悩める力があるって、いいんじゃないかな。
見極められないから迷い続けるのがほんとうのあり方ではないのか。
例えば、「善悪」。
善なる人になりたい、善なる人生を送りたい、善なるものを多く所有したい。多くの人はそう考える。
悪は嫌いだ。悪なるものには近づきたくない。悪なる自分であってはいけない。そう思っているは少なくない。
善悪は、ほんとうにいつでも必ず善悪なのだろうか?
だって、食べるものに困っている子どもに食べさせたいから盗むこともあるし、極悪人を手術して長く生きられるようにすることもある。善悪を簡単に言えないことって、けっこうある。
でも、善悪はある。なぜだ?
善悪のおおよその線引きはあるけれど、簡単に当てはめられることではない、というのが事実なのもしれない。
むしろ、善悪を超えるために、とりあえず善悪の概念を用意してあるのかもしれない。
ましてや、誰かが善だと言ったから善であるとか、法律が悪だと言うから悪だとか、そういう決定の仕方はその範囲の中でのことで、「絶対的な善」とか「絶対的な悪」は、言うほど怪しくなる。
ただ、ある範囲でくくらなければスムーズにいかないから「この会社では」「この国では」「うちの家族の間では」という“それぞれの状況に応じた”善悪の取り決めをすることになる。
ちょっと脱線すると、『鎌倉殿の13人』(NHK)では、北条義時の手先となる殺し屋が登場するが、北条の敵方に付いていたこともある。それがなぜか「善」児という名前。これはアイロニーか、はたまた単なる深読みか……。
それはさておき、ある範囲の中での善悪の取り決めはあるが、ほんとうは簡単に善悪を決めることなど不可能で、だからずっと考え込むこともあり、問題が解決しないことになる。スムーズにいかない。
そう、スムーズにいかないということが人のほんとうのありようで、スムーズにいくために善悪を決めるのは本末転倒の気がする。
自分の子に食べ物をあげられなくて餓死させてしまった親は、一生、そのことを考え込んでしまうだろう。誰かの食べ物を盗んで与えればよかった、と思うかもしれない。
そんな自分を責める親を世間が「盗まなかったから善だ」と評価したところで、当の親は「盗んでも、悪人になっても、食べさせたかった」と考えているとしたら、「善であること、悪であること」を決めるのはいったいどんな意味があるだろう?
(そこはさあ、割り切ってね、仕方なかったと思うしかないでしょう。そうしないと生きづらくなってしまうよ)
そんなふうに言う人もいるかもしれない。スムーズに生きることが大事だとする賛同者はとても多い。
だけど、生涯、自分の選択を後悔して、子どもに申し訳ないと思って苦悩する親を、意味のある生涯だと私は思う。
そこにはもはや善悪の価値基準など入り込む隙間はない。自分はほんとうに親であったのか? という大疑問があるだけで、世の中の決める善悪で悩んでいるわけではないはずだ。
むしろ、スムーズではない態度で苦悩する結論の出ない迷いにこそ拍手を送りたいくらいだ。その迷い続ける体力がなくて、すぐに結論を出すのが大半なのだから。
だから思う。世の中の価値とは無関係に自分事の問題として苦悩し続ける人にこそ、人としてのほんとうの課題を見せられている、と。
親である人が「自分はほんとうに親であったのか?」と問う。スムーズに生きる人には問う必要のないことだ。当たり前だとしか思えないだろうから。
でも、ほんとうに親であったのか? と問う先にしか、ほんとうの親になることはあり得ない。その大疑問の持ち抱えだけが人にとって「ほんとうのこと」のように思える。
便宜上、善と悪、そう呼んでおくと話がスムーズだ。どれが善でどれが悪か容易には決められない世界に人間は生きているし、きっちりと善悪を決めることに執着するのは決して善ではない。
昔の人が言った、「悪を嫌うを善じゃと思う、嫌う心が悪じゃもの……善きも悪しきも一つに丸め、紙に包んで捨てておけ」。それくらいでちょうどいい。
見極められない、だから迷い苦悩する。その迷い苦悩するあり方という「ほんとうのこと」を生きる、だからいいのではないか。
またまた『鎌倉殿』。
仏師・運慶が義時に言っていた。ざっくりとこんなこと。
「おまえ、顔が悪くなったな。迷いがある。迷いが救いだ。お前のために仏を彫ってやりたい」。
迷い(ほんとうの人のありよう)が救い、とはそういうことなんじゃないか。