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僕の奥能登支援をめぐる旅 つづき→


一人称と旅


こんにちは、風です。
前回、能登の支援のことを記事にまとめてから半年が経っていました。
そしてもうそろそろ1年が経ちます。また書く時期だと感じ、もう一度まとめます。

ちなみに前回この記事のタイトルを何の気なしに「僕の奥能登支援をめぐる旅」としたのですが、最近主語が「一人称」であることの大切さに改めて気づきました。それぞれが、それぞれに能登との関係性があり、大きな「復興」という2文字の下で、全員立場が違いながら活動している点においてです。そして「」とした部分も、やはり通い続ける中でどこまで行っても、僕は住民ではないよそものだと感じます。直接被災していなく最後の最後のところで、被災された方の気持ちが体験的には分からないのです。ボランティア団体でも、復興事業者でも、住民でもない僕は「旅」人なのだなあと。
プロが入った方がいいところはプロに任せつつ、個人である僕の役割は、ゆるくただしっかりと能登と他の地域のつながりを作っていくことだ、と考えています。




〜4月までの活動まとめ


大まかにまとめると1月1日から動きたかったものの、仕事が入っていた関係で3月まで能登へ向かえなかった。動きたいのに動けない、そして「くるな」という強いメッセージが発せられ、少し行くのを躊躇していた。
それでも行かないことには、気が収まらないと3月に大工さんと一緒に向かった。4月にまた向かうときに合わせて、募金を呼びかけ4月から食糧支援などを行っている。詳しくは↓の記事にまとまっているので、ぜひ。




どうぞのいす


典座からもらってきた廃材を切らずに、組み立てた。

 4月の能登から帰ってすぐ、典座の一郎さんからもらってき廃材から椅子を作る。いつもの手の込んだ作り方ではなく、もらっってきた材料を感覚で組んでビス止めしていく。これは1日でできたので、自分の家の前に設置することにした。余った材料を看板にして絵本「どうぞのいす」を再現してみた。妹と看板を描き、能登の災害ゴミから作りましたの一文を添えて。
するとたちまち保育園の子どもたちや小学生が群がり、何かを持ってきたら、ここにおいてあるものと交換するんだよと説明すると、みんな花やら植物を持ってきた。これは一つの実験としてまだ設置している。


ビックビーチマーケット


2021年に目指して歩いた、寺家の舟屋

 5月になるとすぐに尾道市の因島へ向かった。友人が企画するマルシェの会場装飾のためだ。能登に居たいところを、広島に向かったので何か関連するものを作らねばと思い、メイン会場に能登の船小屋を作ることにした。
3年前に一枚の船小屋の写真を求めて、珠洲を歩いたのを思い出した。材料はそこらへんで手に入るもの。昨年は竹を多用したので、今年は無慈悲に伐採されてしまったという島の街路樹から。近くの公園から軽トラ二杯分くらいの原木を拾ってきて、海の見える小屋の前で制作。とにかく時間がないし、一人なのでこれも即興で組み上げていく。不本意に切られた枝に、命を吹き込むようにして、動物とかゲートとか。お祭り前日から船小屋作りにあたり何とか完成。小高い丘の上から船が出るように。帆船に見立て旗は輪島市仁行の仁行和紙から仕入れてきた和紙を。その昔、北海道から能登を通って瀬戸内まで北前船の航路だったみたいだし。祭り中はすこしの展示物を作ってきてくれた人と少し能登の話。


船小屋に帆船。輪島の和紙に風を受けて。


望む先には瀬戸内の海



ろくろ小屋作り 5月(第2工期)


床、壁、屋根全て断熱をする。

4月から始まった、典座の伏見窯横の小屋再建プロジェクトの第2工期。このタイミングで東京から友人が5人ほどきてくれてみんなで小屋作り。屋根を張り、床下や壁に断熱をつめ、窓を取り付けた。人手が余ることはないんだけど、ずっとここでは可哀想なので一人づつ順番にあみだ湯という銭湯に送り込んだり、珠洲一周ツアーをやったりした。季節も暖かくなりようやく少し楽しいかも、と思えたのを覚えている。夜はチャリティーでやってくる
旅芸者みたいなのがいて、傾いた寺の境内で地元のおっちゃんたちとそれをみたりした。町内の人たちみんな集まってきて、久しぶりに外でお酒でも飲むようで、そこにボランティアの僕らが混ざって楽しかった。そして本当にこういう一つ一つが力になるんだと改めて感じた。

