心の重荷を下し前向きにさせてくれるカウンセリングそして居場所
虐待、家庭崩壊、いじめそして障がいの先に見つけた小さな光
熱烈な恋愛結婚で生まれたわたし
幼稚園通園がはじまる前ですから5歳くらいでしょうか。その時には両親の関係はすでに冷えきっていたのではないでしょうか。幼心に親は仲が悪いと感じていました。
父親は自分の言い分が通らないと母を殴っていましたし、母はわたしをよく殴っていました。父親は茨城の片田舎の水飲み百姓の末っ子。母は豪農の長女。この育った環境の違いは、想像するに当時の日本だったら、そうとうなリスクを抱えての結婚生活だったでしょう。
実際母は口八丁の父の誘いに乗って、すべてを捨てて東京まで駆け落ちしたものの、すぐに父のねじれた性格に気づいて、結婚を後悔したようです。しかし時はすでに遅し。わたしを身ごもっていたので、すべてを呑み込むしかなかったと言っています。
母から繰り返し言われた一言「おまえのせいでわたしは不幸になった」
父からは「おまえは失敗作品だ」
そういわれてわたしは育ちました。
これも想像粋での話。今から半世紀以上前の日本で、女性が子持ちで生きていくことの困難さはきっと大きかったにちがいありません。だけどほんとに逃げ出すことはできなかったのでしょうか。もしかしたら今さらおめおめ実家へ帰れない、そのような気分だったのでしょうか。
母は父から受ける理不尽な仕打ちで、ストレスを相当ためていたことでしょう。当時は”夫婦喧嘩は痴話話、犬も食わぬ”と称されて、まったく世間的に相手にされないどころか、夫の暴力にじっと耐えるのが妻の鏡と言われていたらしいので、母はとてもつらかったと思います。
結果的に両親の離婚の直接的理由は父の不倫でした。わたしと10歳も離れていなギャルのような女性との間で子供ができたことが引き金となり、夫婦仲の悪さに拍車がかかったのです。
両親は熱烈な恋愛・かけおちの末東京に移り住むわけですが、1年あまりで東京生活を引き上げて父の故郷である茨城の水戸市へ引っ越しました。父が衝突事故で長期入院を余儀なくされたからです。父の姉すなわち叔母が身元引受人になってくれてましたが、この叔母がまたアクの強い人でして・・。わたしにはとてもやさしく母のように甘えられる存在だったのですけどね。
叔母のわたしへの癒着が異常だったので、両親は危機感をつのらせたのか、父の退院後新潟へ再び引っ越しました。このころから両親の関係は険悪になっていったのです。
父は退院後うつ状態に陥り、まったく働かなくなっていました。代わりに母が水商売をしながらわたしと父の生活をささえてくれました。
父は毎日釣り、ばくちと映画館通いにはまり、母の稼ぎを道楽につぎ込むようになりました。おおかた両親の喧嘩は生活費をめぐるものだったにちがいありません。
特性の強い父親の性格は、何不自由なく生きて来た母には理解しずらかったでしょう。さらに幼稚園へ通いだしたころから、わたしの特性の強さが目立ち始め、たびたび保育士から精神科受診を指摘されました。発達障害の兆候がこのあたりから現れ始めたのです。
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