夏休みと模倣
たまに自分が誰かの模倣をしてるのではないかと思う。生きていく上で少なからず誰に影響を受るのは当たり前だけど、自分の選んだ物や作品は他の誰かが好きな物であって、本当に自分が好きなのかと考えると、時たま疑問を感じてしまう。
そして誰かの模倣をしている私を、また他の誰かが模倣し、コピーされ続けた感性の先にはどんな人格を持つ人間が待っているのだろう。つまらない人間なのだろうか、それとも模倣で固められた感性は、逆にオリジナルに成り得るのではないだろうか。
そもそも世の中には素敵な物が溢れていて、自分の好きな物さえ探すのは困難だ。聳え立つ「素敵」が山積みされた物の中から、センスのいい人は時間もさほどかけず簡単に本物を手に取る事が出来る。私の様な人間は、何度も吟味し、他の物と比べ、日を跨ぎ、何度も考えた挙句、ニセモノを掴んだりする。探す事が好きな人もいるだろうが、私は簡単に好きな物を手にしたい。この労力をあまりかけない事が、苦労もせずに他人の模倣をして、自分の好きを手に入れる怠け者の行為なのだと思う。好きな物を探すのに何で努力をしないんだ、と自分でもつくづく呆れてしまう。
十歳の夏休み。福岡の祖父の家に1ヶ月以上滞在した事があった。家の前には小学校があってグランドは解放されていたから、毎日のように遊びに行った。昇り棒に登り、タイヤの跳び箱を飛び、飼育小屋のうさぎに家から持ってきたキャベツをあげる。でも長期滞在なのに遊び場がこの小学校のグラウンドしかない。すぐに飽きる。祖母の夕飯の手伝いをしても時間は余るし、そもそも母は実親である祖母があまり好きではなかったから、必要以上に仲良くすると機嫌が悪くなった。空気を読まなければいけないのも面倒で、家の中でさえ居心地が悪い。近所には同年代の子供もおらず、国道が近くを通っていて、そこを越える事は禁じられていた。
行動できる範囲内で探索する。横浜にはない大きい用水路を覗き込んだり、古い民家をぼんやりと眺めたり、そうしてる内に大きな公民館を見つけた。館内は冷房がきいていて、男の職員さんが一杯の麦茶をくれた。「そこにタンクがあるから、好きなだけ飲んでいいよ。でも飲みながら歩かないでね」小さな蛇口がついているブルーの大きなタンクを指しながら、優しい職員さんはそう言う。その公民館には小さい図書室があって、児童書が沢山並んでいた。冷房もきいてる、飲み放題の麦茶もある、本も沢山ある、家からも遠くない。
私は毎日そこに通うことにした。朝ごはんを食べて、祖母からキャベツをもらい、飼育小屋のうさぎにご飯をあげ、タイヤの跳び箱を跳び、グラウンドの中央で無意味にくるくると回る。そうしている内に公民館が開く時間になる。中に入って職員さんに挨拶をし、麦茶を飲んで、棚の端から順々に児童書や童話を手にとって読み進めた。お昼は一旦家に帰って食事を取り、また公民館に戻る。夏休み中そんな生活を繰り返した。
夏休みも終わりになり、そろそろ横浜へ戻るという頃、すでに100冊以上の本を読んでいた私は、一番最初に読んだ棚の端にあった児童書を手に取った。表紙を見ても何の話だったのか思い出せない。この本だけではない。本棚を眺めても色んな話が自分の中でごちゃ混ぜになっていて、記憶を呼び起こす事が困難になっていた。憶えている本はペローの「仙女」とベアトリ・ベックの「ガラスちゃん」その二冊だけ。
これだけ本を読んだのに、記憶が定着しておらず自分に心底ガッカリした。琴線に触れたのがこの二作品だけだったのかも知れない。でもそれではあまりにも酷すぎる。
大人になって図書室の本を片っ端から読むという時間のかけ方は出来なくなった。適当に手に取ったものにアタリハズレを単調につけて、憧れのあの人の真似をして、本を手に取ったりする。素敵の山はいつだって目の前に聳えている。私はその山を面倒くさいと思ったりする。全てを吟味したって、憶えていられないのだから。