横たわるベア、過ぎ去る人、だがその顔はどちらも見えない。
散歩をしていると、いろんなものが捨てられている。
こちらのあるあるで言えば、便器が捨てられていることが往々にしてある。この前は、バイクのフルフェイスマスクが捨てられていた。
日本で過ごしている中では、めったに見られないようなお宝に出会うのがここ中国の楽しみである。
本日、見かけたのはこのベアである。
なぜ捨てられているのか。
背中を向けているのはなぜか。
新しいものを買ったのか。
顔はどうなのか。
いろんな疑問が出てくる。
誰もそれに答えてくれないし、誰も気に留めない。
人々はいつもの日常を過ごすために見向きもしない。その通りである。私たちの生活にとって、このベアは何の意味も与えてくれない。
それよりも今日の買い物だったり、料理だったり、子どもの迎えが大事である。そちらの方が、私たちの生活に大きく関わるだろう。
こうして、縁が絶たれると、何事もなかったのように横たわる。誰も気にしない。私もそうだろう。
そうすると、我々は「つながり」のために生きているのだろうか。「私のため」という理由を掲げているものの、実際はそうなのか。
「つながり」をいかにして意識していくのか。そして、他人に頼るのではなく、適度な関係を保つものとは、一体なんなのか。
答えは「ない」である。そんなことを考えたとして、何も見つからない。理不尽な現実に憂鬱になるか、答えを永遠に探すか、迷宮に迷うのだろうか。
今日はやけにレクイエムが心地よく響く。
なぜ、この曲を聴くと、手汗をかいてしまうのだろう。