子どもはわかってくれない(んだったら、大人もわかってあげない)。
最初に断っておくと、今から述べることは楽曲そのものに対する意見ではありません。これはあくまで「楽曲についての考察」に対する意見ですので、くれぐれも誤解の無いよう。
「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」を読んだ。文章の読みにくさについてはさておく。私はこのコラムにある違和感を感じた。(全文は以下のリンク参照のこと)
「ちっちゃな頃から優等生」。Aメロはこう始まる。そのあとには「ナイフの様な思考回路」とある。そう、ご明察の通り。1983年リリースのチェッカーズのデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」へのオマージュだ。いまの若者にとっては生まれる前の時代だから、当然この曲を知らない。だから部下や知り合いに若者がいるなら、
「うっせぇわ」は「ギザギザハートの子守唄」のオマージュなんだよ」
と教えてあげるといい。
「え、そうなんですね、知らなかったです!」
若者はさわやかな会釈とともにこう返すだろう。そして内心思うだろう。「うっせぇわ」と。
「うっせぇわ」を知っている年長世代の多くが、すでに上記のような行動をとってしまったあとではないかとも思う。この箇所の誘惑は強い。誰かに言いたくなっただろうし、オマージュだと気づいて、この曲を「わかった気」になった人もいただろう。まさにそのトラップによって、この曲は大人を大人として切り離す。
そんなベタなトラップに、そんなにも深遠な意味が込められていたのか。でもそのトラップ、あまりにもあからさまだったから、トラップとは思わなかったよ。
まあ、中には無邪気にそのトラップにはまる大人もいるのだろう。大人にもいろいろいるからね。(ちなみに、私自身はそういう「浅はかな大人」のふりをして若者に近づこうとする大人は大嫌いだ。)
そう、大人にもいろいろいるのだ。「多様性」だよ。多様性なんて別に現代人が発見しなくたって、大昔から空気とか水みたいにそこら中にあったんだよ。
私自身は、その部分のオマージュでこの曲のことを「わかった気」にはとてもなれない。それはとんだ不遜というものだ。
それどころか、若者は永遠にわかることのできない対象だと思っている。いや、むしろそう思っている大人の方が多いとすら考えている。
別の言い方をしよう。
若者は若者として生きているその短い日々で大人を見ている。
かたや大人は、大人になってから増える一方の日々で若者を見ている。
若者でいられる日々には限りがあり、時が過ぎれば燃え尽きるロウソクのように日々短くなっていくのに対し、大人になってからの日々というのは降り積もるホコリのごとくどんどんと積み重なっていく。
互いが互いをみている年月は圧倒的に大人の方が多いのは厳然たる事実で、観察期間が長いほうが、より観察対象を深く理解できる、はずだ。
そのはずなのに、今も昔も変わらず、かつて若者だった大人は、依然として若者のことを理解することはできない。
たとえば今の若者たちの親世代(あるいはそれよりちょっと若い世代)は、その昔「新人類」と言われた。
も一つ挙げようか。
今は亡き立川談志師匠がまだ若かりし頃、先輩芸人に向かって何か生意気な口をきいた時、その先輩芸人は談志師匠のことをこう言ったそうだ。
「アプレだねぇ。」
「アプレ」ってのは「戦後」を意味するフランス語「après-guerre」に由来する。新しい感覚をもった若い世代のことを、当時の大人たちは一括りにそう表現した。
自分の理解できないものに名前をつけて一括りにしようとするのは、今も昔も変わらない。大人と若者の断絶、なんて今更大仰に宣言しなくたって、それは昔から犬や猫みたいに当たり前に身の回りにあったんだよ。
畢竟、このコラムの一番の違和感は、年長世代なんて自尊心をくすぐれば簡単に「落ちる」ものだと、年長世代のことをあまりに一面的に括ってるところなのだが、それは何より、筆者氏が年長世代のことをあまりよく理解していないことの証左にほかならない。
まあ、それが「若い」ってことだ。
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