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普通とは一種の共通言語である。

タイトルの通りである。


この一言に尽きる。


小さい頃から私たちはそのような教育を受ける。動作、言葉遣い、思考、ありとあらゆることを平均に近づけようとする。それは、習慣、服装、マナーまで多方面にわたる。


だからこそ、外に出て周りを見ても当然だと思う。周りの人は自分たちと同じで、問題のない人である。

学校という枠の中で、それは加速する。共通言語が話せないと、邪魔者になるからだ。そして成績優秀者と落第者は、「普通外」と判断される。スポーツなどでもそうだ。そして、共通言語が上手な人は羨望の的となり、下手な人は排斥に近くなる。

「面白い人」というのも同じである。「共通言語」を理解して、その度合いを調整できる人なのだろう。

目に見える「言語」を取り除けば取り除くほど、楽になることがある。そして、そこから外れないか「不安」になることもある。

取っ払えば良いのだ。普通の範囲内で。
もちろん普通ではない言語でその世界に生きることも可能。

言語を切り替える能力を我々は身につけているのだ。

変なところを出すと、オリジナル言語になり、理解されないことが多くなり、グループも減る。ただし、それを突き詰めていけば研究者のような立場になることもある。しかし、世界に1人という言語は貴重である。それは存在するのかと疑うこともあるだろう。

他の人から何か言われようが、私の言語に誇りを持っているだけで良い。法律などの「普通」の範囲内なら問題はない。


さあ、今日も標準語を話しながら、オリジナル言語研究にいそしむとしよう。(新しく開発しても面白い!




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