「冬の花火」
冬の夜、澄んだ空気が街を静かに包んでいた。ここは、東京の少し外れにある小さな港町。観光地とは違い、地元の人たちが行き交うだけの静かな場所だ。
**山本彩(やまもと あや)**は、ひとりで駅から歩いていた。手にはひんやりと冷たい感触のスマートフォンを握りしめ、何度も画面を見つめていた。画面に表示された日時と名前。今日という日が、彼女にとって特別なものであることを示していた。
「今日で、1年…」
彼の名前は、塚本亮(つかもと りょう)。彩がこの町で最後に会ったのはちょうど1年前のことだった。二人は大学時代からの付き合いで、就職してからも遠距離恋愛を続けていた。東京で働く彩と、地元のこの町で家業を継いだ亮は、月に一度しか会えなかったが、そのわずかな時間を心から大切にしていた。
そして、ちょうど1年前の冬、彼らはこの港町で最後のデートをした。
1年前の冬の夜――
海沿いの道を歩きながら、二人は手をつないでいた。夜空は透き通るように澄んでいて、星がまばらに輝いていた。冷たい風が吹く中で、亮はポケットから一枚のチケットを取り出した。
「実は、これを手に入れたんだ。今夜、港で花火大会があるんだよ。冬に花火なんて珍しいだろ?一緒に見に行こう。」
亮が見せたチケットは、地元の小さな冬の花火大会のものだった。彩は驚いたが、同時に嬉しそうに微笑んだ。
「冬の花火か…楽しみだね。寒そうだけど、君が選んでくれたならどんな場所でもいいよ。」
二人は港に向かい、冬の冷たい空気の中で肩を寄せ合いながら、打ち上げを待った。
花火は、冬の夜空に次々と打ち上がり、まるで夜空に描かれる絵のように美しく輝いた。彩は、その光景を夢中で見つめながら、亮の横顔を盗み見ていた。彼はいつも通りの穏やかな笑顔を浮かべていたが、どこか寂しげな表情もしているように見えた。
「彩、実は一つ言わなきゃいけないことがあるんだ。」
亮がふと、彩に向き直り、静かに話し始めた。
「来月、僕、海外に行くことになったんだ。家業を継ぐつもりだったけど、新しい挑戦をしたくて、ずっと考えていたことなんだ。君にちゃんと話すのが遅れてごめん。これから遠くに行って、しばらくは会えなくなるかもしれない。」
彩は驚いた。彼が海外に行くなんて、今まで一言も聞いたことがなかった。心の中に湧き上がる感情をどう整理していいのかわからず、しばらく言葉が出なかった。
「でも、そんなに急に…どうして今まで黙ってたの?」
「迷っていたんだ。君を待たせることになるから。それが君にとって負担になるかもしれないと思って。」
亮の言葉には、彩を思う優しさが込められていた。だが、その優しさが、今はどこか遠く感じられて、彩の心は締めつけられた。
「でも、私は待ってるよ。あなたがどこにいても、きっと帰ってくるって信じてるから。」
その言葉を聞いた亮は、少しだけ笑った。
「ありがとう、彩。でも、何が起きるかわからない。僕が帰ってくる保証はないんだ。」
「でも、信じたいの。今までずっとそうしてきたじゃない。」
冬の冷たい風が二人の間を吹き抜けた。花火の音だけが遠くで響き、夜空に色鮮やかな光が広がっていく。彩は、亮が遠くへ行ってしまう現実をどう受け入れていいのかわからなかったが、それでもその時、二人が一緒にいられることだけを信じたかった。
「亮、私は…」
彩が何かを言おうとした瞬間、最後の花火が打ち上げられた。夜空一面に広がる大きな花火。その眩しさに、彩は一瞬、亮の表情を見失った。
そしてその後、彼からの連絡は途絶え、二人は会うことがなくなった。
現在――
結局、亮は何も告げずに海外へ旅立ち、そのまま二人は自然と別れた。彩はその後、彼からの連絡を待っていたが、何度もスマホを確認しても、彼からのメッセージは来なかった。彼がどこにいるのか、何をしているのかすら知らないままだった。
それでも、今日という日は彩にとって忘れられない日だった。1年前の花火を見た日が、二人が一緒に過ごした最後の時間だったからだ。
彩は港へ向かい、夜空を見上げた。今夜もあの花火が上がると聞いていた。彼との最後の思い出が刻まれた場所で、もう一度その光景を見て、心の整理をつけたいと思ったのだ。
すると、遠くから人混みの中で誰かが彩の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「彩!」
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。亮だった。
彩は一瞬、信じられなかった。彼がここにいるはずがないと思っていたのに、彼はまっすぐこちらに向かって歩いてきた。
「亮…?どうして…」
「久しぶりだね。ずっと探してたんだ。」
彼の言葉に彩は驚き、次に怒りが湧いてきた。
「ずっと探してた?なら、なぜ今まで何も言わなかったの?私はあなたを待ってたのに、何も聞かされずに、ただ時間だけが過ぎていったのよ。」
亮は彼女の目を見て、ゆっくりと話し始めた。
「本当にごめん。海外に行ったあと、色々なことがあって、すぐに連絡できる状況じゃなかったんだ。でも、ずっと彩のことを考えてた。君に恥じない自分でいたくて、夢を叶えるために必死だった。帰ってきた時には、もうどうしていいかわからなくなってしまったんだ。」
彩は涙をこらえきれず、震える声で答えた。
「私はあなたがいなくなってから、毎日あなたのことを考えてた。何度も連絡しようとした。でも、あなたが連絡をくれなかったから、私は一人で全部を抱えてたのよ。」
その時、夜空に大きな花火が打ち上がった。まるで1年前と同じ光景が広がっているかのように、夜空に色とりどりの光が舞い上がった。彩と亮は、その花火を見つめながら、何も言えなかった。
やがて、亮が静かに口を開いた。
「今さら遅いかもしれないけど、僕はやっと君に会いに来たんだ。もう一度、君とやり直せたらと思ってる。」
彩は涙を拭い、亮を見つめた。
「まだ、信じられない。でも…私はあなたのことをずっと忘れられなかった。」
二人はお互いを見つめ合い、しばらくの間言葉を交わさなかった。夜空には次々と花火が上がり続けていた。
やがて、彩はそっと亮の手を握った。
「もう一度、信じてみてもいい?」
亮は頷き、彼女の手をしっかりと握り返した。
「ありがとう、彩。これからはもう、離れないよ。」
冬の花火が夜空に消え、港町は再び静かさを取り戻していた。二人は手をつないで歩き出した。1年ぶりの再会、そしてもう一度共に歩き始める決意。
花火のように、短くても鮮やかに輝く瞬間を、彼らは再び見つけるために、静かに前を向いて進んでいくのだった。