チャリティーイベントが乱立していた。写真は光安。

後半は典座2階にあった古材を製材し、外壁の鎧ばりをしていく。
まず一面やってみると案外簡単で要領を掴んでいく。キシラデコールを塗って、切って貼っていく。帰る前日は26時まで粘ってなんとか4面張り終えた。最後まで付き合ってくれた友人たちに感謝だ。5月はこれで切り上げ。

典座の2階に保管されてた古材から、製材して鎧ばりにしていく。


ろくろ小屋作り 6月(第3工期)


6月は友人が一人同行してくれたので、金沢駅で待ち合わせしてバスにて珠洲を目指す。5月に来てくれた友人の一人は、1日だけ行ったあみだ湯のみんなと仲良くなり、自分が働いてる東京の銭湯(電気湯)の店長と副店長を連れてやってきた。能登で初めまして。その3人はあみだ湯を拠点に動いている。


イルカの絵がランドマークのさいはてのきゃばれー(元連絡船の待合所)


こっちは小屋づくりに励む。まだ終えられてなかった仕舞いと扉をつけたり天井を張ったりする。扉をなんの古材の建具で作ろうか思案していたところ、信子さんが「さいはてのきゃばれー」が取り壊されるというのを聞き、そこからなんでも持って帰っていいとのこと。一緒に取りに行く。元々珠洲市と佐渡島を結ぶフェリー(今は廃業)の待合室だったこの建物は、奥能登芸術祭によって「さいはてのきゃばれー」として使われていた。イルカの絵が印象的な建物だ。港に面し、水面が近いこともあって、周辺の駐車場の地盤はぐちゃぐちゃ。さらに津波がきゃばれーを襲い、窓はバリバリに割れ地盤沈下した店の前は水浸しになっていた。そんな中から食器類や金属製の家具などをレスキューする。木製のトイレの扉なども無事だったので、ネジを外して扉もレスキュー。これなら小屋にピッタリ収まりそうだ。早速持って帰って、その日のうちに扉を二枚取り付けてしまった。加工する手間が省けたのと、キャバレーの歴史を引き継げるのが嬉しかった。扉がつくと急に完成が近く見えてくる。

津波が入って壊れた店内


きゃばれーから無事だった扉を小屋に取り付ける。

あみだ湯が暇な時には、電気湯チームが現場に遊びにきた。小屋がほぼ完成となった頃、隣の窯の方に一郎さんが作品を詰め出し、そこから一緒に窯焚きを始めた。震災以後初めての窯炊きでどうなるやら、心配事は尽きない。
最初は薪で焚き付けある一定温度までいったら、バーナーへと切り替える。切り替えた後も30分に一度薪をくべると、温度が1時間に50℃づづ上がっていく。それを仮眠をとりながら36時間くらいやると1200℃まで温度が上がる。炊き始めて3日目の朝、目標まで達し窯閉じをする。これは時間勝負の作業だ。一郎さんにレクチャーを受けイメージしていざ本番。
地震で連れたところから思った以上に黒煙が吹き出し、粘土を手に取り投げつけてそれをパテとする。なんとか塞ぎ終わった頃には、全身汗だくだった。その瞬間の達成感と一郎さん信子さんとみた朝日は格別だった。作品の無事を祈り能登を後にする。
後日一郎さんから連絡あり、作品は焼けていたものの本来の珠洲焼の黒さまでは届かなかったようだ。後少しの粘りだったのか、あのもれた煙が良くなかったのか。


地震により向かって右手の方が崩落した。


つばき保育園へぬいぐるみを



能登から尾道を1週間経由して帰ったその日、家の保育園ではぬいぐるみづくりが行われていた。小学生から大人まで総勢50名ほど。継続的にアレルギー対応のパン支援を続けている珠洲市立つばき保育園へ120名分のぬいぐるみを届けるためだ。これは僕の母とその友人が主導したプロジェクトで、募金を集めた時にも力になってくれた方々だ。行きたくてもなかなか行けない、募金でお金を僕に渡すよりは、みんなが実際に手を動かせていい。何かしたいけど、できないそんなまどろっこしい時には、手を動かすことだ。その思いのつながりがこんなに人を集めた。おおよそ120を超える数のぬいぐるみができ並んだ。最後まで残ってくれた人たちを集めて、1時間くらいの報告会も行った。



お盆に祭りと風呂づくり(8月)



