学生時代のレポートを振り返りつつ、だいぶドライな角度から人間関係を考察してみた話。
2020年のGWも2日目が終わろうとしています。今日は、「戦略的堕落」(ものは言いよう。)に1日を費やしながら、学生時代のレポートを見返していました。
現代社会は「記号」の消費で成り立っている。しばしば、「シニフィアン(signifier)」と「シニフィエ(signified)」とバルトが呼ぶ、「物質そのもの」と「意味・用途」によって構成されているというわけである。これらは、二つで一つの存在で初めて成り立つのであり、「物質そのもの」のみでは存在していない。何らかの「意味・用途」が付与されて初めて、我々はその存在を知覚するのだ。
唐突に登場したこの文章は、ぼくが大学3年生のときに少しだけかじっていた消費社会学に関する講義の課題レポートの冒頭部分です。確か、このときに与えられたルールは3つ(だったはず)。
1.講義で扱った社会学の理論をベースに、「自身の身の回りの消費社会」を論ずること。
2.総文字数2,500文字以上。
3.参考文献3冊以上。
ということで、今日の棚からひと掴みは、大学時代に学生と社会のハザマでモラトリアム期を謳歌していた頃を振り返ってみようと思います。
なかなかの長文(駄文)ですので、気が向いてよっぽど時間がある方だけ読み進めてみてください...。
前田青年が目を付けた、身の回りの消費社会。
この現象を我々の身近な事象に置換してみると、誰もが信じて疑わない「友情」でさえも「記号」を消費しているに過ぎないのではないかと考える。言わずもがな、「友情」の実体は不可視である。加えて、「友情(friendship)」は「天気のよい時には人を二人乗せることができるが、天気の悪い時にはたった一人しか乗せることができないそんな程度の大きさの船」(ビアス 1983:237)とも揶揄されるほど、脆くはかないものである。しかしながら、我々はそんな不安定な「記号」(「幻想」とも言うべきか)を信じてやまない。そこで本レポートでは、その実体のない不可視な「記号」が「友情」という特定の形となって人びとに消費されている社会を、関連する先行研究を参照しながら分析していく。
そういえば、この頃からどこか世間を斜めからみる性格だったようで、「ひとと違うこと、考え方、モノの見方」が好きだったみたいです。
「友情」を裏付ける根拠とは?
現代社会を生きる人々にとって、「友情」というコードは何を根拠として存続しつづけているのだろうか。決して目に見えるモノでもなければ、大抵の場合、「契約書」のような公的文書も交わされていないだろう。しかし、「友情関係はそこにあるに違いない」と考えている。この“不思議な”現象はなぜ平然と受容されているのだろうか。
デボラは、「従来ならアイデンティティの指標となっていた家族や共同体が変容するにともなって、アイデンティティはますます流動的で可変的な性質を帯びつつある」(デボラ;2015, pp.221)と指摘する。
「友情」は「私」だけでは成立しない。「あなた」がいて初めて成立する。すなわち、「私」のアイデンティティを維持するために「あなた」を鏡にする必要が生じた。その時に、最も身近で便利なコードが「友情」なのである。「私たち友だちだよね」と定期的に確認作業を行うことで、「私らしさ」を担保するツールを維持し続ける。このように考えてみると「友情」とは一見すると、「友情の構成員」(「私」と「あなた」)の相互承認が不可欠のように見えるが、実は「超私的」な消費行為に過ぎないのではないかと考える。
このあたりで、一旦ブレイク。
友情を「超私的な消費行為」として、(あくまでも)彼なりの消費社会学的に分析したわけですね。また、ここでいう友情には「契約書」のような公的文書も存在しないと言い放っていることから、婚姻というモデルともやや異なるようですね。
友情は、タテ型?ヨコ型?
このような特異な性質を帯びる「友情」であるならば、「階級制度」や「身分制度」とは一線を画しているべきではなかろうか。階級制度や身分制度とは、いわゆる「タテ」の構造体として認識されており、多くの場合、「私」という存在はさほど重要視されていない。なぜならば、「タテ」の構造を構成する因子のうち、より“上”にある(いる)、ごく一部の少数が権力を握り、意思決定の裁量を含蓄しているからである。なお、この構造体においては、特定かつ訴求性の高いミッションを遂行するための、強固な紐帯が担保されているとみることができる。
他方、友情関係は「ヨコ」の構造体として認識されている。いわゆる「ネットワーク型」のつながりである。「タテ」との違いは、ネットワーク内部でそれぞれの「私」が串刺しの状態となり、比較的「私」が裁量権を保持している点であろう。なお、この構造体においては、単発的かつ“ゆるい”状態が担保されているとみることができる。とりわけ現代日本社会に置換してみると、「伝統的な社会構造」は徐々に崩壊しつつあり、急進的なグローバル化に伴い、「個人主義化」が進行している側面がある。一般に、「グローバルな感覚」というものは、「他者との違い」を希求していると考えられているのではないだろうか。また、消費社会は「価値」に重きを置かれており、その価値が消費の対象となることで、経済圏が構築されている。この社会には、資本主義的なプロセスが不文律となっている節がある。
まさしく「大抵のモノは、お金で買うことができる」という社会であろう。「貨幣」という揺るぎない信頼の対象が至極当然に世の中に蔓延しており、それ自体が「常識」となることで、全国民、また形状は異なっていたとしても、たいていの人類に共有されているのである。
さて、奇妙な(?)論理展開がだんだん面白くなってきましたね...。
現代の消費社会は、「価値に重きを置いている。」という風に捉えてみたことで、まさしくみんなに信頼を置かれた貨幣価値の在り方に対しても何かを感じ取ったようです。
友情を信仰している?
友情を消費しているとして論を展開していく前田青年。ようやくここからレポートの山場を迎え、友情消費者(フレンドシップコンシューマー)のメカニズムを解き明かしていくのですが、今日はとりあえずこの辺で終わりにしておきます。
もし万が一、続きが気になるという稀有な方がいらっしゃれば、明日以降のnoteをお待ちくださいませ。
お粗末様でした。