**最後の花束**

春の終わりを告げる風が、夕方の街を優しく撫でていた。少し肌寒い風に吹かれながら、真央は駅前の小さな花屋に向かっていた。手には、真っ白な封筒が握られている。それは彼、優斗への手紙だった。

優斗との出会いは、今から3年前。友人に誘われたバーベキューで偶然出会った。最初の印象は「少し気難しそうな人」。しかし、その内に秘めた優しさと温かさに惹かれるのに時間はかからなかった。

真央は控えめな性格で、人と深く関わることを避けがちだった。それでも、優斗の気さくな笑顔と飾らない言葉に心が少しずつ解けていったのを今でも鮮明に覚えている。彼のそばにいると、何もかもが自然体でいられた。彼と一緒に過ごす時間が、真央にとってかけがえのないものになっていった。

そして、いつしか二人は付き合うようになった。週末に出かけるカフェや、特別な日のディナー。それらはどれも、真央の心を温かく包み込む思い出となった。しかし、その幸せな日々も長くは続かなかった。

優斗の仕事が忙しくなり始めたのだ。

「忙しくなるけど、真央との時間は大切にしたい」と言ってくれていた優斗。だが、少しずつ会う機会が減り、メッセージのやり取りも途絶えがちになっていった。仕事が忙しいのは理解している。そう自分に言い聞かせながらも、真央の中に募る寂しさは日に日に増していった。

「会いたい」

何度そう思ったか分からない。しかし、仕事を理由に断られる度に、自分の気持ちを押し込めてしまうようになった。

そして、今日。真央は一つの決断を下した。

優斗に手紙を書くことにしたのだ。言葉ではうまく伝えられない気持ちを、手紙に託すことにした。これが、二人の関係にとって何を意味するのか、真央自身もよく分かっていなかった。ただ、このままでは何も変わらないし、自分の気持ちを伝える必要があると感じたのだ。

小さな花屋に着くと、真央はドアを開けて中に入った。店内には、色とりどりの花が並んでいる。目に留まったのは、白いバラの花束。優斗が一番好きな花だった。

「すみません、この白いバラの花束をください」

店員にそう伝えると、丁寧にラッピングされた花束が手渡された。真央はその花束を手に持ち、ふと過去の記憶を思い出す。

二人が初めてデートした日も、優斗はこの白いバラを彼女にプレゼントしてくれた。真央は、その優しさに心が満たされた。その時の優斗の笑顔は、今でも真央の心に鮮やかに残っている。

しかし、今、彼にこの花を渡すのは少し違う意味を持っている。花束に込めた真央の想い。それは、もう一度彼と向き合いたいという切なる願いと、もしその願いが叶わなければ、彼との別れを受け入れる覚悟だった。

駅に向かう足取りは、重かった。真央は封筒と花束をしっかりと握りしめたまま、優斗との思い出を振り返る。

「今、どんな顔をしているんだろう」

最後に会ったのは、もう1ヶ月以上前のことだった。彼の笑顔をもう一度見たい。その思いが胸を締め付ける。会って何を言えばいいのか。心の中で何度もリハーサルを繰り返したが、実際に彼を目の前にすると、きっと何も言えなくなってしまうかもしれない。

待ち合わせの場所に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。少し早く着いてしまったようで、真央は駅のベンチに座り、夜空を見上げた。星が一つ、静かに輝いているのが見える。

「この星のように、私たちの関係もまた輝きを取り戻せるだろうか」

そんなことを考えながら、彼を待つ時間が過ぎていった。

約束の時間を少し過ぎた頃、優斗が姿を現した。久しぶりに見る彼の姿は、どこか疲れているように見えた。真央の胸の中で、何かが音を立てて崩れていく。

「待たせてごめん。仕事が長引いて…」

「ううん、大丈夫」

真央はそう答えたが、心の中では別の言葉が浮かんでいた。どうしてそんなに仕事ばかりなんだろう。どうしてもっと私に時間を割いてくれないんだろう。そんな疑問が胸の奥で渦巻いていた。

二人はしばらくの間、黙って立っていた。真央は封筒と花束を彼に差し出した。

「これ、読んでほしいの」

優斗は少し驚いた表情で封筒を受け取ったが、すぐに真剣な顔に戻った。

「真央、これは…?」

「私の気持ちを全部書いた。もう、ちゃんと伝えたくて」

優斗はしばらく黙って封筒を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。

「わかった。後で必ず読むよ」

その言葉に少し安堵したものの、真央の胸にはまだ不安が残っていた。優斗は花束を手に取り、静かにその香りを吸い込んだ。

「ありがとう。白いバラ、俺の好きな花だよね」

「うん、覚えてるよ」

二人は少し微笑み合ったが、その笑顔はどこかぎこちなく、遠く感じた。

「真央、俺も君に伝えたいことがあるんだ」

その言葉に、真央の心臓が高鳴った。何を言われるのだろう。彼の目を見つめると、真剣な表情が浮かんでいた。

「最近、君に全然会えなくて、本当に申し訳ないと思ってた。君を大切にしたい気持ちは変わってない。でも、正直に言うと、今の俺には余裕がない。仕事で頭がいっぱいで、君のことを思いやる余裕がなくなってる」

