ノンキャリ出世~19~ 再びの修行
天は人の上に人をつくらず、人の下にも人をつくらず、という。
しかし人は平等ではなく、なぜセレブとチーパーとの差が生まれるのだろう。
学問のススメという福沢諭吉の唱えは、だから学ばなければならず、学ぶことによって人はいくらでも上昇できると説く。
では、学ぶとはどういうことか。
わたしはそこに、知行合一を充てる。
知ることと行うことは合一であるという陽明学の教えは実践的で、かつ人の営みの上でごくナチュラルな学び方と思えた。
学ぶとは、机の上で参考書を片手に文字や数字を書き込むことではなく、身体を動かし、感覚をもって身体全体で得ること。
寝ることしか出来ない赤ん坊がやがて立ち、歩きだし、生活に欠かせぬ自然の動作となると、物心がついたときには考えるより以前に自然と手足を動かせるようになっている。
つまり、知識・教養・技術が考えるまでもなく無意識に披露できるようになるまで、何度でも繰り返し繰り返し実践していくことこそ真の学びと考える。それが知行合一という教えであった。
販売会社に就職し、まがりなりにも営業マンとして活動していたことと同じように、私は新たな職場となった親会社に転籍してからも、ゼロからのスタートとして毎日を同じ作業の繰り返しで仕事を感覚として覚えていった。
最初に与えられたミッションは装置の製造だった。どのように部品がどのように組み立てられ、どのように動作していくのか。それを自分の手で感じていく。
ネジ一本の締付が弱いだけで動作不良を起こす恐ろしさ。
1ミリ以下の数値で削りが甘い部品が組み合わせられないこと。
装置がバラバラの状態で知ることはたくさんあった。それは、完成品しか知らない市場側にいる人間にとっては驚きしか感じない事実だった。
ひととおりの装置組立をなぞると、待ってましたとばかりに調達部門に正式配属された。
販売会社にいたときの役職は営業所長だったが、メーカーに転籍したときは係長となっていた。
前例がないので迷ったそうだが、知らないヤツではないし、そもそも所長職にあった者を一般中途採用の平社員として転籍させるのもどうかと思いつつもメーカーの仕事としては素人同然なので責任が重すぎない係長程度でいいだろ? という私にとってはどうでもいい打診を受け入れたからだった。
「係長でいいだろ?」と、そんなん本人に決めさせるんかい! と言いたくなるような決め方。私がいまもって出世や役職に興味がないのは、もしかしたらこれがキッカケだったのかもしれない。
ひととおりの装置の、ひととおりの部品は目にしていたので調達業務はすぐにこなせるだろうと思っていた。
そして実際、退職された前任者が使用していた部品調達リストを使えば、難なく業務はこなせていった。
だが、二か月もすると簡単に支障が起きた。
おそらく千点は越える全部品を欠品なく揃える難しさの一旦は、80社ほどの下請け業者に漏れなく依頼することにある。
数か月先までの生産計画に基づいて部品ごとに異なる調達リードタイムを勘案し、適切な時期に注文書を発行する。
言葉にしてしまえば簡単なことだったが、これが非常に難しかった。かならず何かしらの欠品が出てきかねないのだ。調達リストや生産見込みをどれだけ見比べても、アレ? アレ? と確認漏れのあったことが、いざ欠品となった浮かんでくる。それも、ピッキング(生産タイミングに応じて、そのときに必要な部材を準備する)担当から「アレが足りません」とくる。
部品というのは、ひとつでも欠けてしまえば工程か止まってしまう。だからピッキング担当から声を掛けられるたびにビクビクするようになってきた。
不慣れなうちは上層部の手を借りて緊急手配をしてもらい、客先納期遅れは回避することが出来たが、やがてそういったフォローも自分で行うようになる必要があった。
次の難関は、ものづくりの知識だった。
完成品のことはよくわかっていた。
部品手配はリストを元に、型番や部品名を決められた下請けさんや商社に注文書を発行しさえすればいい。それはつまり、文字だけの世界。だから、それらがどのように作られるのかの知識を一切、擁していなかったのだ。
たとえば銀色の金物の部品がある。
この素材は鉄なのか、ステンレスなのか、あるいはアルミなのか。それさえわからない。さらにいえば、そのそれぞれの特性もわからない。
鉄は錆びるので表面処理(コーティング)をする。それとてメッキなのか塗装なのか。メッキであれば無電解ニッケルなのか三価クロメートなのか、いや、六価かもしれないなどなど。
とても深く、幅も広いものづくりの世界を少しずつ覚えていく必要があった。
もちろん、それだけではない。
装置は電機部品も使うので、メカ部品より難解なエレキの世界にも触れていく必要があった。
これらを知らなければ、本当の意味での調達業務は成し得ないのだ。
なぜなら、どの部品をどの業者に注文すればよいかの適切な判断が出来ないからだ。
これは、営業より難しく深い仕事だと思ったが、だからこそ楽しくも感じられた。
その由縁はもしかしたら営業マン時代末期の成功体験である、化学式を理解して売り込んだ謎の溶剤の販売実績をあげた経験からくるものなのかもしれなかった。
こういった仕事は、黙々と、あるいはエンジニアに相談することで自分の身になる仕事であったが、もうひとつ、相手のある仕事とも向き合っていかなければならなかった。
私にはたった一人しかいなかった部下が、一気に10人になったことによる、組織の構築という課題だった。
なぜ課題なのかというと、私は係長という役職でありながらも販売会社でいうところのエリアマネージャー的な、ふたつの異なる部門の長となっていたからだった。