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風が心に触れた時。
10年近く前、私はディズニーが大好きだった。
作品ももちろん大好きなのだが、パークへ行くことが何よりのご褒美だった。
イベントをこまめにチェックしては、多少の無理をしつつ、年に数回は行っていた。
きっと多くの人がそうであるように、あの空間にいることが幸せだった。空気を吸っているだけで心が満たされていた。
今でも想像するだけで幸せが溢れてくるあの場所に、もう10年くらい行っていないなんて、昔の自分が聞いたら耐えられなくておかしくなっていたかもしれない。
心が疲れてしまった私は仕事もできなくなり、体力的にも、精神的にも、そして金銭的にもパークへ行く余裕がなくなった。
今でも大好きな場所だし、やっと最近、また行きたいと思えるようになってきた。
今までは正直それどころじゃなく、行きたいと思うことすら諦めていた。
今日はあたたかくて、なんだか風にディズニーの空気を感じて、ふとそんなことを思った。
今いる場所から舞浜はとても離れているけれど、「あの時感じた風」をふと感じることがある。それは春の気配の中だったり、真夏の夕暮れ時だったり、吐く息が白いなぁと思う夜だったり。
今日のこの、春の気配の風に、私はディズニーを感じたのだ。
あたたかさの中に、ほんの少しの冷たさを感じる空気。秋の始まりも切ないけれど、希望に溢れる春の始まりも、私はなんだかとても寂しく感じる。待ち続けた浮かれるほどのあたたかさの中に、冷たい空気が混ざっていると安心する。
こういう季節外れの風は、懐かしい場所や感覚を、記憶の底から一瞬で引っ張り出してくる。
今はまだ、近所の本屋に休みの日に来ただけでも人の多さにうっとなり、車で休むことしかできないことも多い。だけど思う。またあの場所へ行きたいと。
ここよりもずっと人も音も光も強い、だけど幸せな空間へ。
幸せの中でグラデーションのように混ざり合っていく寂しさが、私は愛しくてたまらないのだ。
去年コロナ禍で一時期閉園していた時は、行けるわけでもないのに絶望感がすごかった。
こちらが向かえばその場所にいつでも会えるということは、とても大きな希望なのだと知った。
人それぞれにそういう場所なり人なりがあって。その場所や人は、当たり前に存在しているようで、存在自体が奇跡なんだと改めて痛感した。
そこに出会える自分もまた、奇跡の中にいるんだなと。
巡り会えること、味わえること、どこかからやってくる風に想いを馳せること…。
全てが尊いものなのだと、当たり前だけど綺麗事のような想いの中で、泣きそうになる自分がいる。
またあの空間に行けたなら、きっとエントランスの手前あたりで号泣してしまい、キャストさんを困らせてしまうかもしれない。それでも笑ってゲートをくぐれたら、きっと新しい夢が始まる。
そんなことを思い描きながら毎日を過ごすのも、悪くないかもしれない。と思う、春の気配を感じた午後。