砂漠
またやってしまった…
そう気づくのはいつもすべてが終わったあとだ。
なんの事はない学生時代のイツメンと宅飲み。
感染症が猛威を振るっていた学生時代には、考えられなかったことだ。
青春を取り戻すように酒を
そんな中、急に一人だけ走り出したやつがいた。
坂道を駆け上るように彼の言葉は加速して、重力から開放されたよう浮遊感すら満ちている。
彼が振り返るとバツの悪そうな顔をした友人が、遥か彼方で俯いている。
それが何を隠そう俺だった。
その後はいつも同じ。
昇りのエスカレーターを駆け下りていくようにおぼつかない足取りで、口を動かすが、吐き出された音は細くよれて文脈が散り散りになっていく。
言葉はさっきとは違う嫌な浮遊感が纏ってあたりを漂っていた。
「ユウヤは相変わらずテンション高いね!」
その場を取り繕うためかエミが大きな声でいう。ワイシャツに黄色いカーディガンと黒のコクーンスカート。絵に書いたようなゆるふわ女子の彼女は、瞼と口の両端を表情筋で持ち上げたまま、真っ直ぐこちらを見ていた。
この世で笑顔から最も遠い表情だな。
今思うと、自嘲気味にそう考えた俺の表情も彼女と大差なかったかもしれない。
「そろそろ夜も深いしお開きにします?明日も皆何かしらあるんだし。」
エミの言葉がなにかの合図であったみたいに、リーダー気質のヤストキはその場を締め始める。
「そうだな、俺たちももう学生じゃないんだし」
こういうときは足並みを乱してはいけない。
避難所に逃げ込むように、俺もその言葉に同調する。
「ちょっと、ユウヤ!」
俺の隣にいたマヒロの険のある声が、パリリと氷にヒビを入れるように弾ける。
困惑してマヒロの方を見ると、彼女の細く整えられた眉の間に幾重にも重なった皺が小さく震えていた。
フィンランド人の父を持つ彼女の肌はとても白い。
そんな白い顔の一箇所に黒い絵の具をぶち撒けたように、彼女の眉間は歪んでいた。
マヒロは俺の正面を顎で指す。
マヒロの指す先を見ると、タイガが気まずそうにこちらを見ている。
ああ、そうかまだ学生の奴も居たのか。
それにしてもそんなに怒ることだろうか?
俺はどこか引っかかりながらも、学生時代にも似たようなことがあったことを思い出す。
石本マヒロは背丈が低く気も小さいが、正義感の強く地雷の読めない女の子だった。
昔みんなで鎌倉に行ったときも、道に落ちていたSuicaを交番に届けると言って聞かなかった。
「確かに持ち主の人も、今頃困ってるかもしれないもんね。」
もともと両親が離婚したマヒロを元気づけるための旅行だったこともあって、当時マヒロに惚れていたヤストキがマヒロに同調し、二人がそうしたいなら、と他のメンバーもその意見に合流した。
「いや、持ち主も探してないでしょ。」
厳密には俺以外のメンバーが同調した。
俺は俯きながら話し始めた。
「知ってる?Suicaにチャージできる額の上限って2万円なんだ。そのSuicaには駅名とかの印字も無いから、定期でもない。現実問題Suicaに2万円も入れる人は少数派だろうし多くても一万円ってとこでしょ。わざわざ探したりするか?俺だったら諦めて新しいSuicaを発行するな。」
俺は一気に話し切るとゆっくりと顔を上げる。そこでやっと冷静になった
ヤストキとマヒロ以外の4人は白けた顔でどこを見るともなく呆然としている。
ヤストキはこちらを睨みながら、マヒロの前へ出た。
目では俺を見ているが、意識はマヒロの方に向いていることを彼の立ち姿は物語っている。
その後ろで、こちらを見るマヒロは研ぎ澄まされた敵意で俺を射抜いていた。
圧倒的正義。小柄で、女性で、ハーフで、片親で、そんなマイノリティであることを逆手に取ったような強さでは到底説明できない強度の正義が、彼女の体躯に宿っていた。
