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岸田秀「すべては幻想である」

人の目に見えない極小の物質世界では、その物質の厳密な位置も運動量も測定できない。この「不確定性原理」はハイゼンベルクが最初に唱えた。
ちゃんと見ようとすると強い光が必要になってくるが、その光のエネルギーが粒子に影響を与えてしまうため、位置も運動量も不確かになってしまう。日常生活レベルでは光が当たっても物質は動いたりしないから問題はないが、物事の理(ことわり)としてはそのようになっている。
心理学者の岸田秀氏は「すべては幻想である」と唱えた。人はあらゆる関係をそれぞれ自分の幻想で捉えている。そうなってしまうのは、動物としての本能が壊れているからで、生きていくためには壊れた本能の部分を幻想によって補うしかないのだと氏は言う。
物理的な事象も確かなことは分からず、皆が真実など知らずにそれぞれ違うように見て人類の歴史を生きてきたのだとしたら、むしろ奇跡的なことなのかもしれない。「まあ、だいたいこのくらいのところで」「とりあえず今の段階ではこんなふうに考えておきましょうか」「委託された私たちの中で最も数の多い幻想を採択して進めましょう」……そんなあいまいさが世の中を成立させてきたのかもしれない。
不確かであることが悪いわけではない、だからと言って、じゃあ好き勝手でいいんだなと開き直ることでもない。不確かな中で生きているという実態を分かっておけば、そのうえで「人としてどうするか」と考えていく道が見えてくる。幻想でしかないことを絶対的なものと信じ込んで「こっちのほうが正しいのだ」などと考えると衝突するだけだ。
「幻想の中で私たちは生きている」と知っておくと、少なくとも二つの効用が生まれる。
一つは、幻想なのだから、そんなものに執着しなくていい。
もう一つは、その執着から解き放たれた先に、違う見え方の獲得が始まる。新たな見え方も幻想だとしても、一つの幻想に決めつけずにいろんな幻想を味わえばいいではないか。凝り固まった思考ではなく、緩やかな態度に変わる。正しくは、緩やかに自分の思考を眺められる、ということ。
「あの人に仕事を押し付けられた」と思っていたことは幻想で、「あの人は私に基本的なことを経験させた」と考え直すことだってできる。自分が楽になるならそのほうがいい。
「あの人に申し訳ないことをした」と思っていたけれど、その後悔が「私をプロフェッショナルに育ててくれた」と言えるかもしれない。
「群盲ゾウを撫でる」と言うが、たくさんの幻想を持ち寄れば「ゾウ」という像(!)が浮かび上がるかもしれない。
だから幻想を嘆く必要はない。執着を脱することと、持ち寄り方の問題である。
むしろ、皆が真実を見抜く能力を持つよりも、幻想の中で遊び尽くせる思考の自在さを身に付けたほうが、人の中はうまくいくのかもしれない。

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