おばあちゃん
日々はあっちゅーま
#27,おばあちゃん
僕のおばあちゃんは、僕のおじいちゃんが脳溢血(のういっけつ)で亡くなった後、毎朝1日も欠かすことなく、仏壇の前で般若心経を唱えていた。
朝、僕が自分の部屋でうつらうつらしていると、チーンと音が鳴り。
次におばあちゃんのしわがれた般若心経が聞こえてくる。
羯諦(ぎゃてい)羯諦(ぎゃてい)願わくばこの功徳を以って普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん
僕のおばあちゃんは、若い頃は結婚して満州に住んでいた事があるらしい。
戦争が終わる頃、旦那さんを亡くして帰国したおばあちゃんは、再婚して今の大宮の家にやってきて、僕のお母さんを産んだのだそうだ。
「若い頃はずいぶん苦労した人だったんだよ」とうちのお母さんは言っていた。
僕がまだ小さかった頃、お母さんは陶芸の仕事で忙しかったから、いつもおばあちゃんが代わりに僕の面倒を見てくれていた。
背中におんぶ紐をくくりつけて僕をおぶりながら、わらべうたを歌って聞かせたり。
近くの薬師堂まで一緒に散歩に出かけて、小川でザリガニを捕まえたりして遊んでた。
僕が幼稚園に上がってお弁当を持つようになると、おばあちゃんがお手製でお弁当をこしらえてくれたんだけれども。
周りの友達はみんなミッキーマウスとか、アンパンマンのお弁当箱だったのに、僕のお弁当箱だけ、ゴツゴツしたアルミ製のお弁当箱で、しかも新聞紙でお弁当が包まれていて。
それを見た僕はあまりの悲しさに大泣きして大変だったらしい。
僕のお母さんはそれを聞いて、あわててスヌーピーの巾着袋を近くで買ってきて、次の日からそれで僕のお弁当を包んでくれたのだそうだ。
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おばあちゃんは畑仕事をすることが生き甲斐の人で、いつももんぺを履いて、手ぬぐいを被って、熱い日差しの中、せっせと草取りをしていた。
おばあちゃんは雑草を見つけると目の敵のように抜いていたから、庭の前の畑はいつも雑草ひとつ生えていなかった。
そうやって丁寧にこしらえた野菜を、お茶の間の机の上に敷いた新聞紙に広げて。
好きなテレビを観ながら、とうもろこしの皮を向いたり、いんげんのスジを取ったり。
そうやって下ごしらえしているのが生き甲斐の人だった。
お風呂に入る事も好きで、週に1〜2回、近くのおじいちゃんおばあちゃんが集まるスーパー銭湯「湯の郷」に遊びに出かけては、薬湯に浸かったり。
カラオケを歌ったり。
たまにやってくる地方営業の若手演歌歌手のミニコンサートを風呂上がりに聴いたりする事が、幸せの人だった。
僕のお父さんも、お母さんもテレビが嫌いな人で、ご飯の時も、その後もテレビはつけなかったから、自然とおばあちゃんとばかりテレビを観るようになった。
だから、「NHKのど自慢」とか「笑点」とか、好みが学校の友達と全然合わなくて苦労したのを覚えている。
学校の友達は「ダウンタウンのごっつええ感じ」とかの話で盛り上がっているのに、僕は加われなくて、何だか置いてけぼりをくらったような気分になっていた。
そんな中、お笑い芸人の岡村と矢部が出てくる「めちゃめちゃイケてるッ!」っていうバラエティー番組が土曜日の夜に始まって、クラスの男子も女子も夢中になって「めちゃイケ」を観始めた。
月曜日になると、クラスでめちゃイケの話で盛り上がったり、お笑い芸人が巨大なハリセンで叩かれる罰ゲームを真似して、男子が紅白帽で友達を叩いたりして大盛り上がりだった。
この時ばかりは、僕も乗り遅れてはいけない。
と思って、ご飯中はテレビ観ない約束だったけどお願いして、めちゃイケを観せてもらった。
ポカーンとしながら画面をみるおばあちゃんを前に、ご飯を食べるのもそっちのけで、めちゃイケがいかにクラスで流行っているのか、僕は頑張って力説した。
でも、実際に学校に行くと、今までの笑点好きのキャラから中々抜け出す勇気が出なくて。
結局最後まで、めちゃイケを観ている事は、クラスの皆には言えずじまいだった。
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中学校に上がると、僕は電車通学で、早起きしなければならなかったから、一層おばあちゃんに頼りっきりになった。
