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綺麗事、死ね

綺麗事を言うやつは全員今すぐに視界から消えてほしいと思う。SNSを眺めていると必然的に目に入る綺麗事。見る度にイライラしてイライラして仕方ない。無意味。幻想にすがってなにが楽しいのか?俺からしたらただただ気色悪くてマヌケな御託にしかみえないしそう感じることしかできない不可能。阿呆の馴れ合いと変わりないだろう。綺麗事を駄弁って一体何になるのかと昔からよく疑問に思う。現実から逃避して、甘えたことを言って、それに共感して、馬鹿みたいじゃないか。とか思うしこうやって言っているけれど実際はそうやって見下している自分が誰よりも自意識過剰で口だけは達者な綺麗事にもなれない夢物語に溺れている馬鹿なんだという現実


昼食を済ませながらふとtwitterのTLをスクロールしていたらこんなふうな内容のツイートが目に止まった。

『職場の人に出産予定日を聞かれ3月上旬だと答えたらギリギリ4月生まれになれなくて可哀想と言われたが何が可哀想なのか理解できない』

これが何気ない会話の一片だとしたら、次に自分の口から出てくる言葉は 死ね だっただろう。僕は3月下旬生まれでいわゆる早生まれなのだが、幼い頃からずっと 自分は生まれた頃からずっと絶対的な比較対象である周りよりも劣っているがそれはどうしようもないことなのだという劣等感に呪われてきた。両親は早生まれにしてしまったことを申し訳なく思っているのか幼稚園に入学したばかりくらいの年齢の時から 足が遅いのは早生まれだから仕方ない などと励ましの言葉を僕に投げかけていたがそんな言葉でどうにかなっていたら俺は悩むことも考えることも気にすることもしてないんだよって言いたいし
生まれてくるだけで素晴らしいとか愛だとか奇跡だとか言うけれどこれが綺麗事の最高潮にしか思えないしそうにしか見えなくて苦しい 新しい生命の誕生自体が美しいことなんだから可哀想とか死んでも言うなよってことなんだろうけどそんなあまりにも無責任なこと俺には解せないし理解したくもない
生まれた側はどうすることもできない理不尽を抱え込まなきゃいけないのになにが美しい?素晴らしい?どう考えても可哀想だろうがと言いたい がここまで固執する俺は多分早生まれを言い訳に失敗や困難から救われたいだけだから死んでほしいし死ね

いくら死ねって言ったって生きてるだけで素晴らしいって綺麗事言ったって生きたくても生きることができない人間がいるから死んじゃだめだって言われたって最終的には全部現実世界でどうなるかだと思っているので俺が綺麗事を好きになることは生涯ないし綺麗事如きに感化されて涙するとかした日にはもうそれは自分自身じゃなくて綺麗な何でもない名前のない概念





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