「〇〇とは何か?」と考えるのは、名詞が怖いから。
「〇〇とは何だろうか?」
何かの折にフッと考えてしまうことがある。
もし、「〇〇」が「机」や「ラーメン」ならば、それほど悩まなくて済んでしまうかもしれない。
もちろん、家具職人に言わせたら「『机』って、奥深いんだよ」となるかもしれないし、ラーメン道を追究する店主ならば「一言で言いきれるようなもんじゃねえ!」と睨みつけられるかもしれない。
人によって違うけれど、「〇〇とは何か?」を問いながら生きている人は少なくない。だからビジネス界の寵児が開催する「経営とは何か?」というセミナーが人気だったりする。
でも、「机は机だろう?」「ラーメンはラーメンさ」と言う人の気持ちも分からなくはない。問うほどのことか? と思っているからだ。
問う必要がないほど分かり切っていると考えるのは、〇〇が名詞だからだ。誰が見たって、時代が変わったって、〇〇以外に言いようがないじゃないか!
むしろ、「速く走るには?」「がんばって店を出すには?」「何とかして金をかき集めるには?」という動詞の絡んだ問いかけのほうが考えやすい。動詞は自分に対して具体的に働きかけてくるからだ。
名詞だから、皆に共通する言葉だから、はっきりと分かっているから、考える必要がない。一見、論理的で正しく思える。分かっていることをあえて考えるなど、そのほうが分からない。
ところが、現実は論理的ではない。
人は分かっているつもりのなかで暮らしている。「蟻」と言っているだけで蟻のことをほとんど分かっていない。「マリーゴールド」も、言われてみれば麦わら帽子みたいだなと思うくらいで実は何も知らない。
そう、名詞でありながら何も分かっていないくせに堂々と使っている。いや、逆だ。よく知らずとも手軽に使える便利な言葉として名詞があるのだ。もし名詞がなかったら、いろんなことを長々と説明しなくてはいけなくなるし、共通イメージが持てなくなる。一言の会話に何十分もかかって疲れ果ててしまうかもしれない。
だけど、それが名詞の怖さ。長い説明を圧縮した便利な名詞であるがゆえに、実態が分からなくなるという事実もしっかり押さえておかなくてはいけない。分かりやすいと思えるものほど分かったつもりになりやすい。分かったつもりを重ねていくと虚しい自分が出来上がる。
だから問う必要がある、「これはいったい何なのだ!?」と。
「机」や「ラーメン」はその道の方々にお任せするとして、普通に暮らしている者同士に共通性の高い、けれど分かっていない領域満載のことは山ほどある。「お金とは何か?」「友人とは何か?」「仕事とは?」「愛とは?」「成長とは?」「生きるとは?」「死とは?」などなど分からないことだらけ。それなのに、分かったつもりになっている。ボーっと生きている。
食べやすく “加工”された言葉、それが名詞だ。
「加工品ばっかり食べてると体に悪いわよ!」という母親の口癖を思い出しては、気になるものの中身はチェックするようにしている。「この〇〇は私にとって何なのだろう?」と。