彼女の前で怒りの表情を作るヤストキは、加勢してるつもりなのだろう。
唯彼の芝居がかった表情が、その場では唯一の救いだった。
「今日はお邪魔しました。」
そう言って、友人宅を出る。
暖房の効いた部屋から出た俺たちを12月の凍った風が迎え入れる。
ほんの数秒で足の先が凍ったように冷たくなった。
自覚するより先に俺の体はシバリングを起こしていた。
「ちょっと、ゆうや大げさすぎでしょ(笑)」
そういうエミも寒そうにコートのポケットに手を突っ込んだままだ。
駅までの道は点線のように並んだ街灯以外に明かり呼べるものは殆どなかった。
まだ10時もまわったばかりだというのに、辺りの住宅に殆ど電気は点って居なかった。
昨今のGDPの低迷と燃料不足はこんなところにまで影響してるのか。そう感嘆して、家々が光熱費を気にしていそいそと電気を消すさまを想像した。
まるで戦時中だな。そう思った後すぐに訂正する。
いや、今も戦時中だった。去年の初め、東欧で火がついた小さな戦争は世界中に波及して俺の生活にもこうして幾ばくか影響している。
東欧はココよりもずっと寒いんだろうな。
「なに、ボーッとしてるんだよ」
駅コウヘイが投げかけた言葉で、俺の意識は東欧から日本に連れ戻された。
「いや、べつに」
「ゆうやって、一人でどこか行っちゃってる事があるよな。」
「確かに、落ち着きが無いってよく言われるし、小学生の時とか迷子になって怒られたことは何度もあったけど、」
「そうじゃねえって」
彼は俺の顔をマジマジと覗き見る。
「まあ、そういうとこがユウヤのいいとこでもあるんだけどな」
そう言って彼は笑い、つられて他の奴らも笑い出した。
さっきの微妙な空気も少しは闇に溶けていっただろうか。
「じゃあ俺、京急だからここで」
そんな言葉とともに一団は一人、二人と別れていき、最後にはエミと二人きりになった。
「さっきはありがと」
手持ち無沙汰な、空気を埋めるために俺は謝意の言葉を彼女に告げる。
「なにが?」
エミはキョトンとした顔で問い返す。
「いや、俺のせいで空気が固まったときフォロー入れてくれたから。」
「ああ」
エミは合点がいったという顔をした。
「ユウヤ昔からそういうの苦手じゃない?でも、それがユウヤの良いところでもあるしさ、ユウヤのそういうところに救われた人もいると思うから。あんまり、気にしなくても大丈夫だよ。」
「そっか」
彼女の言葉を嬉しく思う一方で、俺の心にはモクモクと突拍子もない感情が湧き上がる。
「エミ。」
「ん?なに?」
「えっと、なんていうか」
改札階へ向かう昇りエスカレータのゲートに、俺の足が踏み入れる。
「あ、ごめん、もう着いたみたいだから、私行かなきゃ。後でラインして」
「え?エミもJRじゃないの?」
「うん、彼が車取りに行ってくれてたの」
そういって歩き出すエミの先には、真っ赤なMAZDA RX‐50が鎮座していて、運転席にはヤストキが座っていた。
「何だよ!」
エスカレータに体を引き上げられながら、やり場のない苛立ちを口にする。
「いい感じだと思ったんだけどなぁ」
いつもそう思って、勝手に勘違いしているのだから世話ない。
改札階に出るとほぼ同時に、目の前のエレベータの扉が開いた。
中にのって居たのはマヒロだった。
「ユウヤ?」
マヒロは俺以上に驚いた顔をして後ろを一瞬振り返る。
エレベーターの扉は無慈悲にもすでに閉まっていた。
「マヒロ?なんで?確かマヒロも京急のはずじゃ。」
「えっと、そうなんだけどちょっと迷ったみたいで。」
マヒロは気まずそうな口調で目を泳がせた。
「京急なら、このエレベーター下って一個目の信号を右じゃないかな?」
そもそも迷うほどの距離じゃないだろう。マヒロって方向音痴だったか?
