カステランマレーゼ戦争
イタリアンギャング
1920年代、ニューヨークは闇に包まれた都市だった。イタリア系ギャングの集団が出身地別に結束し、力を持つようになっていた。
特にシチリア系の派閥はその中でも突出した存在だった。パレルモ派、コルレオーネ派、そしてカステラマレ派などがその組織力で知られていた。
ジョー・マッセリアは1922年、コルレオーネ派のモレロ一家を引き継ぎ、酒の密輸で急速に勢力を拡大していった。
そして1928年、彼は宿敵サルヴァトーレ・トト・ダキーラ(パレルモ派)を暗殺し、彼らの縄張りを手中に収めた。アル・ミネオという傀儡ボスを通じて支配を行ったのだ。
1928年の7月、カラブリア系のフランキー・イェールがアル・カポネとの対立によって命を落としたが、その縄張りはマッセリアの傘下に加わった。
マッセリアはシチリア出身ではなかったが、シチリア系でも非シチリア系でも積極的に提携を結び、支配下に置くことを選んだ。
彼の傘下には
チロ・テラノヴァ(モレロファミリー)
アル・ミネオ(パレルモ派)
ガエタノ・レイナ(コルレオーネ派)
アンソニー・カルファノ(ナポリ系)
ヴィンセント・マンガーノ(元ダキーラ派・パレルモ派)
リッチー・ボイアルド(ニュージャージー)
ブロードウェイモブ(ルチアーノ一派)
などが含まれていた。
このような闇に包まれた世界で、マッセリアは勢力を伸ばし、ニューヨークの裏社会を牛耳るためにあらゆる手を使っていった。裏取引、暗殺者の銃声、裏切りと忠誠、そして権力闘争の中で繰り広げられる戦い。しかし、彼の野望はいつしか暗雲に包まれることとなるのだった。
カステラマレ派との抗争
1920年代後半、マッセリアは野心を抱いてカステラマレ派を手中に収めようと画策を始めた。
カステラマレ派はアメリカ北東部の各都市に広がり、シチリア系の中でも特に団結力が強く、困難が訪れた際には互いに支え合っていた。
ニューヨークでは北ブルックリンのウィリアムズバーグ周辺にその勢力の拠点があり、ボスとして長年コラ・シーロが君臨し、ヴィト・ボンヴェントレなどの重鎮が彼を支えていた。
彼らもまた禁酒法時代の密輸ビジネスで富を築いていたのだ。
マッセリアはウィリアムズバーグのカステラマレ派やシカゴ、デトロイトなど周辺都市のカステラマレ派を分断しようと考え、彼らに自身の勢力に加わるよう働きかけた。
しかし、これらの都市のカステラマレ派は彼の誘いを断り、固く拒絶した。
特にシカゴのジョー・アイエロとの交渉は失敗に終わり、マッセリアはアイエロと対立していたアル・カポネと同盟を結ぶことを決断した。カポネと手を組むことで、アイエロやその同盟者であるデトロイトのカステラマレ派のガスパー・ミラッツォに圧力をかけたのだ。
マッセリアとカポネの同盟は、ニューヨークのシチリアマフィア、特に保守派にとって衝撃的な事件と受け止められた。
闇に包まれた裏社会での駆け引きが繰り広げられる中、マッセリアの野望はますます高まっていった。
ウィリアムズバーグのカステラマレ派の忠誠心を手に入れ、全国的に勢力を拡大するための布石が始まったのだった。
しかし、未知の闘争と陰謀が彼らを待ち受けていることを彼らはまだ知らない。
マッセリアとマランツァーノの抗争
ミラッツォはマッセリアの執拗な誘いを断り続けたため、1930年5月、マッセリアはミラッツォの敵であるデトロイトのラマーレ派を味方に引き込んで彼を暗殺することに決めた。
容赦ない手段を用いてミラッツォを排除したのだ。そして、マッセリアはさらにコラ・シーロという平和派のボスに圧力をかけ、上納金を要求した。
シーロは貢ぎ金を支払い逃亡し、マッセリアの圧力に屈したアンダーボスのジョー・パリッノは、マッセリアの傀儡となり、リーダーの座を剥奪される運命に見舞われた。
マッセリアはバッファローのカステラマレ派のボス、ステファノ・マガディーノが反マッセリアの動きを煽っていると疑い、彼を呼び出すよう命じた。
しかし、マガディーノは姿を現さず、代わりにウィリアムズバーグの実力者、マランツァーノを呼び出して話し合った。しかし、マッセリアの説得は失敗に終わった。
そして1930年7月15日、マッセリアはカステラマレ派の重鎮であるヴィト・ボンヴェントレを殺害した。
ウィリアムズバーグでは、報復を求める強硬派が穏健派を押し切り、マランツァーノが新たなボスに選ばれ、戦闘の準備を整えた。
マランツァーノを支えるために、アンダーボスのアンジェロ・カルーソをはじめとする第一親衛隊が結成され、暗殺チームが組織された。
そして1930年8月15日、マランツァーノは報復としてマッセリア派の参謀であるピーター・モレロを、2人のガンマンを使ってイースト・ハーレムの彼の事務所で暗殺した。
マランツァーノは酒の醸造所を経営しており、密輸トラックの襲撃から酒の輸送を守るために武装ガードを強化した。
しかし、やがて互いのトラックを襲撃し合い、酒を奪い合うハイジャックが横行するようになった。
ブロンクスに拠点を構えていたガエタノ・レイナはかつてマッセリアと同盟を結んでいたが、マッセリアから氷供給業の割譲を要求されると裏切りを疑われた。
彼はカステラマレ派との駆け引きを試みようとしたが、その企てが露見してしまった。結果として、1930年2月26日、マッセリアの手下によって銃殺されてしまったのだ。
レイナの後任にはジョー・ピンゾロが任命されたが、レイナファミリーのトミー・ガリアーノとトーマス・ルッケーゼはマッセリアには直接的な抗争を挑まなかったものの、ピンゾロの存在を無視した。