真央はその言葉を聞き、胸が締め付けられるのを感じた。

「それって、別れたいってこと?」

優斗はすぐに首を振った。「いや、そうじゃないんだ。ただ、今の俺が君にとってふさわしいのかどうか、自信がないんだ。君を傷つけてしまっている気がして」

その言葉に真央は目を閉じ、一瞬の沈黙が流れた。

「私も、寂しかった。でも、あなたが忙しいのもわかってる。だからこそ、この手紙を書いたの。あなたにもっと自分の気持ちを知ってほしかったから」

優斗は手に持った封筒を握りしめ、しっかりと真央を見つめた。

「真央、ありがとう。君のことを大切に思ってる気持ちは、ずっと変わらない。だけど、今の俺は君に十分な時間を割ける自信がないんだ。君をこれ以上待たせることが、果たして正しいのかどうか」

真央は少しだけ涙が浮かびそうになるのを抑えた。そして、静かに頷いた。

「わかった。でも、私は待ってるよ。あなたが戻ってくるまで」

その言葉に、優斗は驚いた顔をしたが、したが、すぐに表情を和らげ、優しく笑った。

「真央、本当にいいの?俺がいつ戻れるか分からないし、正直、自分でもいつ余裕ができるのか分からないんだ。君をこんなに待たせるのは、俺のわがままかもしれない。」

真央はその言葉に少し考える素振りを見せたが、すぐに静かに微笑んだ。そして、優斗の目をしっかりと見つめて言った。

「それでも、私は待つ。あなたと過ごした時間は、私にとって大切なものだから。そして、あなたが自分自身を取り戻すまでの時間が必要なら、私はそれを尊重したい。あなたのことを信じているから。たとえ、どれだけ時間がかかったとしても。」

優斗はしばらく黙っていたが、その後、深く息をつきながら頷いた。

「君は本当に強い人だな、真央。俺、そんな君のことがもっと好きになった。こんなに一生懸命に想ってくれて、ありがとう。俺も、できる限り早く君のもとに戻れるように頑張るよ。」

その言葉に、真央は静かに涙をこぼした。嬉しさと、少しの切なさが入り混じった涙だった。二人の間には今まで感じていた距離が少しずつ縮まり、互いの心が触れ合ったように感じた。

「ありがとう、優斗。私、待ってるね。」

真央はそっと優斗に微笑みかけ、手に持っていた花束を彼に渡した。

「これ、私の気持ちだよ。ずっとあなたを想ってるっていう証。だから、これを見て、私を思い出してくれると嬉しいな。」

優斗は花束を受け取り、真央の手を優しく握った。

「もちろんだよ。白いバラを見るたびに君を思い出す。そして、君にふさわしい男になるために、もっと頑張る。」

二人はしばらくの間、無言でお互いの手を握りしめていた。その瞬間、彼らの間には言葉にできない確かな絆が生まれていた。たとえ物理的に離れていても、心はいつも繋がっている――そんな確信が、真央の胸の中で育っていた。

「それじゃあ、またね。元気でね。」

そう言い残し、優斗は少し名残惜しそうに立ち去っていった。真央はその後ろ姿を見送りながら、静かにその場に立ち尽くしていた。彼が見えなくなった後も、風に揺れる花の香りが彼女の周りに漂っていた。

そして、真央は夜空を見上げた。そこには、変わらずに輝く一つの星があった。その星は、まるで二人の未来を照らすかのように、静かに輝いていた。

真央は深呼吸をし、ゆっくりと歩き出した。心には、優斗との再会を信じる強い気持ちが残っていた。


それから数ヶ月が経った。真央は仕事や日常生活を送りながら、優斗からの連絡を待ち続けていた。お互いの距離は離れていたが、彼女の心は決して折れることはなかった。

そして、ある日。真央のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。

「真央、今夜会えるかな?話したいことがある。」

そのメッセージに、真央の心は高鳴った。彼が戻ってきたのだ。彼女はすぐに返信を送り、約束の場所に向かった。

待ち合わせのカフェに到着すると、そこには少しやつれたが、どこか自信に満ちた表情の優斗が座っていた。彼は真央を見つけると、微笑んで手を振った。

「久しぶりだね、真央。」

「うん、久しぶり。」

二人は再び目を合わせ、全てが始まった場所に戻ったかのようだった。これから、二人の新しい未来が始まろうとしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?