「最後の桜」
春の風が、薄紅色の桜の花びらをひらひらと舞わせている。川沿いに続く桜並木は、見事に咲き誇り、道行く人々を魅了していた。**山田千尋(やまだ ちひろ)**は、その桜並木のベンチに座り、静かにその風景を見つめていた。
「きれいだな…」
つぶやく声は、ほんのかすかなもので、すぐに桜の花びらにかき消されてしまった。彼女の隣に置かれたバッグの中には、一通の手紙があった。その手紙は、彼女が今でも心の中で大切にしている人からの最後のメッセージだった。
藤井涼太(ふじい りょうた)。彼との出会いは5年前の春だった。千尋が大学に入学してすぐのこと、クラスで初めて顔を合わせた二人は、同じサークル活動を通して親しくなり、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。
彼はどこか不器用で、無口だったが、誠実で優しい心の持ち主だった。千尋はそんな彼に次第に惹かれていった。涼太もまた、千尋を大切に思い、やがて二人は恋人同士となった。
春の桜の下、二人は何度も同じ道を歩いた。
大学の近くにあるこの川沿いの桜並木は、二人にとって特別な場所だった。毎年春になると、手をつないでこの道を散歩し、桜の美しさを一緒に楽しんだ。
「来年も、またここに来ようね。」
「うん、来年も一緒に桜を見よう。」
そんな会話を交わしながら、何の不安もなく、二人は共に未来を見据えていた。
しかし、そんな日々が永遠に続くと思っていたのも束の間だった。
涼太の病気が発覚したのは、大学を卒業する少し前のことだった。
急に体調が悪くなり、病院で検査を受けた涼太は、難病であることを告げられた。治療はできるが、完治する見込みは薄いという現実に、二人は言葉を失った。
それからの数ヶ月間、涼太は治療のために入退院を繰り返し、千尋は彼の側に寄り添い続けた。病気に対して前向きに生きようとする涼太の姿に、千尋もまた、強くならなければと自分を奮い立たせた。
「来年も、一緒に桜を見に行こう。絶対に、約束しようね。」
涼太は弱々しい声でそう言った。千尋はその言葉に必死に微笑みながら頷いたが、心の中では不安と恐怖が渦巻いていた。彼が本当に来年も桜を見られるのか、自信が持てなかったからだ。
そして、最悪の知らせはその年の冬に訪れた。
涼太の病状が急変し、彼は再び入院を余儀なくされた。最後の数週間、千尋は毎日のように病院を訪れ、彼と過ごす時間を少しでも大切にしようとした。だが、彼の体力は日に日に衰えていき、ついにはベッドから起き上がることもできなくなった。
涼太は千尋に最後の手紙を書いていた。それは彼が亡くなる数日前、彼女に渡されたものだった。
「千尋、これを開けるのは、僕がいなくなった時でいい。」
彼女は手紙を受け取ったが、その内容を知るのが怖くて、しばらく開封できなかった。涼太が亡くなってから数週間後、ようやく勇気を出してその手紙を開けた。
そこには、彼の優しさと思いやりが詰まっていた。
「千尋へ」
君と過ごした時間は、僕にとって本当に宝物だった。君の笑顔が、どれだけ僕を支えてくれたか、言葉では伝えきれないくらい感謝している。
病気がわかった時、正直すごく怖かった。でも、君が側にいてくれたから、僕は最後まで強くいられた。本当にありがとう。
来年の春、僕はきっと君と一緒に桜を見られないだろう。でも、君にはその桜をちゃんと見てほしい。僕の代わりに、君の目でこの美しい桜を感じて、心に刻んでくれたら、それで十分だよ。
君の未来が、幸せで満ちていることを、心から祈っている。
ずっと君を愛している。ありがとう、千尋。
涼太
その手紙を読んだ時、千尋は声を上げて泣いた。彼の気持ちが痛いほど伝わり、もう彼に触れることができない現実が胸を締めつけた。けれども、涼太が自分を支え続けてくれていたことが、この手紙を通じてわかり、彼の思いに応えたいという気持ちが湧いてきた。
「桜を、見に行かなきゃ…」
それからというもの、千尋は毎年春になると、この川沿いの桜並木を訪れるようになった。涼太と一緒に歩いたこの道を、一人で歩きながら、彼との思い出を振り返り、心の中で彼と会話をしていた。
そして現在――
今年もまた、桜が満開を迎え、千尋はこの場所に来ていた。ベンチに座り、涼太の手紙をバッグから取り出す。その手紙は少し色褪せていたが、彼の言葉は今でも千尋の心の中で生き続けていた。
「涼太、今年も桜がきれいだよ。あなたがここにいなくても、私はちゃんとこの桜を見ているよ。」
桜の花びらが風に舞い、彼女の頬にふわりと触れた。それはまるで、涼太がそっと寄り添ってくれているような、温かい感触だった。
「ありがとう、涼太。これからも、私はあなたのことをずっと忘れない。あなたが私にくれた愛情を胸に、前を向いて生きていくね。」
千尋は静かに微笑み、桜の花を見上げた。涼太との約束は、彼がいなくても守られていた。これからも、彼との思い出を大切にしながら、彼女は新しい未来に向かって歩んでいくのだろう。
桜が再び散り始め、川沿いの道は静けさを取り戻していた。千尋はベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。彼女の心の中には、涼太との愛と感謝がいつまでも残り続けるだろう。
それでも、彼女は知っている。涼太がいつもそばで見守ってくれていることを。そして、それが彼女にとって、これからの人生を前向きに歩んでいく力となっていることを。
最後の桜が舞い散る中、千尋は微笑みながら、その道を一歩ずつ進んでいった。