ガリアーノはレイナの死はマッセリアの責任だと考え、報復の機会を待っていたのである。
そして、モレロが1930年8月に殺害された際、ガリアーノは自分たち以外にも反マッセリアのグループが存在することを知る。
ガリアーノはひそかにマランツァーノに接触し、カステラマレ派(マランツァーノ派)とガリアーノ派(コルレオーネ派)が合流することを決定した。
そして、1930年9月5日、ピンゾロはタイムズスクエアのオフィスで、ガリアーノの手下(一説によればボビー・ドイル)に射殺された。
ガリアーノはピンゾロの死後もマッセリアに忠誠を装い、ピンゾロ殺しの犯人を追求する会議にも参加した。
しかし、その裏で彼はマランツァーノに自身の暗殺チームを送り込んでいたのだった。
裏切りと復讐、そして密かに結ばれる新たな同盟。ニューヨークの裏社会では戦いが激化し、各勢力がしのぎを削る中、新たな支配者の座を巡る闘争が絶えることはなかった。
対立の激化、一時的な停戦
1930年10月、マッセリアはウィリアムズバーグのカステラマレ派の有力者であるフランチェスコ・イタリアーノを狙撃しようとしたが、狙撃は失敗し、彼に軽傷を負わせるにとどまった。
そして10月23日、マッセリアはシカゴでアイエロを暗殺した。この暗殺は、マランツァーノ派とカポネとのシカゴにおける激しい権力争いの一環と考えられていたが、ルチアーノによると、マッセリアはアル・ミネオに指示して殺害を実行させたのだという。
そして11月5日、マッセリアの軍団の中心メンバーであるアル・ミネオとスティーブ・フェリーニョが作戦会議の場で急襲され、暗殺されてしまった。
会議の場所が漏れた裏切り者がいたと信じられている。
マランツァーノとガリアーノの合同暗殺部隊はマッセリアを狙っていたが、彼は現れずに逃れたのだ。
この出来事によって、マッセリアはガリアーノの裏切りを知ることとなった。
この時期から、マッセリアに忠誠を誓っていたギャングたちはマランツァーノに寝返り始めた。
1930年12月、抗争が長引くことを嫌ったニューヨークおよびその他の地域の中立派のマフィアたちはボストンに集まり、ボストンマフィアのガスパール・メッシーナを議長として事態の解決を話し合った(ボストン・サミット)。
その結果、抗争を終結させるためにコミッションが設立され、ジョゼフ・トライナが議長となって停戦交渉が進められることになった。
コミッションは当時優位に立っていたマランツァーノを説得しようとしたが、彼はマッセリアの命を奪うまでは戦争は終わらないとして停戦や和解を拒否した。
この期間、マッセリアは部下に銃の使用を禁じるという措置を取り、警察の圧力から身を守った。
その後、コミッションはマランツァーノとの交渉を重ね、最終的に一時的な停戦を実現することに成功した。
裏社会の闇に包まれたニューヨークで、陰謀と復讐、そして停戦という一瞬の平穏が織りなす物語が進行する。
マッセリアとマランツァーノの対立は激化し、最終的な決着を迎える時を迎えつつあったのだった。
1931年2月3日、マッセリア派の武闘派であるジョー・"ザ・ベイカー"・カターニャは、マランツァーノ派の密輸トラックへの襲撃を繰り返していたが、銃撃を受け2日後に死亡した。
マッセリアの暗殺
1931年4月15日、マッセリアはブルックリン区のコニーアイランドにあるレストラン「ヌォヴァ・ヴィラ・タマッロ」で、ラッキー・ルチアーノや他の仲間とトランプをしている最中に、突然現れた2人のヒットマンに近距離から銃撃され、即死した。
彼はレストランにおびき寄せられ、マランツァーノ派を一気に殲滅するための素晴らしいアイデアが待っているという誘いに引っかかったのだとされている。
銃撃が起きた時、ルチアーノはトイレに立っていたため、生き残ることができた。また、マッセリアの仲間たちもレストランにオーバーコートを置いたまま姿を消していた。
マッセリアの銃撃の直前、アンソニー・カルファノの姿が近くの路上で目撃されたという情報もある。
マッセリアの死により、長きにわたった抗争は終結した。
しかし、マッセリアの殺害犯は未だに謎に包まれている。彼の死後、カラブリア系のギャング、ジョン・ジウストラとカルメロ・リコンティが続けて怪死を遂げた。
警察はこの二人の死をマッセリアの殺害と関連付け、ジウストラが実行犯であるとの情報に基づき、残されたオーバーコートの一つがジウストラのものだと考えた。
この警察の見解は後にブルックリン臨海区の情報筋の証言によって一部裏付けられた。
その証言によれば、ジウストラはマッセリアを殺して組織を乗っ取ろうとしたが、マンガーノやアナスタシアらに裏切られて殺されたのだという。
しかし、真相は明らかになっていない。
マッセリアの死後、警察の圧力から彼の部下は武器の使用を禁じられ、これが部下の離反を促し、内部の反乱へとつながったとする説や、マッセリアとカポネの同盟がシンジケートに対する反逆と受け取られ、多数派の支持を失ったという説、優位に立っていたマランツァーノが敵陣の部下に降伏を呼びかけ、マッセリアからの離反を促したという説、そして、ダキーラやボンヴェントレの暗殺をマッセリアに結び付けて自身の正当性を主張するマランツァーノのマフィアに対するキャンペーンが功を奏したという説も存在している。
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