朝、ベッドでうとうとしていると、いつもの般若心経が聞こえてきて、それが終わると部屋のドアがスッと開いて。
「ゆうちゃん、起きる時間だよ」とおばあちゃんが顔を出した。
おばあちゃんは、台所でハムと卵を焼いたり、冷蔵庫から佃煮を出してきたりして、僕とおばあちゃん、2人分の朝ごはんを用意してくれていた。
初めの方こそ、おばあちゃんと一緒に食卓を囲んでいた僕だったけど。
段々と高校に上がる頃になると、朝起きるのもしんどくなってきて。
反抗期にもなってきて。
朝ご飯には手をつけずに、水だけ飲んで、家を出ていく事が増えた。
あの頃、ろくに口もきかずに不機嫌そうに家を飛び出していた孫を、おばあちゃんはどういう気持ちで見送っていたのだろうか。
たまに思い出したように玄関先で僕を呼び止め、
「水だけじゃお腹が空くだろう?」
と言って、小銭を握らせてくれたおばあちゃん。
その度に、なんだか悪い事をしているような気持ちになって、胸の奥がチクリと痛んだ。
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そんな僕にも、高校3年生の時に初めて彼女が出来て、ちょくちょく家に連れてくるようになった。
おばあちゃんはそれがとっても嬉しかったようで、僕の顔を見るとしょっちゅう「彼女はいつ来るんだい?」「彼女はいつ遊びに来るんだい?」
と口癖のように聞いてきていた。
それからすぐに、おばあちゃんは認知症が進んでしまって、僕の名前も思い出せない事があったけど。
それでも最後の最後まで「彼女はいつ遊びに来るんだい?」って聞いてきたっけ。
僕が大人になって、一人暮らしをする頃には、すっかりおばあちゃんの認知症も進んでいて。
あんなに生き甲斐だった畑仕事も億劫(おっくう)になって来て、家でテレビばかり観ている時間が増えた。
親しい友達や、親戚もどんどん他界して、湯の郷に遊びに行く事もなくなった。
僕のお母さんは、それでも仕事の合間を縫っては、おばあちゃんを草津とか伊香保とか、温泉によく連れて行ってあげていたけれども。
ある日、台所で火を使っていた事を忘れて、鍋を焦がしてしまった事がよっぽどショックだったおばあちゃんは、料理もピタリとやめて、一層外に出なくなって、家で過ごすようになった。
僕がたまに実家に戻って声をかけると、おばあちゃんは縁側に座って畑を眺めながら。
「もう今は息をしているだけだから」とか、
「あとはお迎えが来るのを待っているだけだよ」って言って、じっととしていて。
僕はそれに対して何と言っていいかも分からなかったから、「そっか」とだけ言って、黙っておばあちゃんの横に座って畑を眺めていた。
そんな言葉が本当になったのか。
それから間も無くして、おばあちゃんは縁側でつまづいて足を骨折して。
さらに入院した病院で肺炎にかかってしまって、みるみるうちに衰弱していった。
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そうして2006年、年末の寒い夜。
僕のバイト先におばあちゃんの危篤を知らせる電話が入った。
病院に駆けつけると、ガリガリに痩せて骨と皮だけになったおばあちゃんが、静かに目を閉じて眠っていた。
「これが最後になるからお別れをしておきなさい」とお母さんが言い。
僕は病室でおばあちゃんに別れを告げた。
仕事で忙しかった両親の代わりに、ずっと僕の面倒を見てくれたおばあちゃん。
畑仕事が生き甲斐だったおばあちゃん。
おばあちゃんにとって、人生とは一体、何だったのだろうか。
僕はもっと、おばあちゃんにしてあげられる事はあったのだろうか。
今でも目を閉じると、仏壇の前で手を合わせるおばあちゃんの姿が。
耳を澄ますと、しわがれた声の般若心経が、まるで昨日の事のように心の中にありありと蘇ってくる。
羯諦(ぎゃてい)羯諦(ぎゃてい)願わくばこの功徳を以って普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん
(もしできるのなら、私が行うこの善行を あらゆる人々にも振り分け、私も、すべての人々も皆、平等に成仏できますように)
おしまい