「あ、そっかそっかありがとう。」
まあ、いいか。
俺はむしろ好都合だと思った。
マヒロと変な感じのまま別れて新年を迎えたくなかったし。
「てか、さっきはごめん」
「なにが?」
マヒロはエミと同じように何のことか分からないという顔をする。
「いや、タイガの件」
「ああ!別に私に謝ること無いよ。タイガもそこまで気にしてないだろうし。」
想像だにしてなかった言葉に、マヒロは思わず笑い声を上げる。
マヒロは笑うとき眼の前の相手にもたれかかるように笑う。
その仕草が多くの男を勘違いさせ。ご多分にもれず俺もかつて勘違いした男の一人だった。
彼女は一通り笑った後、胸の前に左手を出してサムズアップを作った。
そういえば、以前の旅行でも、落とし主の男の子にSuicaを渡しながらそんなハンドサインをしていた。
推理を外した俺はバツが悪そうに立っていたが、マヒロの横顔はそんなこと気にしていないみたいに嬉しそうだった。
「そのジェスチャーよくするよね」
「あー、これ?いや、なんか昔の漫画で主人公が仲間の印に使ってたサインあったじゃん」
「あー?あの海賊の?」
マヒロが上げたのは、俺達の世代なら誰もが知っている有名作品だった。
「そうそう、それを真似して私も小さい頃に仲間のサイン作ったんだ。当時の友達はもう忘れちゃったかもだけど、このサインをしたら何処に居てもあの日に帰れるような気持ちになるの。」
「いい話だな。」
俺は素直に感動してしまっていた。
「まあ本当は癖になってて、ついやっちゃってるだけなんだけどね。」
「なんだよ。」
俺の感動を返してくれ。
「てかユウヤってJR?」
「そそ、ケーヒン東北。」
「そっか。それだと2分後発の電車が最短だと思う。私と話してて大丈夫?今日は寒いし、早く帰らないと風邪引くよ?」
俺の体調を優しく気遣うマヒロの表情からは、さっきまで俺のことを睨んでた痕跡は全く見当たらない。
「そうだね、じゃあ俺もう行くよ。またね!」
また(二人で)ね!そんな想いを言下に潜ませて、俺は彼女に言葉を投げた。
「うん、また」
そこで彼女の表情がフリーズする。タップリ1秒考えた後、彼女は言葉を続ける。
「また、皆で!」
僕がガックリと肩を落とした後ろで声が響く。
「ごめん遅くなった!ってユウヤ!?」
振り返ると、なんとそこには
タイガの手には、下のコンビニで買ったであろうフライドチキンが握られている。
前を向き直ると、マヒロが顔に手の平を当てアチャーというセリフがぴったりハマりそうな顔をしていた。
「みんなには内緒な!」
コンコースからホームへと降りるエスカレータでタイガは片手で手刀を切る。
「タイちゃん、留年したくせに真面目に勉強してないって思われるのが嫌でバレないようにしたいんだって。」
マヒロは不服そうに口を尖らせる。
「そう膨れるなよ、あと三ヶ月もすれば皆にも話すからさ。」
「ほんとに?」
「ほんと、ほんと」
「嬉しい!」
俺は何を見せられているのだろうか?というかこんな話し方のマヒロは初めて見た。
「まあ、バレちゃったから言うけど。さっきはゴメンね。そんな怒るようなことじゃなかったけど、タイちゃんをのけ者にされた感じがして、ちょっと嫌だった。」
タイちゃん、マヒロがそう言う度に胸の何処か深いところが寒くなる。
俺たちがホームに降りるとベルが鳴り始める。
「お!丁度じゃん。」
ホームに滑り込んできた電車はガラガラに空いている。
軽快な音とともに開く扉の中はひどく無機質で、そこだけ空間が切り取られたみたいだ。
俺は映画の主人公にでもなったようにゆっくりと車内に足を入れる。
振り返るとマヒロとタイガはまだホームに居た。
「あれ?二人は乗らないの?」
「俺たちは反対のホームだから」
どうやら、俺に付き合ってくれていたみたいだ。
「良いお年を」
俺は扉の外の二人にサムズアップを掲げる。
「うん/ああ、良いお年を」
二人もそれに呼応して、親指を立てた。
ベルが響いて扉が閉まるアナウンスが流れる。
そもときマヒロが急にキッとこちらを見据える。
「ユウヤ、あんまり一人で遠くに行かないで。」
彼女がその言葉を言い終わると同時に扉が閉まる。
そして電車はゆっくりと加速し始める。
はずだった。
キンコーンっと間抜けな音が鳴り、扉がもう一度開いた。
微妙な空気が三人の間に流れる。
「ハハh…」
場を繋ぐために彼女が上げた乾いた笑いの途中で無慈悲にも扉が閉まり、今度こそ電車はゆっくりと加速し始める。
後ろ手を振りながら、昇りのエスカレータに乗り込む二人の背中はすぐに見えなくなって、夜の闇だけが車窓に映った。
あんまり一人で遠くに行かないで。っか。
俺は一歩も歩いていないのに、皆気づいたら遠くにいる。
遠くに行ってしまったのは、俺の方だったのかもな。
俺は社会に出て変わってしまったのか、それとも学生時代からだったのか。
俺が乗っている車両にはOLらしき20代の女性が一人乗っているだけで、他には誰も居なかった。
その一人も次の駅で降りて、ついに車内は俺一人になる。
夜道を駆ける電車の窓には自分だけが映る。
なんだか、砂漠の中で一人で取り残されたような気持ちになる。
俺は徐ろに窓に映る自分にサムズアップをしてみた。
電車はまたゆっくりと加速し始める。
心地いい浮遊感が俺を包んだ。