見出し画像

こころを抱きしめて①

***注意***

このシリーズには、いじめや虐待、自傷行為、自殺、摂食障害等といった多くのメンタル疾患に関する内容が含まれます。

読んで気持ちの良いものではないかもしれません。

ただ、こんなに酷かった精神状態が落ち着いた人間もいるよ、とお伝えしたいです。

この発信が、どなたかの希望になることを願って。

***

今ではコロナ後遺症という身体的な拘束と戦っている身だけど、私は筋金入りの「メンタル持ち」だ。

近年は随分丸くなって自傷行為もしなくなったし、イライラを表に出して周りから腫れ物扱いされることも病みLINEを依存している人に送るような事もなくなったし、過食嘔吐も何年もしていない。この世からの脱走を図ったのも、最後がもう15年前か。

しれっと書いたが、人生の大半がそんな感じのめちゃくちゃでぐちゃぐちゃな精神状態だった。

歳を重ねて安定したとはいえ、まだブレが強くなる時はあるし、ふと意味もなく不安の影がやってきて心細くなったりモヤモヤしたりすると私は「持っている」人間だなぁ、と思う。

心の闇を持ってない人なんていないし、その程度の話なのだけど、昔の私はまぁ酷かった。

そんな事を書いていこうと思った。

コロナ後遺症になって、ちょっと揺れ戻しがあって精神状態が悪化したし、コロナ後遺症をきっかけにうつ状態になってしまった方も見かけるから、きっと近いものもあるのかもしれない。

さて、何から話そうか。

1  はじめての傷跡

「あなたが1番はじめに精神的な病を発病したのは?」と聞かれたら、13歳と答えている。

正式に心療内科にかかったのは19歳の頃だけど、初めて手首を切ったのが13歳だったからだ。

義務教育時代は、私にとっては地獄だった。

生来、とても緊張しやすく人前で上手く話せず、どんくさかった私は、馴染めないだけではなく格好のいじめの的だった。

言葉の暴力は数え切れ無いほど浴び、時にはぶたれたり吊し上げられたりした。

クラスに1人はいる、根暗でどんくさいいじめられっ子ポジション。

小学生の頃は、教師も出来が悪く愛想も悪い私より大人受けの良いいじめっ子達を可愛がり、私は何も気をかけられなかった。

家では母が育児と祖母の介護、父の自営の手伝いで荒れていて、手のかかる弟ばかり大切にしていて私への当たりはきつかった。

母とハグをした記憶はほとんど無い。
代わりに、父が私を可愛がっていてくれたから、なんとかやっていられた。

幼い頃は夜に弟が泣くと私も泣いて、母は私をぶった。

今で言う「上の子可愛くない症候群」なのだろう。
母は発達障害の気があるし、自分もネグレクトをされて親の愛をまともに知らなかったからどうしていいかわからなかったのだと思う。

私はいつも家でも学校でも怯えていたし、全てが嫌だった。

それでも父が良く外食や旅行に連れて行ってくれて、母もその時は穏やかだったから、私は随分救われていた。

小学校高学年から中学生の頃は、集団無視のターゲットになっていた。

私がクラスに入ると、みんな笑いながら逃げていく。

聞こえよがしに気持ち悪いと言われる。

いじめには慣れていたけど、心は痛かった。

首謀者は、月替わりで私と仲良くしては無視をするというサイクルを繰り返した。

彼女と私の母は今で言うママ友で、長い付き合いだから避けて通ることはできなかった。

暴力を受けた方がまだわかりやすく痛かった。
じわじわと心は蝕まれ、家では母との関係も私が大きくなり、自分の感情をただ飲み込むだけではなくなってぶつかるが増えたからどんどん悪化していった。

中学校と実家は、徒歩5分ほどの近距離で、私に逃げ場はなかった。

新しい自分になりたくて、部活に入ったが、そこでもクスクス笑われる日々は続いた。

幸い、同じように笑われて無視をされる側の生徒が何人かいたから、数名でつるんでなんとか日々の活動はできていたし、顧問の先生が新任の女性の先生で、ひとりひとりを気にかけてくれたから居心地が良かった。

しかし、唯一楽に思えた部活の場も、1年で失うことになる。

ある日から、腰の痛みが取れなくなった。
整形外科に行ったところ、腰椎分離症のなりかけと言われ、1年運動禁止を言い渡された。

その頃、日曜日は剣道に通っていて、ダイエットのためにダンベル体操もしていたので明らかなオーバーワークだった。

私は休部して、家と学校の往復のみの閉塞的な暮らしを強いられた。

骨はギリギリ折れていなかったが、心は簡単に折れた。

その後長く付き合うことになる希死念慮が現れたのもこの頃だ。

家にいると最悪の空気感。
学校では笑われるし体育の授業をサボってると揶揄され、さらに集団無視の頻度も上がった。

息苦しくて、死にたくて、どうしていいかわからなかった。

死にたいとは思いつつも、怖がりな私は本当に死ぬことは嫌だった。

だから、自殺の真似をしてみようと思った。

その頃、金田一少年の事件簿の小説を数少ない友達から借りていて、その中で犯人の殺害動機が確か恋人?が手首を切って自殺というもので、私はそれからインスパイアを受けた。

手首切るって、すごく自殺してるっぽいから。
でも、加減すれば死なないだろう。

当時は自傷行為という概念も普及せず、リストカットという言葉もなかった。

自殺の真似事で、私は初めて左手首を傷つけることにした。

ある日の夕方、誰もいない家で母の顔剃り用の鋭利な剃刀を拝借して、手首に当てた。

ドクドクと心臓が鳴って、血の気が引いて、すごく怖かった。

自分に刃物を向けるなんて、本当に頭がおかしくなってしまったと思った。

初めて切った時の痛みは覚えている。
鋭くて、熱かった。

ほんの僅かにしか血は出なかった。
2回、3回・・・
大したことにならないとわかった私は、気が済むまでやった。

制服のシャツの袖の内側が血で汚れた。

これでいい、と震えながら剃刀を戻した。

春先の寒さで体がさらに震えたことを覚えている。
初めて自分を傷つけるという異様さへの恐怖は、未だに忘れられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?