠に来ないなら、それはやっぱりウソっていうんだよねぇ。
夢の中でたね二郎は今もなぜか小さいままだ。
一つ違いの長男、たね太郎はとても手のかかる子だった。
一方、二男たね二郎はおっとりのほほんとしていたので、育児ではさんざん後回しにしてしまっていた。
ミルクを欲しがって泣いていても、「よしよし、あとでね」と、おむつ外しのトレーニングで逃げ回るたね太郎と格闘した。おむつが汚れて泣いていても「待っててね、すぐ戻るからね」と、ベランダから勝手に外に飛び出てしまうたね太郎を追いかけた。
そうして戻ってみれば、たね二郎は泣き疲れて眠っていた。
「おかーさーん、見て見てー!」と何かをアピールしている声も兄のかんしゃくでかき消され、「ねーねーこれー!」と、服のすそを引っ張られても「うんうん、あとでね」と、目の離せない上の子が寝てる間にと、家事を済ませることに気を取られていた。
繰り返されて、そしてとうとう来なかった『あとで』をたね二郎はたくさん呑み込んだ。
そうしていつか口数は減って無口になり、常に何かに歯向かっている少年になっていた。
永遠に来なかった『あとで』は『嘘』に変わった。その数がどれくらいあるのかもうわからない。たぶん、たね二郎も。
何万回、たね二郎にウソをつきまくったのかという呵責が今も片隅にあって消えないのに、オキアミごときでウソをついて、私は何をやってんだろう。
三十路に着いたたね二郎が、息を吹き返したようにお喋りになったのは、『’あとで’負債』の返済のように思えたりする。
私が多忙な生活から解放された今だから、つまらない話をしに週に何度も帰って来るんだろ?『洗濯物が溜まったから』という大義名分で。
「それが洗濯機を買わない理由でしょ?」なんて聞いてみるつもりはないし、私はただ洗濯に勤しむけど。
でも、あと十年くらいしたら、かつての大滝秀治のように「おまえの話はつまらん!」と、ふいに叫んでやろうと目論んでいる。
それまではこのままたね二郎の話を眺めていようと思う。
そうすると、これもウソをついてることにカウントされるのかな?
終わる。