8月になりお盆の週、このぬいぐるみを贈ろうプロジェクトから母と小学生の妹が珠洲に行きたいというので同行した。金沢まで新幹線で行き、そこからレンタカーをする。いきなり典座に直行する。信子さんに持ってきたぬいぐるみを見せると、とても面白がってくれた。翌日つばき保育園のアポを取って、持ち込ませてもらう。大きな250人入るつばき保育園の窓側に並べて、学年ごとに取りにきてもらった。子どもたちは元気で、喜んで一人一個持って行ってくれた。カラフルなのやわかりやすいのはとても人気があった。そんなことで母たちは持ってきたものを届けられたので任務完了。


隆起した海にへばりついていたサザエたちを集めて。


この日午後から馬緤町の方で祭りがある、とのことで行ってみることにした。典座で何度もすれ違っている奥能登芸術祭出展作家の村尾和子さんが、サザエキリコというのを作ったのでそれを担ぐという。行ってみると地元住民とボランティア団体が半々くらい。露店もあるのだが、すべてフリーでボランティアが炊き出している。サザエキリコを担いだり、ビンゴ大会があったり、歌があり、太鼓ありで見てるうちに陽が沈んできた。砂取節祭りなので砂取節をみんなで話になって踊る。そのうち隊列は浜へ降りていく。
この祭りは過疎化により去年で一度閉じた祭りだそうで、浜へ降りていくのも今年が初だという。それは海が隆起したことによって浜が拡張されたからだ。最後は真ん中に火が灯ってとてもいい感じだった。

家族が帰り週の後半、友人が2人来た。先に来た一人を空港へ迎えに行きついでに、輪島の方を見て回る。途中三井の、のと復耕ラボに立ち寄り代表の山本さんと出会う。今週の後半に手伝いに来ることを約束して別れた。輪島の市街地に行けば、仮設住宅が建設されている。高校の後輩で大工になった友人がいたので、しばらく立ち話。大工ならではのことを教えてもらったり。

作業としては、典座に小さい小屋を作ったり、あみだ湯の手伝いをしたり、
大谷町の方の建物のゴミ出しをしたり。それから復耕ラボに行って3日間、拠点の充実のためにお風呂を作ったりしていた。


大雨直前までは、蔵ギャラリーの修復と撮影(9月)


柱と貫は無事だったが、土壁が壊れてしまっていた。

また友人を二人連れて珠洲へ向かう。友人は映像と写真をそれぞれやっていて、今度東京で能登写真展を企画していた。なので取材も兼ねている。
車窓から映像を撮りながら、ゆっくり北上して典座を目指した。
翌日から典座にある蔵ギャラリーの修復にあたる。地震で壊れてしまった土壁を一度全部落とし、竹小舞を編み直す。東京の銭湯横の長屋を改修した時、竹小舞から荒壁まで佐官職人さんについて教えてもらった経験が活きた。一郎さんとみんなでおさらいして、半日ほど編んでいく。8月に馬緤の砂取節祭りでサザエキリコを出していた村尾和子さんがこの壁を直すことになっている。村尾さんは左官アーティストだが、大工仕事は得意ではないとのことで、僕に外壁の部分に合板を貼って欲しいとの依頼が来た。竹小舞が終わったら、合板を切って外壁下地を作っていく。これも1日半仕事。


さらに建物に接続してる壁の、土が落ちたところを見てみれば、雨漏りとシロアリで貫がグズグズになっていたので、新しいものに取り替えた。これでまた壁が作れるだろう。夜には須須神社で寺家のキリコ祭りが行われたり、
正院でも瓦礫の中で、町民だけのお祭りが行われていたり。能登は祭り文化だが、このタイミングで見れてよかった。あみだ湯には墨田区の電気湯から
店長の大久保さんとあやねさんが来ていた。入れ違いだねーと言いながら20日には街の中心部の飯田でもお祭りがあるとのことだった。天気のいい日は、早起きしたり、早上がりしたりして撮影に珠洲中を回った。帰りは輪島に寄って車で帰路に着く。週末には雨が降りそうだねーと言いながら。
未来は未定だから予定なんて立てられないね、と言いながら。

これが大雨で能登が大変なことになる3日前、9月18日のこと。


能登大雨被害を受けてからの動き


僕は報道などより早く情報を得るために、知人のSNSをチェックしていたが21日より大変なことになっていることを知った。22日の晩も降り続き、タイムラインが豪雨による土砂崩れや川の決壊、濁流した映像で溢れている。
居ても立ってもいれず、こんな時に動かないボランティア(自分)てなんだよ、って奮い立たせて東京での用事を済ませて24日からまた能登へ向かった。弟と呼びかけに賛同してくれた知人を連れて。

