A=B not B=A
当たり前のことを書くことにする。
この数式は正しいのか、正しくないのか。
ということを考えると非常に面白い。
もちろん、これだけだとこれは
間違っていると分かる。
しかし、言語的に見ると面白い側面が見えてくる。
例えば、
リンゴは果物である。
A=B
とすると、
果物はリンゴである。
は成り立たなくなる。
ははあ、集合体のことね。
とすぐにお気付きになるだろう。
すなわち、
「果物(の一つ)はリンゴである。」
とすべきなのである。
ここまでが言語の楽しいところで、
ここでは少しひねり(といっても大したことではない)
を入れてみると、
Aは絶対的な権力をもった唯一無二の存在で成り立っているのが、
「果物はリンゴである」と考えることはできないだろうか。
これを逆にすると、
集合体(すなわち大衆)から見たリンゴは、数ある果物の中の「一つ」でしかないということが分かると思う。
少し歴史的な解釈になったことは否めない。
これを昨日、親友と話していた時に気づいた。
これを応用として見るならば、(独断と偏見)
憲法から見れば、全ては「守る」べきものになる。
我々から見ればどうなるだろうか?
となった時に、憲法をわざわざ一つずつ吟味する人は
非常に少数であろう。
そうすると、考えられることはサイト、本や研究者などを通して理解しようとする。そうなると「複数」の「憲法」が存在することになる。
そこで原文などに遡って自分で判断しようとするというのも正しい。
その際はA=B、B=Aを意識しながら、その中に入っていかなければならない。なぜなら、「私」ですらも、「複数」を生み出す一つに過ぎないからである。
そのため、「絶対」を生もうとすると、A=Bに偏ってしまう。
A=Bの文章を読んでいくとどうしても、引っかかりが出たり、疑問が出たりする。なんとも難しい操作をしなければならない。
さて、次に「リンゴは果物である」を少し変えてみたい。
例:「孔子は儒者である」をA=Bと設定すると、
B=Aは「儒者の一人が孔子である」となる。
この「である」の活用や「儒者」を変化することで、
異なる文章が何パターンもできることが分かる。
「リンゴは果物である」は「である」が強烈につながっているが、
「孔子は儒者である」は近い言葉で言い換えが可能である。
「孔子は儒教を教えた」としてみよう。
「儒教を教えた人は孔子である」となる。
さて、これは本当に「正しい」のかという疑問が出てくる。
「儒教」体系を整えたのは孔子だろうか?
「考え」を教えたのか、「行動」を教えたのか?
「誰に」教えたのだろうか。そもそも「教える」の概念はどこまで適応されるのか。
など様々な目線からこの文章を考えることができる。
概念をひっくり返すことで、世界はこうも複雑に、面白くなる。
という気付きだった。