このちょっとの東京滞在のうちに、清澄白河のカフェハタメキで能登展示を10日後にやることを決めた。それ以降の動きはハタメキでの展示「さいはてのまんなか」に際し、泥かきボランティアを続ける中で、朝晩に時間を作り
リアルタイムで発表して行った。会期が始まっても帰れるわけもなく、ハタメキで展示準備をしてくれてるかおりさん、光安くんがプリントアウトして張り出してくれた。以下少し長いけれど、その時にこんな動きをしたという記録としてNOTEに残しています(泥泥泥日記0日目〜10日目まで)。



さいはてのまんなか(能登風景展)10月2日〜6日

奥能登で雨がひどくなってる22日、能登写真展の打ち合わせのためにハタメキに向かった。18日までの能登渡航でも一緒でこれを企画しているかおりさんと光安くんと一緒に。雨を心配しつつ、このタイミングでやるべきかどうか迷う。けれど突然の申し出にも関わらず、快く受け入れてくれたハタメキみずきさんが空いてる週はここだよ、と教えてくれた。10日後、、僕は2日後から能登へ行くからほとんど準備はできない。2人に聞けば、こんな時だからこそやった方がいいのでは?という話になり、この期間で開催決定。
やるしかない。この日もう1箇所展示の打ち合わせで向かったのだが、夜遅くまでスカイツリー下のカフェで粘って展示タイトル「さいはてのまんなか」とDMデザイン案を決めて、それぞれ帰る。

あとは僕がボランティアを頑張っている間に、二人が寝る間も惜しんで展示準備に徹してくれたので展示が無事開催できた。もう本当に感謝しかない。
ギャラリーではなくカフェで展示したのは、自分たちが呼べるお客さんだけでなく、街の人に能登のことを知ってもらいたかったからだ。最終日の6日には通常より1時間早く営業を切り上げさせてもらって、能登のお話会を行った。最初はパラパラだったお客さんも終わる頃には20数人集まってくれた。全く話の組み立てを考えないまま、望んでしまったのできてくれた知人友人たちの手を借りてなんとか伝えることができた。暗い話では終わりたくないけれど、どうしても暗くなってしまう部分とそれでもそこから見たい未来について。能登出身だったり、ボランティアに行ったことあったり、さまざまな能登とのつながり、興味も持った人が集まってくれていい機会になったのではないだろうか。

会期中、この活動を応援してくれる人に向けて募金箱を設置していたのだが58000円ほど入っていた。これは僕らへの応援だと受け取って、次回展示に繋いで行こうと思う。短期間の展示なのにたくさん足を運んでいただきありがとうございました。


ボランティア報告会


迷宮堂報告会その2


いつものメンバーと迷宮堂にて。

そして毎月通うのが恒例となっている尾道は迷宮堂へ。工期の中日に休日を設けているのだが、2回目となる迷宮堂報告会を行った。1回目は4月にやり、外からも人を呼んで、珠洲市の坂本信子さん、一郎さんと繋いで、発災からの現地の様子を生の声として伝えてもらった。今回は迷宮堂関わってる10人ほどを相手に、スライドでこれまでの流れと、大雨以降のボランティアイついて話をした。中には4月に一緒に能登日記てくれたメンバーも多くいた。話の最後には、もしここ尾道の山手で大雨による崖崩れや地震で裏の家の石垣がくづれてきたら、迷宮堂はどんな拠点になるのかな、みたいな話をした。もちろん度合いによってはここも使えなくなることは容易に想像できる。実際2018年の西日本豪雨では、建物の一部に土砂が流れ込んだそうだ。
せっかく4年かけて丁寧に治しているのだから、ここが使えた場合を考えて、将来的に町の商店の役割も担っていく場所として、何ができるだろうか。その時自分はどんな動きをするのだろうか。それは宿題として持ち帰る。


10月の終わりに共働学舎の信さんと


長野にいるときに、小谷村の共働学舎の宮嶋信さんから電話が来た。「婦人の友」5月号には僕のお世話になっている、あみだ湯のしんけんさんと、典座の坂本信子さん、三井ののと復耕ラボが3ページにわたって掲載されていた。共働学舎と婦人の共は大元の母体が、自由学園にある。そこで婦人の友のサポーターである友の会の方達が、全国で雑巾を1万5千枚作ったので、どこで使えるか教えて欲しいとの電話。でも現地にいないとニーズは読めないし、今必要でなければ物置スペースを圧迫してしまうので帰って迷惑になってしまいかねない。ならば一緒に行きましょうとなって、尾道と熱海の間の3日間をこじ開けて、能登へと向かった。それとせっかく行くならと、若くて体力のある子を一人と、自分は重機に乗れるから重機でボランティアできるとこを希望したので、数あるボランティア先からのと復耕ラボに決定。

1日目お昼に着いて、裏山が崩れて家にぶつかってしまっているお宅へ向かう。1キロくらい離れた場所から重機を動かし、家の裏へ入っていく。
この日は少しやって、16時くらいになったので山を降りて、輪島市街地に大雨以後初めて入る。地震と、大規模火災と地盤の隆起と土砂崩れと川の氾濫、街がめちゃくちゃだった。NPO団体が沸かす通称NPO風呂に入り、刺身と肉などを買って帰る。のと復耕ラボでは大体毎日みんなでご飯を食べ、お酒を飲み交流しいている。それも楽しみの一つだ。夜から少し雨が降ってきて、現場がぬかるんでいそうだったので、予定を変更した。
翌日、朝から輪島社協と、町野のボラセンに寄って雑巾のニーズがあるかどうかきいて回った。が、やはり一時的に必要になったとき全国に呼びかけたことにより、もう有り余るくらいの雑巾、古タオルが集まっていた。個人のとこの方がいいのではないか、とのこと。お昼過ぎに珠洲についたのですずなり食堂でご飯をいただき、一郎さんに電話した。いま珠洲焼の火入れが始まっていて、薪を作りたいのでチェーンソーを研いでほしいとのことだった。ホームセンターでやすりを買って典座に向かう。チェーンソーを研いで、多少の薪を作り、窯を見ている。夜遅くまで窯を見て寝る。
翌日に回してた重機ボラの残り仕事があるので、朝早く珠洲をでて三井へむかう。朝から15時くらいまで重機と、家のそばをスコップ隊で泥をかき出していく。1日では全然終わらない仕事だ。大きい土嚢袋が届いたら、それに土を入れて土留めにするそうだ。スコップでは到底かけない量の土砂をかき出すことができた。信さんすごい、すごいし重機の免許欲しい。
結局雑巾の使い所はわからなかったけども、喉に小骨が詰まったような状態より、一度来て貰えば気持ちの面で、済むこともたくさんある。だから良かったのではないかな、信さんも能登のいろいろな方と繋がれたし。そうして帰路に着く。


暮れてきたので、薪をくべてくれ


11月7日より東京は東村山にて、能登風景展の連続企画として
「暮れてきたので、薪をくべてくれ」を開催します。
以下展示に際しての案内文↓

この度は、能登風景展「暮れてきたので、薪をくべてくれ」にお越しいただきありがとうございます。

1月1日に発生した能登半島地震からもうすぐ1年が経ちます。地震や津波でぐちゃぐちゃになった奥能登。慢性的なボランティア不足や上下水道の復旧が遅れ、解体工事も進んでおらず、現地は問題が山積みでした。それでも遅くても、毎月毎月少しづつ街の景色が変わり、避難所から仮設住宅に人が移り、仮設食堂ができたり、能登の肝である祭りが行われ、少しでも復興の兆しが見えてきていたタイミングでした。そんな奥能登で9月、今度は大雨が猛威を振るいます。地震で助かった家も、できたばかりの仮設住宅も泥や水が入り込み、前を向き始めていた人々の心もろともへし折っていきました。なんの巡り合わせか何十年と起こってなかったことが、同じ年に2度。また家を失い、避難所に逆もどりなんて声も耳にします。地元を出ざるを得ない人たちもたくさんいます。そんな地域で知人たちは、それでもこの街で生きていくんだと思い強く持ち、日々さまざまな災害等の対応にあたってます。また安心してこの地に住めるように。

2021年に出会った奥能登、テントを背負って旅した時に本当にみんなに優しく声をかけてもらったのが能登での原体験です。今度はこちらが何かできることがあるのなら返していく番だ、と思い3月から毎月通ってボランティアをしています。大雨を受けてその3日後には現地に戻り、泥かきをしたりと。でもまだまだ人手不足で、家屋の泥出しなどが追い付かぬまま、また冬がやってこようとしています。混乱の最中、濁流の列島のさいはてで、澄んだ空。炊き出しを続けるあの人も、灯台のようなあの人も、薪で沸かし続ける銭湯も、瓦礫の闇夜で行われたあの日のキリコ祭りも、まんなかには常に人の熱がある。僕ら自身もできることに限りはあるけれど、薪の一つにでもなれたらなって、

あ、そろそろ今日も、
暮れてきたので、薪をくべてくれ。

展示 薪をくべてより


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